第1話 史佳の後悔
軽く行きます。
「ゴホッ!ガッ!!」
咳が止まらない。
先週からひいていた風邪を遂にこじらせてしまった様だ、こんな事なら病院に行けば良かった。
まだまだ若いつもりでいたが、気づけは30歳。
自堕落な生活してれば体力が落ちてくるのは当たり前よね。
「...寂しいよ」
布団に体を巻き付け踞くまる。
築40年を越える安アパートで一人暮らしの30女。
部屋には誰も居ない、連絡したところで心配して来てくれるような優しい友人も...
冷蔵庫の中に入っているのはビールとスーパーのお惣菜、あとは冷凍食品くらいか。
食欲が無かったので、ここ最近ろくに食べて無かったな。
幸い今日は土曜日、明日も仕事は休みだ。
なんとか2日で体を治さないといけない、こんな時結婚していたなら、きっと薬と食事を用意してくれただろう。
優しく微笑んで、
『ご飯出来たよ、食べたら薬を飲んでね』
そんな事を言ってくれるんだろうな...
「...馬鹿」
そんな優しい主人なんか居ない。
結婚どころか、あれから恋人すら作らないでこの歳まで来たんだ、こんな馬鹿げた妄想をするなんて。
「...政志」
一人の名前を呟く。
幼馴染みの平井政志。
彼は私にとって最初の彼氏で、初めての男性。
あのまま付き合っていたなら、きっと結婚して、今は幸せだったのに。
「...何を考えてるの」
そんな人を裏切っておきながら、自分の勝手な考えに吐き気がする。
高校一年から本格的に交際を始め、大学二年まで私達は付き合っていた。
しかし、私は19歳の夏に過ちを犯してしまった。
別の男と遊んでいる所を政志に見られてしまったのだ。
相手は同じ大学に通っていた一つ年上の下素野満夫。
下素野は私と政志が通っていた高校で、政志の所属していた野球部の先輩。
野球部のマネージャーをしていた私との交流もあった。
大学から違う学校に進んだ私達はなかなか会えなくなった。
その一方で下素野は大学のサークルに私を誘い、一緒に行動する事が増えて行った。
奴は事ある毎に私を口説いた。
『俺...ずっと史佳の事が...』
最初は相手にしなかった。
下素野は面倒見の良い政志の先輩で、私は恋愛対象で奴を考えた事は無かった。
なにより、政志を裏切る事なんか出来ない。
しかし、政志と会えない寂しさを紛らわす内に、私は下素野と遊ぶ様になっていた。
裁きの日は突然訪れた。
忘れもしない大学の夏休み、野球特待生の政志は大学の強化合宿で会えないのを良いことに、私は泊まり掛けで大学のサークルメンバーと海水浴を楽しんでいた。
「...史佳」
「嘘...どうしてここに?」
ビーチバレーをしていた私達の後ろに呆然とする政志が立っていた。
「...ここで強化合宿してたんだ」
「そ...そうだったの」
その頃には連絡も余りしなくなっていたので、私は全く知らなかったのだ。
「よう平井」
「下素野先輩...」
必死で言い訳を考える私に下素野が近づく。
奴は私の腰に手を回した。
「そういう訳だ、悪いな」
「...なるほど」
展開に頭が追い付かない、政志が立ち去ってから、慌てて奴の手を払いのけるが、既に政志の姿は無かった。
政志を探そうにも、どこで泊まっているか分からない。
携帯電話も着信拒否をされ、メールも、ラインも全部ブロックされてしまっていた。
「帰ります」
下素野やサークルの仲間を残し、ホテルで着替えを済ませると家路を急いだ。
自宅には寄らず、私は政志の家に走った。
『誤解を解かなくては、
まだ下素野とそんな関係ではないのだ』
頭の中はそれで一杯だった。
「あら史佳姉さん、政兄なら合宿だけど?」
政志の家に着き、呼び鈴を鳴らすと彼の一つ下の妹、紫織ちゃんが出てきた。
「ま...政志に連絡を!!」
「どうしたの?連絡なら自分でしたら」
「出来ないのよ!」
呑気な紫織ちゃんに叫ぶ、狼狽える私に何かあったか察したようだ。
紫織ちゃんは自分の携帯電話を取り出した。
「ちょっと待ってね」
「...うん」
政志が出たら代わって貰おう。
大丈夫、私と政志はずっと一緒だったんだ、今まで色々な危機を乗り越えて来たんだから。
「...分かった、じゃ」
「な...なんで切るの?」
しばらくして通話を切る紫織ちゃん、私を見るその目に軽蔑が滲んでいた。
「兄さん話したくないってさ」
「どうして!?」
「下素野先輩...下素野から兄さんの携帯に連絡があったって、『史佳は貰った諦めろ』って」
「嘘よ!」
なんでそんな嘘を!!
「写真もたくさん来たって、アンタの肩を抱いてるのや、頬寄せて笑ってるのも」
「そ...そんな写真撮った覚え...」
なんで?そんな事した覚えなんか...
「...あ」
「覚えがあったみたいね」
冷えきった紫織ちゃんに目を合わせられない。
確かに覚えがあった、でもそれはふざけていた所をサークルの仲間に無断で撮られた物だ。
消すように頼んだのに、なんでアイツが持ってるの?
「...ふざけるな!!」
「し、紫織ちゃん」
「気安く呼ぶな!!」
紫織ちゃんの怒鳴り声に身体が強ばる、こんな事って...
「お願い...信じて下素野と何も無いのよ」
「『今は』でしょ?バレなきゃずっと続けるつもりだったんでしょ!」
「そんな事...」
「悪いけど信用出来ない」
「そんな...」
「兄さん...最近寂しそうだった...史佳が試合に来てくれないって」
「あぁ...」
そういえば、最近は全然政志の試合を見に行って無かった...
「...もう二度と来ないで、私達に近づかないでくれる?」
「そんな!」
扉が閉まる。
こうして愚かな私の行動で恋は終わった。
その後、下素野やサークルの連中から話を聞いた。
奴等は私と下素野を引っ付けようと企んでいたのだ。
奴等と絶交し、サークルを辞めた。
その後も下素野はしつこく私に付きまっていたが、冷たく突き離し罵倒すると奴は激昂し私を刺した。
幸いにも傷は浅かったが、当然大問題となり、奴は捕まり大学を退学となり、姿を消した、その後は知らない。
しかし、一連の事件は尾ひれが付いて一気に広まってしまった。
『浮気した挙げ句、下素野を弄んだビッチの私が刺された』
酷い噂だ、しかし昔からの友人達は離れて行った。
私と政志が別れたのは事実で、その原因はその通りだった。
大学を卒業した私は逃げる様に親元をから遠く離れた会社に就職を決めた。
以来、私は殆ど実家に帰ってない、怖いのだ。
政志の事は両親から聞いた。
あれほど期待されていた野球を辞め、普通に大学を卒業したと。
『あれだけ好きだった野球をどうして辞めてしまったの?』
当たり前だが聞けなかった。
以来8年、人と付き合うのを最低限にして、生きて来た。
親しい友人も居ない、恋人なんか作る気にもなれない。
そんな資格なんか私には無い。
政志を、あんなに好きだった彼を裏切ってしまった私には...
『政志はその後どうしたのだろう?』
『私なんかと付き合ってしまったばっかりに彼の人生を台無しにしてしまった』
『そもそも私は政志にとって疫病神だったんだ』
頭の中を後悔が駆け回る。
頭が痛い、どうやら本格的に不味い、病院に行かなくては...
「...う」
布団から這い出そうとするが、身体は動かない。
救急車を呼びたいが...携帯はどこだ?
「...政志、ごめんなさい」
遠退く意識、最後に浮かんだのは彼の顔だった...
☆☛☆☆☛☆☆☆☛☆☆☆☆☛☆☆☆☆☆☛☆☆☆☆☆☆☛
「...おい、おい史佳」
誰?まさか誰か救急車を呼んでくれたのかな?
「しっかりしろって」
どこかで聞き覚えのある...まさか?
「お、やっと起きたか」
「ま...政志?」
視線の先に居たのは政志、それも懐かしい中学の制服を着た若々しい彼の姿だった。