009 私があなたを幸せにする
(なんだか、首が痛そうだ)
身長差があるため、カリスと目を合わせるのに、サイアは上を向いている。
「わたしがか?」
変なところに意識が引かれる。カリスの気は散ったまま、まだ戻らない。
(いかん。肚に力を入れろ)
「どうしてそう思う? サイア嬢の目にそのように写ってしまうとは、わたしは何かサイア嬢に不安を与えるようなことをしてしまったのだろうか」
表情を完璧にコントロールして微笑み、心を込めて、目でも優しく笑うようにする。瞳も揺らさない。
「わたしは無理などしていないよ。無理をするというのはあなたのことだろう。これまでも、伯母上から多少は聞いているんだ」
カリスが揶揄うように優しく言い諭しても、サイアは真剣な表情のまま黙って首を振るだけだった。信じないということらしい。
(まいったな)
「降参だ、サイア嬢。仕方ないな。正直に言おう」
「はい」
「怒らないでほしいんだが」
「はい」
サイアは決してカリスから視線を逸らさなかった。何事も見逃さない、というような真剣な眼差し。怖いほどにカリス一人に集中しているのが分かる。
カリスはほんの少しだが心の奥のほうで、なんだかくすぐったいような感覚を覚えた。
「わたしが考えていたのは、あなたの華奢さだよ。わたしはこの通り大きいだろう? サイロウの者は男女ともに体格のいい者が多いのだが、わたしはなかでも背が高い方だ。あなたはとても小さいからな、本当にもう少し育つのかと、失礼にも考えていたんだ。それとも、まさか、もう成長は止まってしまったか?」
「いいえ、まだまだ成長期です、これからもっともっと、私の背はまだまだもっと、伸びるんです!」
最初は黙って聞いていたサイアだったが、途中で首を横に振り、成長は止まってしまったのあたりで両手を拳に握りしめ、小さく上下に振りながら、食い気味に否定の声を上げた。どうやらサイア本人も背の低さは気にしているようだ。
年若いのだから仕方ないことなのに、カリスはわざとそこに触れてしまった大人のずるさを、すまないな、と心のなかでこっそり謝っておく。サイアはさらに言い募っている。
「背を伸ばすのには、干した小魚を丸ごと食べるのがいいって、研究結果が出たそうです! それにミルクもいいって! それらを毎日摂取して、そして、毎日適度な運動をするといいんだと! 私、それを知ってから毎日欠かさず行っております! それにそれに、今、学舎でマギがお胸を大きくするには何が必要かって研究しているんですよ!」
「マギ?」
「はい!」
そんな研究テーマは学舎にしかあるまい、とカリスは遠い目になるのを堪えた。格式高い学院ではあり得ない。
サイロウは、少し学者たちを野放しにしすぎているのだろうか? 学院の者にたまに言われる台詞がカリスの頭をよぎったが、そのときと同じように否定する。
研究とは自由な精神でのびのびと行ってこそ、思いがけない成果が得られるのだ。この研究だって、将来なにがしかに化けることだってあるかもしれないじゃないか。これまでだって思いがけず生まれた学舎の研究結果から、たくさんの資金源が生まれており、それがサイロウを豊かにしてきたのだから。
「マギ嬢とはあなたの友人か? マギ嬢の研究テーマがそれなのか?」
カリスは立ち止まってしまったサイアに優しく手を差し伸べて、庭園を進むようさり気なくうながし、完璧なエスコートで歩みを再開させた。
(しかし、胸か)
カリスは視線を向けないように細心の注意を払った。……確かにぺたんとしている。
これもサイアはまだ年若いのだから仕方ないことだと思ったが、気にしていそうなので、絶対にそれには触れないようにしようと、カリスは心の内に記しておいた。
でも、本当に育つのか?
会話を途切れさせないように気を配りつつ、ゆっくり歩く。
「いいえ、マギのテーマは護岸と生態系の関係です。そのフィールドワークのときの漁師さんの話から、小魚とか海藻とかの栄養が成長に有用だって気づきがあったみたいで……それで……ほかにも……」
サイアはあれ? と言いたそうな顔をした。カリスは思わず優しく微笑みかけていた。
以前抱いていた将来の義弟妹に向けた気持ちと、今覚えた温かい気持ちと。それを元にして想いは育てていけるだろう。
「それはよかった。研究とはどこからどのように繋がるか分からないものだし、閃きも大事だと言うからな。……先ほどの話だが、わたしは多少、不安を覚えているよ。あなたは敏感にもそこを感じ取ってしまったようだね。不甲斐ないことですまなかった。あなたとは年も離れているし、ほら、体格もこんなに違う。あなたは今はわたしに不安はないのかもしれない。でもこの先はどうだろう。わたしたちのこの差が、いつか問題を起こすことがあるのだろうか、とね」
実際に心にあったことを話し、もう一つの本心を覆い隠す。こちらは絶対に洩らす気はない。胸の話も洩らさない。
「わたしは今さら若くはなれないし、違いがなくなることもない。それならば、互いの差を知ろうとすることが肝要なのだろうな。無理をして自分を偽り合わせるのもよくないだろう。そんなことを考えていたんだ」
エスコートしているサイアの手を、反対の手で軽く一瞬押さえて、すぐに離した。
「だから、無理をしているのではなく、無理をするのはよくないと考えていたわけだ」
「そうなのですか?」
本当に? サイアは何かすっきりしないような、じれったそうな顔をした。
「ふふ」
「どうなさったのですか?」
「いや、サイア嬢に気遣われるのは悪くないと思っただけだ」
カリスを見上げたサイアの顔がなぜか突然真っ赤になった。カリスは不思議に思ったが、サイアに支障がある風ではなかったため、まあよいかと流した。
「だがこの無理をしないというのは、わたしにだけ言えることではないよ」
カリスは真面目な顔を作ってサイアと目をしっかり合わせた。
「サイア嬢、無理せず自分らしくあるというのは、自分の能力を最大限に発揮するためには、思っている以上に大切なことなんだよ」
「いいえ! 無理はします!」
サイアは絶対に譲らないとばかりに声を上げた。二人の歩みがまた止まる。
「だって無理しなきゃカリスさまには届かないもの! 今だって……! 私は絶対にカリスさまが欲しいんです! 死にもの狂いで手を伸ばさなきゃ!」
「いや、だからな……」
「いいえ! それに、私の望みはもっともっと高いところにあるんです!」
「望み?」
じりっと一歩距離をつめてきた、一途で、思ったよりも激しい一面を見せているこの子の望みとはいったいなんだろうか。
「私はカリスさまを幸せにしたいんです!」
「え? わたしをか?」
「はい!」
カリスは意表を突かれた。
「わたしがあなたを幸せにするのではなくてか?」
「私があなたを幸せにします!」
サイアは笑みのない真剣な眼差しをひたりと据えて、カリスを見上げてきた。
「だって私はカリスさまが好きなんです! カリスさまを愛しております! だから、幸せにするのは私なんです! それは、もちろん、カリスさまが周りの人を、私のことも、幸せにしてくださる方なのは分かっています! でも、私がカリスさまを好きなんですよ!」
あまりの勢いに口が挟めないなんて、カリスは珍しい体験をしていた。
「大好きです! カリスさま! 私があなたを幸せにします! だから、どうか私と結婚してくださいっ!」
カリスの淀みがちだった心のなかを、風が吹き抜けていったかのような気がした。