007 その努力は……
サイアはよほど恥ずかしかったのか、今は俯いて微かに震えているようだ。小さく縮こまっているうえに、カリスとはかなり身長差があるので、座っていても見下ろすようでほとんどふわふわの黒髪しか見えない。ほんの少しのぞいている耳が赤く染まっていた。
ライナード伯爵は娘の失態を詫び、改めて話の経緯や事情を説明していった。ワムルやトーリだけでなく、脇腹をカリスに打たれたヤルトも神妙な顔つきでそれを聞いている。
(若いな……)
伯爵の話によると、夫妻が娘の気持ちを初めて知ったのは、カリスにマナリとの話が出たときで、話を聞いたサイアの態度から分かったそうだ。
(学院に逃げた四人目だって七つ年下だったが十六にはなっていた……)
なんといってもサイアはカリスより十も年下だ。そのときだとまだ十歳にもなってはいない。同年代の相手との婚約ならばまだしも、国でも評判の麗しの貴公子に対して抱く、ほんの小さな子どもの憧れで、すぐに現実を知るだろうと、周囲の大人が相手にしないのも当然の話だ。
(そういう対象として、考えたこともなかった……)
だがこのときすでにサイアはこれ以上ないほど本気だった。すでに通い始めていた学舎はサイロウの領都にある。学長であるカリスの伯母を口説き落とし、その伝手でサイロウの城にいるカリスの弟のヤルトをも巻き込み、マナリに会うことに成功すると、サイアなりにマナリを見定めて、諦めたくないと心に決めた。
そこからは、それまで以上に学舎での勉強に力を入れ、カリスの役に立てる自分を手に入れるという目標に邁進するようになった。万が一想いが届かなくとも、側にいられる立場を手に入れるためだ。サイロウは実力主義。女の身でも任官の機会は与えられる。
カリス以外はいらないと、心定めたのだ。
学長もヤルトに話を通しこそしたものの、所詮は十にもならない子どもの言うことだと懐疑的だった。だがサイアの変わらず努力し続ける真剣な態度を認め、侯爵家で通用する淑女教育をサイアに施すほど絆されていった。サイアが多言語を習得したいと願うとそれにも協力した。度々カリスにサイアを褒めて聞かせたのは真実そう思っていたからだが、協力の一環でもあったようだ。
ヤルトとその婚約者のケーナもそうだ。たかが子どもの憧れと、簡単に切り捨てられるような薄っぺらい努力ではなかった。年が足らなくても、その恋を一生一度の真剣さで温めて諦めないサイアを見ていると、応援したくなってしまったのだ。
だが、親としてはそう簡単な問題ではない。十歳違う、というのは王国の適齢期を迎える年代においてはとても大きい。ましてや未だ月のものも迎えていないのだ。話にならないと、度重なるサイアの願いにも、ずっと首を縦に振らなかった。
そのあいだもサイアの努力は続いていた。マナリがカリスを裏切り、かと思えば王女が現れ、心は千々に乱れても、それでも絶対に諦めず努力し続けた。
真剣なその姿を見せつけられ続けた伯爵夫妻はとうとう音を上げた。本当に本気なのかと聞くようになり、少しずつ態度を軟化させ、そうしてついには、月のものがきたら考えよう、と口にするまでになった。
マナリが侯爵家からいなくなったとき、サイアは十二歳、もういつ来てもおかしくなかったし、伯爵夫妻も覚悟を決めて、色々と準備に動き始めた。
サイアはとても喜んだ。より一層、学舎での勉強、それを修めたあとは研究に、淑女教育にと熱を入れた。各国の歴史や地理、そのほかの教養科目にも精を出した。
それなのにまだこない。確かにこういうことには個人差があるものだ。だが、それでもだ。
カリスは歴史あるサイロウ侯爵家の継嗣であるし、事情があって年齢も高めだ。これはサイアにとっては猶予を与えられたということだから有り難いことであるのだが、跡継ぎの作れない未成熟な状態では願い出ても一蹴されてしまうかもしれないという有り難くないことでもある。
そうしてじりじりと日が過ぎて、十三歳の誕生日が近づいてもまだこない。本人だけでなく、秘かに準備を進める伯爵夫妻もだんだん焦りを感じるようになっていった。もう駄目かと思うこともあった。
だが、無礼で傲慢なその伯爵令嬢が、踊らされて馬鹿な真似をして、サイロウ侯爵家とカリスにとんでもないほどの無礼を働いた。希望は甦ったわけだが良かったとは思えなかった。そのときには相手にだけではなく自分たちにも怒りを感じた。なんで間に合わなかったんだ、という気持ちにさせられたからだ。
ライナード伯爵夫妻にとっても、カリスは子どものころからずっと息子同然の存在だったのだ。
そうして、ようやく迎えたのが、今日この日だ。
「ここまで赤裸々に申し上げましたのは娘の本気を分かっていただきたかったからなのでございます。確かに娘は未だ十五にもなっておりませぬ。ですがその心は真剣そのもの、浮ついたところなどどこ一つとっても見当たりませぬ」
ライナード伯爵は笑みも浮かべぬ真剣な表情で言い募った。それに対してワムルはいつも外で見せる、感情の読み取れない整った顔で返した。
「サイロウの苦境に付け込んで、上の娘が駄目ならば下の娘を押し込んだ、ライナード伯爵家はそう周囲の誹謗を受けるかもしれない。それを乗り越えて婚姻が長く続いたとて、今度は後妻と間違われサイア嬢は陰口を叩かれるかもしれない。そのことについてはどうお考えかな」
娘を茨の道に追いやるのかと、荒ぶりもせずごく平坦な声で淡々と、だが、鋭く切り込むようにワムルは問うた。伯爵はそれを視線をそらさずに、真正面から受け止めた。
「それは少しも心配してはおりませぬ。なぜならば、わたくしはカリス殿を正しく評価しておるからでございます。カリス殿は素晴らしく有能な青年、当代一の婿がねでございます。実の父親である閣下にそれを説くなど烏滸がましゅうございますが、わたくしは長く娘の婚約者として、将来の義息子として、カリス殿と親しく接して参りました。そのなかで、わたくしは事実として知っているのでございます。カリス殿がその気になれば、そのような些末事、軽々と蹴散らしてくださることでございましょう」
「息子次第、と言いたいのか」
「さようでございます」
そこでライナード伯爵はにっこりと微笑んだ。
「ですからわたくしは娘にこう申しました。カリス殿が本気なら、サイロウ侯爵家はもちろんのこと、我が家も、お前自身のことも、何者からも守ってくれるだろうと。カリス殿が、本気でお前を大切だと、愛おしいと思ってくれるのならば、と。……この話には政略など一筋も絡んではおりませぬ。ですから最後はカリス殿のお心次第。最後はお前自身でカリス殿を口説き落とさなければならないよ、と、そう申しました」
ですからこのたびは本人を伴って参ったのでございます、とライナード伯爵は続けた。
ワムルは、くっ、と、楽し気に笑い出した。身内以外の者がいるなかでは、常にないことだった。
「これだから、わたしは昔からリカルのことが好きなのだ」
「とても光栄でございますよ、ワムル様」
ライナード伯爵リカルもとても楽しそうに笑った。そしてひとしきり笑いあうと、リカルは続けて主張した。
「オトリオ女伯爵とナイラド子爵には、此度の件で娘は大変よくしていただきました。本当によく援けていただきましたので、一門のご当主たるワムル様には、是非ともお礼を申し上げねばと固く心に誓って参りました」
カリスの伯母と弟は、サイアの想いを認め、後押ししてくれている存在なのだと、重ねて訴える。ワムルはまた、声を上げて笑った。
「ヤルト、リカルには気をつけねばならんぞ。人の良さそうな見た目で油断させて、気づかぬうちに利用されるぞ」
「少しでも娘にたくさんの武器を持たせねばと必死なのでございますよ」
カリス殿はそれだけ強敵なので、としれっと言い返す。
「最後は娘は独力でカリス殿にぶつからねばなりません。その前にできる限り娘の印象を良くし、我が家の印象を良くし、皆様方のお心を惹きつけねば」
大切な愛娘のためにわたくしは頑張っておるのです、とリカルはにっこり笑った。
カリスはサイアを連れて、サイロウ侯爵家の美しく整えられた庭園を案内することになった。貴族として未婚の男女が二人きりというわけにはいかないので侯爵家の使用人のほかに、サイロウ侯爵夫人とライナード伯爵夫人も、声が聞こえない程度の距離をおいて侍女たちを引き連れて散策する。
母親同伴のようでなんともいえない状況だが、仕方がない。
控えていた従者に開けさせたテラスに続く大きな窓から、カリスは侯爵令息として完璧なエスコートを見せて、サイアを外へと連れ出した。そのとき、広間に残ったワムルとヤルト、そしてリカルの声が聞こえてきた。
「ヤルト、お前にはあとで聞かねばならんことがたくさんあるようだな」
「父上、それは……」
「姉上とお前が知る話が、なぜわたしの耳に届かなかった?」
「いや、あの……」
「ふむ、お前は心のうちが表に出やすいようだ。いい機会だ、鍛えなおしてやろう。しばらくカリスに付いて学ぶか?」
「よろしいのでございますか!」
「いや、これはお前を喜ばせるだけであったな。撤回する。よし、トーリに鍛えてもらえ」
「えっ! そんな、喜ばせておいてすぐ落とすなんて、なんて高度なテクニックを……」
「これでも父親だ、お前のことは把握している。トーリは侯爵夫人として申し分ない社交術を持っているぞ。良く学べ」
「よろしゅうございましたな、ヤルト殿」
「……そんな」
カリスが手を貸さずとも、ヤルトは鍛えなおしてもらえるようだ。