006 もう子どもではない
鍛錬はあとで必ずするとして、とりあえず居心地が悪そうなサイアに助け船を出す。
「サイア嬢は学舎では優秀な成績を残しているそうだね。伯母上から聞いているよ」
「えっ」
「ほう、そうなのか。姉上が褒めるとはなかなかないことだが、期待しているのだな」
「はい、父上。そのようで」
カリスはその場を軽く掌握するように、話しかけたり、視線を向けたりして、全員で会話が楽しめるように誘導した。
ワムルがすぐにそれに応じてくれたので、カリスは次に伯爵に話しかける。
「ライナード伯爵には誇らしいことでしょうね、『植林における植生分布の考察』、あれはサイア嬢の学舎での研究成果でしたね」
「そうなんですよ!」
娘を褒められた伯爵夫妻は嬉しそうに破顔した。皆の視線はサイアからは外れないが、これなら場の空気はサイアには心地良いはずなので、一息ついて落ち着けるだろう。
そう思ったのだが、サイアの顔はさらに赤くなっていた。
(この話題も駄目なのか?)
まあ、振ってしまったものは仕方がない。カリスはそのまま進めていくことにした。サイアもしばらく会話から外れていれば落ち着くだろう。
「我が領でもキノキーロとあと二カ所、試験的に導入した経過を学舎のほうへ戻すようにしているところです」
「先日、わたしのほうへも報告がきていたな。……あれはサイア嬢の研究成果から始まったのか。年若いのにすごいものだな。確か精霊樹の結実率が高まる傾向が見られるとか」
「キノキーロは最初に導入したので、ほかより顕著ですが、まだはっきりとした数値には出ておりません。植林事業は成果が出るまで時間のかかる分野ですから。ですが森人は感触は良好だと言っています」
「それは期待が持てるな」
「はい、父上。それに、植生分布に手を入れることで土壌が安定するらしく、山肌の崩落率も下がるようなので、山間の多いサイロウではかなり有用な研究です。わたしも期待を持って注視しております」
「……そうだな」
ワムルは身内のみに見せる優しい表情で淡く微笑んだ。それだけ付き合いの長いライナード伯爵夫妻を信頼しているのだろう。
サイロウ侯爵家では、領内の災害対策にはかなり気を配っていた。
代々サイロウ侯爵家の嫡男が後を継ぐ前に名乗る子爵位キノキーロは、サイロウの中でも山の奥地にその由縁となる土地があり、そこは貴重な精霊樹の生息域だ。
ただしそちらは秘匿されていて、対外的にはかなり離れた麓の地をキノキーロと称している。数は減るがそこにも精霊樹は生息している。
キノキーロ一帯は土壌が脆いのか、土砂災害が起きやすく、サイロウではずっとその対策に苦慮してきた。
効果があるのなら、そして領内のほかの地にも応用できるなら、とても助かることだ。
「ライナードでも導入実験はしているのですよ、カリス殿。ですがライナードは平野部が多いので、精霊樹は生えませんのでな、森の恵みが増えないものかと期待をしているところです」
「ああ、ライナ茸ですか?」
「そうです」
ライナード伯爵が嬉しそうに微笑んで言った。隣で夫人もにこにこしている。
ライナ茸とは主にライナード伯爵領の森に産する高級きのこで、その美味しさと、養殖が難しいことからくる希少性のために、需要に供給が追いつかず高値で取り引きされている。
収穫量が増えるのであれば、ライナード家としては諸手を挙げて歓迎するだろう。ライナ茸は干すことで長期保存が可能なので、いくら増えても、ライナード伯爵家で市場を調整することもできる。
「ですが娘は災害対策のほうを優先して研究したいと言っておりましてな」
「だってお父さま、やっぱり被害が出るのを防ぐほうを優先して研究したいと思うのは当然ではありませんか。それに森の植生のほうは、きちんと別の者が引き継いで研究しておりますし」
「このようになかなか頑固でして」
ライナード伯爵が娘が可愛くてならないという顔で笑った。サイアが自領を優先しないことは特に気にしていないようだ。
カリスは、伯爵家の人々は相変わらず気持ちのいい人たちだと思った。
「サイロウとしてはとても有り難いお話ですわね」
「そうですね、母上。サイア嬢、感謝するよ」
「はっ、はい!」
「それにわたしは才能と人柄を兼ね備えるというのは珍しいことだと知っているよ。学舎には少し変わっているのもいるからね。サイア嬢は本当に素晴らしいと思っている」
「あ……ありがとうございます!」
サイアは少し落ち着いたのかうっすらと赤味の残る顔で、本当に嬉しそうに笑った。見ている者を温かい気持ちにさせる幸せそうな笑顔だった。
サイロウ侯爵夫妻も思わずにっこりと微笑み返していたし、最近は強いストレスにさらされて張りつめていたカリスの気持ちもほっと緩むようだ。
ヤルトがなぜかニヤニヤしてサイアを見ているのが視界に入った。
(何を笑っているんだ?)
ワムルやカリスが外で王家や国内外の他家と交渉するあいだ、留守を預かる立場のヤルトは、あまり王城や中央の政治に関わらないためか、二人に比べると外での感情表現が豊かだ。表情に出やすいとも言うが、今も内心が表に出てしまっている。
(少し鍛えてやらないといけないな)
ヤルトは気に入った相手には少しばかり意地悪げに振る舞う傾向にある。一番標的になっているのは婚約者のケーナで、ヤルトをよく知るケーナとは互いにやり合って、勝ったり負けたりいつも楽しそうにしていた。
ヤルトに好かれているのにその標的にならないのは、サイロウ侯爵夫妻と兄のカリスのみだ。家族相手には敬愛の気持ちが先にくるようだ。
どうやらヤルトはサイアを気に入っているらしいとカリスは思った。見た目より気難しいヤルトには珍しいことだ。サイアをすっかり身内扱いしているようだった。
まあ、カリス自身もライナード伯爵家の人たちは、今でも身内同然に感じている。長きにわたって両家の交流は深められてきたのだから、それも当然なのだろう。
「どうした? ヤルト」
だが、他家の淑女を見るのに相応しい表情ではないので、カリスはヤルトを注意した。
すぐにヤルトはその言葉の意図に気づいて表情を引き締めて言った。
「いえ、なんでもありません、兄上。……そういえばライナード伯爵、今日は皆さんはサイロウ侯爵家に何かお話があっていらっしゃったのでしたね」
「おお、そうであったな。ライナード伯爵、どうぞ気兼ねなく話していただきたい。聞く前から良い返事はしかねるが、長い付き合いの両家の間柄だ、遠慮は無用ですぞ」
「ありがとうございます、閣下。大変寛大でお優しいお心遣いに、心から感謝申し上げます」
ライナード伯爵がさらに姿勢を正してワムルに対すると、隣で夫人もスッと背筋を伸ばした。サイアも先ほどの笑顔は影もなくなり、またもひどく緊張した顔で口元が固く引き結ばれている。顔色は青白くなっていて、カリスは何をそんなに心配しているのかと不思議に思った。
「そして、サイロウ侯爵閣下のお優しいお言葉を受けまして、我らライナード、心からの願い事がありますことを正直に申し上げます」
ライナード伯爵家の三人の緊張感が伝わってきて、サイロウ侯爵夫妻も何事かと少し警戒心が出てきたようだ。黙って伯爵の顔を見つめ、その言葉の続きを待った。
「我が娘のサイアを、どうか、カリス殿の結婚相手としてお考えいただきたく、伏してお願い申し上げます」
ライナード伯爵家の三人は揃って頭を下げて願い出た。
「……」
「えっ」
「わたしの……?」
考えてもいなかった話にサイロウ侯爵家の三人は一瞬思考が止まってしまった。案内してきたヤルトは知っていたようで、部屋の中でただ一人平静な様子だ。
「娘は女ながらに進取の気性に富んだ性格をしておりますが、領内に学舎を擁し、様々な新しい知識を取り込んだり作り出しているサイロウ侯爵閣下並びにご一族の皆様方ならば欠点とは見做されないことと存じます」
「まあ、それはその通りではございますわね……」
ワムルとカリスに考える間を与えようというのか、トーリが返事をした。
「実は娘はカリス殿を恋慕っておりまして、学舎にて研究をしておるのも、カリス殿のお役に立ちたい一心のことでして、親馬鹿をさらすようでお恥ずかしいのですが、その様がとてもいじらしく、叶えてやりたいと思いまして、こうして願い出た次第」
「ですが、ライナード伯爵、サイア嬢はうちのカリスとは年のころがだいぶ違うように思いますけれど、その……」
王国では、貴族の初婚の男女の年齢差は五、六年がいいところだった。男性が二十から二十一歳のとき女性が十五歳というのが限度というのが不文律としてあった。
これは、女性の初経が十歳から十三歳ころに訪れることから、十分子孫を設ける準備が整ったと見做されてから結婚という考えからきている。王国の女性は華奢な体つきの者が多いせいか初経も遅れがちで、余計にそういう雰囲気が強い。女性は十五歳を過ぎてから二十歳になるまでが所謂適齢期である。
それに対して男性の適齢期は緩めとはいえ二十歳前後だ。まあ例外としては相手の年齢が十五歳を超えるのを待つために二十二歳になって結婚というような具合だ。
それ以上となると、何か事情を持っていると勘繰られるようになるので、体裁が悪い。カリスの場合は、ほぼ全ての事情が秘密の話として知れ渡っているので、そこまでとやかくは言われないだろうと思うが。
カリスはもうすぐ二十四歳、十歳年下のサイアはようやく十四歳。そのため例のリストにはサイアの名前は載っていない。
どうりでライナード伯爵が書状で伝えてこなかったはずだ。微妙で繊細な問題をはらんでいるため、直接会って伝えたいと思うのも理解できる。
後妻でもない限り、十も年の差がある夫婦は王国にはあまりいない。後妻であれば、十どころか二十歳差もいるのだが。
そのうえ実際に見るサイアは姉のヒリアよりもまだまだ背が低く、年より幼げに見えた。……本当に初経を迎えているのだろうか?
その疑問を感じとったのか、サイアは大声で宣言した。
「私っ、先日、初経を迎えました! もう子どもではありませんっ!」
またもサイロウ侯爵夫妻とその嫡男は固まった。
ライナード伯爵は黙って天を仰ぎ、伯爵夫人は見ていられないというように両目を瞑る。
そしてヤルトは堪えきれないように噴き出した。
可哀想に、思わず口走ってしまったサイアは両手で自分の口を押さえ、大きな目をさらに見開き、凍りついたように動かなくなった。
混沌とした空気のなかで、とりあえずカリスは大声で笑っているヤルトの脇腹に手刀を叩き込んで、笑うのをやめさせておいた。