004 四人目の顛末
カリスの四度目の婚約がまたも公にはならぬまま潰えたことで、個人的にカリスと親交の深かった王太子のサハルは、内々に王都のサイロウ侯爵家を訪ね、あくまでも非公式にではあるが実際にカリスに頭を下げて詫びてきた。このときカリスは二十三歳になっていた。
「王妃殿下を止めることができず、本当にすまなかった……」
「事がなされたあとで、サハルに謝られてもな……」
「分かっている。だが本当にカリスにはすまないと思っているのだ……」
サイロウの本邸の広大な庭にある東屋で、カリスはこのとき一人王太子サハルの秘やかな訪問に対応していた。サハルは本当に最小限の信頼する護衛のみを連れて、周りに知られることのないよう細心の注意を払ってサイロウ侯爵家にやって来た。そして自らの護衛に止められながらもカリスと二人きりでの話し合いを望んだ。
カリスはこれまでのサハルとの交流を鑑み、これに応じることにして、サハルの護衛の目の前で自らの武装を解いてその場に置き、サハルもまた同様にしたうえで、それぞれの護衛や側仕えすら遠ざけて東屋での二人きりの会談となった。
ここはサイロウの邸なのでサハルの不利は否めないが、それでも自ら足を運んだことはサハルが最大限の誠意を示そうとした表れだ。
カリスとサハルはいわゆる幼馴染みの間柄で、はじまりは国の思惑による交流であったが、年も立場も近いため、いつしか建前だけではない、立場を越えた親しさを互いに感じるようになっていた。
だからこそ、サハルには実の母である王妃とのあいだに隙間があり、両親である国王夫妻と完全に思惑を一にしているわけでもないことをカリスは知っていた。
「そうは言っても今回のことは、さすがにひどいのではないか?」
「……すまない……」
サハルはもう一度深く頭を下げた。心置きなく詫びるためにも、どうしても護衛を遠ざけて二人になる必要があったし、それは城では不可能だった。実のところ、サハル本人もこの件について、これはない、と思ったのだ。
マナリのことで王家がミハイルに肩入れしたことや、そのあとナーミをサイロウ侯爵家にと申し入れたところまではまだいい。
サハルはカリスの能力をかっていたし、また、妹を任せても安心できる人物だと、ずっとその人柄についても高く評価していた。妹は母親である王妃の影響下から離したほうがいいと常々思っていたし、それには信頼のおける男に任せるのが一番だと考えていた。正直サハルは妹を帝国に嫁がせるのは不安だった。だからこの年上の親友が自分の義弟になってくれる将来があるならそれは最良の状況だと、心から喜んだ。
たがそれも相手にわだかまりがない場合に限るのだ。
マナリの件からナーミの話までは、少しばかりごり押しの誹りを免れないだろうが問題なく受け入れてもらえるだろうと踏んでいた。サイロウにとっては不利な話では決してなかったし、実際サイロウ侯爵家は王家の意向を受け入れた。
サイロウほどの優秀な貴族であれば、隣国や王家との関係性、自家の利などをしっかり計算できるものだ。
王家が押し切ったことで害した気分はその後の気遣いで取り返せる。そうした王侯貴族の繊細な機微をサイロウ侯爵家は解さないような家では決してない。
そこまでは問題ない。
だが、そこからあとには問題しかなかった。
サハルの信仰心については一般的な水準で厚い、と表現するに尽きる。父親の国王も同様だ。王国および複数の国で国教の立場を不動のものとしている精霊神教に対する気持ちも一般的なものだ。日々精霊に祈り、人生の節目でまた祈り、精霊に見守られつつ今世の命を閉じ、精霊神の御許に戻る。精霊神の御前で恥じぬ行いを日々とることを心掛ける。それで十分だと思っている。
サイロウにおける人々の信仰心も同様だ。これがパントルート大陸における一般的な信仰のあり方なのだ。
だが王妃とその薫陶をこれでもかと受けたナーミは違う。ある意味狂信的なまでに信仰心が厚い。だから、サイロウ侯爵家が二年というナーミ王女の巫女の任期を待たないという返答を寄越したことに納得せず、その決断の重みを理解しないのだ。自分たちのなかの神教の重みが強すぎるため、他者へもそれを意識せぬままに強要してしまう。
国王はサイロウ侯爵家の拒絶の意図するところをすぐに理解した。神教への対応を王妃に任せてしまった己の愚を悔やみ、これ以上押してはサイロウを徒に怒らせることになると、これは可愛い娘の心からの願いであっても叶えることはできないと判断した。
王家がサイロウ侯爵家へのナーミ王女の降嫁を真に望むのであれば、神教への根回しを行いサイロウ侯爵家そしてカリスの立場をきちんと押さえるべきだったのだ。
それができなかった以上、この件はもう諦めるしかない。だから、サイロウからの断りを受け入れた。
サハルはこの段階でもすでに王家の不手際を心から恥じていた。サイロウ侯爵家には高位貴族としての資質を要求するかのごとき要望を突きつけたのにも関わらず、自らはそれを満たせないなど、貴族の上に立つ王族としてあり得ない失態、これ以上を望むなど、恥の上塗りだと思った。
国王の判断は当然のことと納得したし、なぜもっと早くに王妃に対して手綱を引いてくれなかったのかと不満に思ったくらいだ。
いずれ折を見てカリスに謝らなくてはならない。そして妹には良縁を見つけなければ。そう考えていた。話はこれで終わったはずだった。
「いつの間にか王妃殿下が神教の学院に手を回していたのだ……」
芯から疲れたような顔をして、サハルが説明する。
すでにサイロウ侯爵家の体面に傷をつけてしまったことを、王妃は理解しなかった。時間さえ稼げば、最終的にはナーミを受け入れると思っている。
カリスの四番目の縁談の相手は幼いころから向学心に満ちた人間だったが、その両親は女の幸せは結婚にあると考える質だった。そのため娘の進学したいという願いよりも結婚の話を優先した。向学心は結婚したあとでも満たせるが、このような条件の良い縁談は二度とないという判断からだ。
その伯爵夫妻と令嬢との価値観の差を王妃は突いた。学院の側から秘かに連絡がとられ、本人が出奔する形で学院に身を寄せてしまったのだ。王妃の学院へと話を持っていくそのやり方は大層巧妙であった。
「わたしと結婚したら自分のやりたいことができないなど、そんな不寛容な夫になるつもりはなかったんだが……」
結婚前からそんなことを言い出せなかった相手の気持ちも理解できないとは言わないが、結婚しても両立する術をともに模索するという方法がなぜとれなかったのかと、カリスは思わずにはいられない。
実際サイロウ侯爵領には、貴族のみ受け入れる神教の学院とは違い、平民にも門戸を開いてはいるものの学びの場は存在する。平民を受け入れていることと内容がより実践的なほうに寄っているために、学院よりも格は落ちるとされているが、その目標とするところが違うだけで決して中身で劣るものではないと、サイロウ一門は自負している。
サイロウ侯爵家が率いるのは武のサイロウ一門と称されることが多く、実際武に偏る一族ではあるのだが、武略というのは突き詰めて言えば知略なのだ。ストイックなまでに勝利を求めるが故の旺盛で貪欲な知識の収集癖。それもまた武のサイロウの一面だ。
それを知っていたからこそ、向学心の強い娘の嫁ぎ先としてサイロウ侯爵家は望みうるなかで最高の選択だという伯爵夫妻の令嬢への愛情は、当の本人に届いていなかった。
伯爵夫妻は事態を把握し、王妃が絡んでいることを知り、すでに極秘裏に娘を連れ戻すことは叶わないと悟るや否や、サイロウ侯爵家へと這いつくばる勢いで詫びたものだ。
伯爵夫妻はきちんと令嬢が納得するまで話すべきだった。令嬢もそんなに出奔するほどに心を残していたのなら親に意見をきちんと伝えるべきだった。そうしていたら家族で話す過程で互いの考えは共有され、こんな事態は起こさずにすんだはずだ。
貴族の娘が出奔するなど、醜聞にもほどがある。いくらカリスとの縁談がまだ公にはなっていなかったとはいえ、サイロウ侯爵家ほどの高位貴族の動向など知る人は知る状態であったし、今後彼女は貴族との縁組は絶望的だろう。伯爵家もその係累、婚家に至るまでサイロウの怒りを買ったと目されることの悪影響は計り知れない。
その点に関しても、評判のよい王国貴族に徒に傷をつけたと、サハルは王妃に対して怒り心頭に発していた。王妃の暴走を止められなかった父の国王に対しても思うところは当然ある。
「これもわたしの不徳の致すところなのか……」
カリスには、若い身空で将来の選択肢を大幅に潰された令嬢に対しては、怒りよりも憐れみのほうが勝っていた。未だ道理を弁えない子どもだったのだと思うからだ。ただ、貴族にあってはそれは許されることではない。
カリスはだんだんと、最近の度重なる出来事は自分が悪いのではないかと、自尊心が揺すぶられる思いが兆しそうになってきた。
だが、いや、と踏みとどまる。自分に矜持を持てなくなってはお終いだ。自分の能力、人格に矜持を持つ。これは傲慢に振る舞うのとは違う、自信を持つために努力することを怠らないということの表れだ。
また、家族や周囲の愛情や信頼を裏切らない行為でもある。
「今回の責任は王家にある。カリスにはなにも問題などない。伯爵家についてはこちらで考えなくてはならないことだ」
サハルは威儀を正し改めてカリスに詫びた。会談の始めに詫びたのはサハル個人。これは王太子サハルとして。
余人を交えない環境を整えることができたので、サハルは王族の心得からは外れていてもはっきりと王家の責任を認めることで詫びにかえた。ことの経緯を王家の口からきちんと説明し、非公式にでも王太子のサハルが認めることでサイロウ侯爵家も気持ちを収めざるを得ない。
多分国王ともそのあたりは話してきたのだろう。ただ、自分の考えとして、さらにはカリスに個人的に話す形をとることで、謝罪した責任の所在を自分のみにとどめているのはさすがと言える。この有能さをもっと早く発揮してほしかった、とカリスは思った。
カリスから見た国王は優秀ではあっても王妃と王女に対して判断が甘すぎるというものだ。サハルに対しては王太子としてかなり厳しく鍛え、接しているので、その差を不思議に思う。だが王妃と王女の気儘を抑えられないようでは国の先行きが非常に不安である。サハル王子には頑張ってもらわなくてはならない。
「……サイロウの名に泥を塗られた以上、伯爵家の苦境に関してサイロウは手を貸さない。発表前のことであり、手を出すこともしないが。ただし、この件はサイロウ侯爵領の者も知るところ、彼らの感情を押さえるまではしない」
サハルの誠意に応えてサイロウが積極的に報復することはないと明言する。ただ、サイロウの領内には不満がわだかまっていることは伝える。今回、カリスの面子はちょっと考えられないほどに潰されたのだ。敬愛する領主一家の嫡男を貶されたと受け止めた一族から領民に至るまで、サイロウの怒りの深さは如何ばかりか。
これをわざわざ止めるような真似はできない。だが行き過ぎれば逆にサイロウの評判を落とすことになる。……そこは細心の注意を払わねば。誰を動かすべきか、カリスは脳内でその人選を考えるべくリストを捲った。
「……感謝する」
「……サハル殿下の御扱いゆえ」
王太子殿下の調整に免じて王家に対して大きな貸し一つ。これが貸しで済むのか、それともサイロウ一門離反の要因となるかは、今後の王家の対応次第。
互いに口には出さぬまま認識の共有は行われ、サハル王子は速やかにそして秘やかに王城へと戻っていった。
カリスはサハルを見送ったあと、疲れたように一度深く息を吐いてから、当主へと報告するために側仕えにワムルの居場所を確認させ先触れをたてさせた。