003 三人目の……
「まったくもって、愚かな娘ですわ!」
トーリはもともとサイロウの分家筋の出だ。サイロウの血筋というのは大抵が武ばったもので苛烈な性質の者が多く、身内に情が厚い分、外には大層厳しい。それが、息子のカリスが蔑ろにされ、しかも言わば一旦身内に入れてからの裏切り行為だ、相当に怒っていた。
そんな状態ではあったが怒りを表に出すのはごく限られた身内に対してのみだった。
マナリの嫁入支度も侯爵令嬢として恥ずかしくない以上のものを、侯爵家の伝手と侯爵夫人として培ったトーリのセンスを余すところなく使い、細心の注意を払って用意した。
マナリは聡い娘だ、トーリの怒りを感じとらないわけもなかったが、感情に引きずられずに不足なく世話をする侯爵家の、理性的で、高貴な身分ある者としての矜持あふれる対応に感謝し、自分の責として受け止めた。
こうしてトーリは侯爵夫人としての資質を遺憾無く示し、外の者に内心を悟らせず、マナリの輿入れ後の今もつきあいを絶やさぬように気をつけている。
今、サイロウ侯爵家の養女は実家と婚家を結ぶよき架け橋としての役割をしっかりと果たしている。帝国はサイロウにとって地政学的に重要な位置にあるのだ。
向こうにはサイロウ侯爵家に対し負い目ができた。実際、帝国相手の貿易で交渉中だった案件ではカリスは大部分サイロウ有利の条件を勝ち取っている。その他の分野でもしかるべく、だ。
転んでもただでは起きぬのが優秀なよき貴族というもの。
もちろん騒げば騒ぐほどカリスに余計な関心が集まってしまう、という事態を避けたということもある。サイロウ侯爵家の余裕を見せつけるのがリスク管理としては最良だ。
だが外に漏れない家族のみの場であれば話は別である。母親を気遣ってか内でもあまり口に出さない息子に代わり、トーリは激しく罵り厳しく責める。
とはいえ問題はカリスの結婚である。この時点ですでに二十二歳、適齢期を二年過ぎていた。
もちろん女性ほど厳密な適齢期があるわけではないが、なんの問題もない名門貴族の跡取り息子の結婚があまりに遅いのは外聞が悪い。それにカリスには弟が一人いる。次代においてカリスの補佐を務める弟であり、すでにサイロウ侯爵家がいくつも持つ子爵位の一つを継ぎ経験を積んでいる最中で、幼い頃から婚約者がいた。つまり後ろがつかえているのだ。
カリスは領都にある城での弟のヤルトと交わした会話を思い出した。
「色々とすまないな」
「兄上が謝らなければならないことなど何一つもありませんよ」
「……領内の様子はどうだ?」
「マナリのせいで叔父上の評判は大分落ちてますよ」
「……帝国の皇子妃だ、外では気をつけるようにな」
カリスとよく似たサイロウらしい容貌のヤルトはふん、と鼻を鳴らした。ヤルトもマナリのことは許していないのだ。敬称も付けずに呼び捨てた。整った顔だちに蔑みを浮かべると妙に迫力がある。ここにマナリがいればぐさぐさと見えない非難の矢が突き刺さっていたことだろう。カリスは身内の温かさを噛みしめた。
「外面はいいほうですから。今は兄上しかいませんからね、大目に見てください」
ヤルトは礼儀は弁えていると示すように、カリスに向かっていとも優雅に礼をとって見せた。
「兄上は領内でも特に人気者ですからね、それはマナリも叔父上もひどい言われようですよ」
「おまえだって人気があるだろう」
「有り難いことにね。まあ、我らサイロウは領のために日々努めてますから」
サイロウの領主一家は代々支配地をより良くしようと工夫を続けてきたので、領民からは愛され慕われているのだ。
「……でもまあ叔父上も叔父上の家も特に政策上での失態があったわけではなし、領内での母上の評判はいいですからね、その実家ですからそこまでは……。ただ帝国についてはもとからうちは反帝国の気風が強いですから、そこは行き過ぎないように、手の者をきちんと動かしてます」
「そうか……。ケーナ嬢は今回の件で不安がってはいないか?」
カリスがヤルトの婚約者を気遣うと、しかめていた顔を緩めてヤルトは柔らかく微笑った。
「きちんと話してますから大丈夫ですよ。王国とは違ってサイロウでは婚約者の組み換えなんて人情味のないことはしないとね」
カリスはほっと息をついた。ヤルトと婚約者のケーナはとても仲の良い似合いの二人だ。ここに波風を立てたいとは微塵も思っていなかった。
何かが表情に出てしまったのか、ヤルトが慰めてくれた。
「……大丈夫ですよ兄上。兄上はいい男ですからね! マナリなんかにはもったいなかったんですよ! 兄上には似合いのいい女が絶対にいますから! 絶対に!」
「……」
「慰めを言っているわけじゃない、本当のことです!」
「……」
カリスの複雑かつ繊細な男心は対外的には全くないものとして完璧に取り繕い、サイロウ侯爵家では、養女の教育と並行して嫡男の結婚相手の再選定に入った。帝国に対する配慮を示すために養女の輿入れまでは正式に発表することは控えるべきだが、内々に進めておくに越したことはない。
しかしそこで問題が生じた。王家からの横槍だ。
王太子のサハル王子はカリスの二歳年下で、その妹のナーミ王女はさらにその三歳下だ。カリスより五歳年下ということになるが、この王女がひそかにカリスに想いを寄せていたのだ。
ナーミがカリスを見初めたときにはすでにカリスには婚約者のヒリアがいて、その仲の良さを直接見知っていたために想いを口にすることはなかった。
だがそのヒリアはカリスとの結婚を前にして亡くなった。
悲しむカリスには心から同情するものの、ナーミは千載一遇のチャンスをつかんだのだと思い、すぐに両親である国王と王妃、そして兄サハルに相談した。
王家としてサイロウ侯爵家に伝える一番良いタイミングを計っていたのだが、それが裏目に出てしまった。マナリがあれよというまに現れてサイロウ侯爵家で花嫁修業を始めたのだ。
拙速でもまずは伝えるべきだったと国王夫妻は自らの手際の悪さを悔やんだし、人の不幸を喜ぶような真似をしたから罰が当たったとナーミは嘆き悲しんだ。一度は望みに手が届くと思っただけに、絶望は深かった。サハルもなんと慰めるべきかと悩んだほどだ。
だがそこにミハイル皇子がからんできた。
隣国の皇族であるミハイルは幼い頃から特使という名目で王国を度々訪問しており、そのときたまに王都に忍んで出ていたりもしたわけだが、王家の子どもたちとは順調に交流を深めていた。子ども時代を過ぎてからは直接王国に訪問することは滅多になくなっていたが、そのなかでミハイル皇子はナーミ王女と友人関係を築いていた。ただ周囲の期待を裏切ってそこに恋愛感情はなかった。最初は互いに幼なすぎたし、その後はミハイルの心の中にはマナリが、ナーミの心にはカリスがいたからだ。
ナーミはミハイルの想い人の名がマナリであることを知って、サイロウ侯爵家でマナリという名の少女が花嫁修業をしていることをミハイルに知らせ、そこから紆余曲折を経て、最終的にミハイル皇子がサイロウ侯爵家を訪問するに至ったのだった。
カリスの二度目の婚約話はこれによってなくなった。
このあたりの王家の動きについては、王家から知らされたわけではない。サイロウの手の者が調べあげた。サイロウ侯爵家側もこの件を知っていることをはっきりとは伝えていない。
王家からの申し入れは、あくまでも婚約者のいないサイロウ侯爵家の嫡男に対して王家の姫はどうか、というものだった。
「陛下にも困ったものだ。王妃と王女に甘すぎる」
「……」
王家の提案から始まったこの話の顛末を考えるたびワムルは呆れた気持ちになるし深いため息もでる。
夫と息子の前でマナリのことをけなしまくるトーリはナーミの件では終始無言を貫いている。だがマナリのときよりもずっと目つきは冷えている。まるで極寒の地のような凍てつき具合だ。
内々に王家からの要望が伝えられて、もちろんサイロウでは面白くないという気持ちがあった。だがそれでも貴族らしい配慮と打算のもと受け入れた。
王国に馴染んできたとはいえもとは独立国のサイロウは、権威も財力もそれから武力も、他の貴族家からは抜きんでたものがある。それだけに王家とのつきあい方には慎重さが求められ、今回王家から望まれた縁談を断るのはサイロウ一門に利をもたらさないと判断した。
カリスはよく教育されたとても優秀な侯爵家嫡男だ。貴族の結婚とはそういうものだときちんと弁えていた。自分の気持ちは自分自身でけりを着けることで表には出さず、ことこうなったなら、ナーミ王女に心を寄せるべく努力をし、両親のような幸せな家庭を築こうと気持ちを切りかえた。
それなのに、この話もうまくいかなかった。カリスにはなんの落ち度もない。それは王家の問題だ。
ナーミ王女が精霊神教の巫女として立つようにと宣託を受けてしまったのだ。
王国国内の貴族は誰もが知っている、けれどまだそのときには公表されていなかったナーミの縁談。予定ではマナリの輿入れのあと、間をおかずすぐにナーミとカリスとの婚約を発表し、王女はサイロウ侯爵家に入ることになっていたのだが、この宣託のせいでそうはいかなくなった。
宣託と言っても真実神のお告げがあるわけではなく、国を越えて信徒をもつ精霊神教が各国の皇女や王女、大貴族の令嬢などを指名して二年ほど務めてもらう持ち回りの名誉職のような意味合いが強いものだったが、それだけに一度宣託が公にされると断るのは難しい。普通は支障があるようなら事前に神教のほうへ根回しをするものだ。このとき各国はそれぞれ別のさまざまな理由から根回しを行っていた。だが王国ではそれをしていなかった。
ナーミ王女にサイロウとの縁談があることを把握していなかった神教は、ほかからの根回しによる事情に配慮を示し、特に支障がないはずの、大層熱心な信徒である王国の王妃の娘を指名した。つまりこれは王家の不手際なのだ。
王家からはあと二年待ってほしいとサイロウに対して再度要望が伝えられたが、今度はさすがにはっきりと断った。あまりにも蔑ろにされすぎている。大事な嫡男を、そして名誉あるサイロウ侯爵家を馬鹿にするにも程がある、ということだ。
このような配慮を欠く行為を受け入れては、今度は国内外からサイロウが侮りを受けることになる。サイロウ侯爵家はカリスの年齢を理由にして断りを入れ、王家はこれを受け入れざるを得なかった。
そうしてカリスの四度目の婚約者探しが始まった。
ここまでくると評判の良いカリスであっても、すでに年齢の合う令嬢は結婚したり婚約していたり、なかなかに難航した。それでも貴族としての歴史は浅いが裕福で評判の良い伯爵家の、これまた才女と名高い年若い四女との縁談が組まれた。
少し年のころは離れているが許容範囲、今度こそ滞りなく進むと思われた。それなのに婚約に至らなかった。
王家がひそかに横車を押したのだ。