002 二人目の顛末
それは三年前、カリスが二十一歳のときのことだった。
歴史あるサイロウ侯爵家の贅を凝らして整えられた王都本邸の広間に、侯爵家の者の先導を受けて若い男が入ってきた。隣国の第三皇子ミハイル殿下。カリスより三歳年下の十八歳で、王国へは特使としてたびたび訪ねてきていた。王家のナーミ王女とはよい年回りで、そのためだろうと思われていた。
広間にすでに控えていたワムルは頭を低くして出迎えた。合わせてその後方に従っていたカリスと、カリスの五歳年下の従姉妹マナリもそれぞれ礼をとって出迎え視線を下げる。トーリはこのとき所用のため邸を留守にしており、ミハイル皇子の訪問に間に合わずこの場にはいなかった。
ミハイル皇子が落ち着いた足取りで中央の椅子に腰掛ける。次いで皇子につき従ってきた二人の護衛がその背後に控えた。
「どうぞ頭を上げてください。このたびは私の我が侭を容れてくれたこと、大変感謝しています」
高くも低くもない落ち着いた声だ。
ワムルがその声に従って頭を上げた。カリスとマナリはまだ頭を低くした姿勢のまま。それがこの国の礼儀だ。
ワムルやカリスならともかく、今の従姉妹では身分が足りず会うのも難しい相手だった。カリスがパートナーとして夜会に伴い挨拶をするという形をとるくらいしかない。
そのミハイル皇子が本人の希望でお忍びという体裁ながら侯爵家に自ら足を運ぶ。実際には国王配下の者に幾重にも守られながらの訪問だった。王城で対面したことはあるが、邸に迎えたのはもちろん初めてのことだ。
「お言葉を賜り、またお気遣いをいただきまして光栄至極。ミハイル皇子殿下におかれては何事か当家に御下問あるとのこと、我が国の陛下より殿下のお気持ちになるべくそうてほしいと仰せつかっております。非才なる身にてお応えできるとは限りませぬが、尽力いたす所存」
ワムルの声を聞きながらカリスは王城からの帰りの馬車のなかでの会話を思い起こした。
ワムルにもカリスにもどうしてこのようなことが起きたのか思い当たることはなかった。
隣国とサイロウ侯爵家にはサイロウが独立国であったころ、今ではサイロウ侯国時代と呼ばれることが多いが、そのころにまで遡る蟠りもないではないため警戒せざるを得ない。だが今の時代ではすでに差し障りのある関係ではなくなっていたし、新たな問題の発生も把握していない。
手の者に調べさせようにも、登城後すぐに国王の私室に呼び出され、午後からミハイル皇子が侯爵家の邸に訪問したいとの要望があるからもてなしてほしいと頼まれたため、急ぎ戻って体裁を整えるくらいしかできることはなかった。
このような性急な訪問を受け入れなければならないなど、サイロウ侯爵家ほどの家格であれば拒絶することも考えられたが、決して悪い話ではないと国王に言われたため受け入れたのだった。
ただ、このときカリスは同席していた王太子、サハルの雰囲気がなんとなく気にかかっていた。
「そのように警戒することではない、と思っているのですが」
こちらの不信を察しているのだろう、ミハイル皇子が言った。
「そちらの二人も頭を上げてください。こたびは本当に非公式の訪問なのです」
頭を上げる。装飾を抑えた衣装を身にまとい椅子に腰掛けたミハイル皇子を見る。お忍びということで地味な色味に抑えられてはいるが、素材や仕立ての良さは明らかで、本人の高貴さも明らかだ。金色の髪が窓からの陽光に照らされてきらめいていた。
一瞬遅れて隣で従姉妹も頭を上げた。息をのむ気配がする。ついそちらに目をやった。
マナリが息を止めてミハイル皇子を凝視していた。
「マナリ」
小声で叱責する。無礼として咎められるようなことがあってはマナリが可哀想だ。
名目上は礼儀見習いとして侯爵家で預かっていたマナリは、まだ侯爵家が求める水準では礼儀作法を修得できていなかった。それは単純に始めた時期が遅いからであって、本人の資質に問題があるわけではない。
問題どころか非常に優秀な彼女は、礼儀作法も教養科目も基本はすでに押さえており、それ以上の部分についても早晩完璧に自分のものとできるだろうと思われた。そうしたら。すでに決まっていることとはいえ、きちんと申し込むべきだろう。女性にはそういう気遣いが必要なのだと、仲の良い両親の普段の様子を見て育ったカリスは自然とそれを学んでいた。だが。
「マナリを叱らないでください。彼女を驚かせてしまった私が悪いのです」
ミハイル皇子は立ち上がってマナリの前まで来ると手袋に包まれた彼女の手をとって言った。
「久しぶりだね、マナリ。覚えていてくれてとても嬉しい。あのときの約束通り、迎えに来たよ」
カリスの目の前でマナリの表情が驚愕から段々と歓喜へと変わっていく。
息が止まるかと思った。
だが、そのとき公の場では一切表情を変えないことで知られるワムルが、やはり表情は変えぬままその瞳にのみ感情をのせて、カリスを気遣わしげに見ているのに気がついた。
カリスは負けを嫌うサイロウの男としての意地と矜持にかけて、自分の感情をちりとも表に出さぬよう肚に力を込めた。瞳にも感情は出さない。
そうして再度ワムルと目線を交わすと、カリスは平静な姿を完璧に取り繕い、その場に控え二人の様子を細心の注意を払い窺った。
ミハイル皇子からの申し出を受けた後の一年間、侯爵家では全力をあげてマナリを教育し磨き上げることに注力した。
王国にとって大事な同盟国である隣国の皇子殿下の要望を拒絶するなど覚悟もないままにできることではない。ましてやまだマナリを公式に婚約者として披露する前のことだった。……そしてマナリ本人の気持ちもミハイル皇子にあった。
マナリは精霊禍の前から、孤児院で受けられるもの以外にも母親からできる限りの教育を受けていたようだった。幼いころに出会ったミハイル皇子はマナリに対して名乗らなかったらしいが、それでも貴族様といった上位の人間だと察したマナリはあり得ない未来と思いつつも掴めるものならその未来を掴む機会を逃したくないと思っていたのだろう。
侯爵家からの打診を受けたときも、マナリのなかにその打算がまるでなかったとは言えない。
カリスが見誤ったわけだ。これはカリスの未熟が招いたこと、自業自得の状況だと思った。それなのにマナリを責めることが出来るほどカリスの矜持は低くはない。それにはじめのうちはカリスもマナリのうえに婚約者だったヒリアの面影を重ねていたという自覚があった。
そんな事情でマナリは侯爵家に来る前から一般的なマナーはすでに修めていた。それに加えて侯爵家での二年の高度な教育、それを基礎としてさらにそのうえに積み重ねるようにして、王族に嫁いでも恥ずかしくないと曲がりなりにも言える水準にまでとにかくマナリを磨き上げた。
それに応えられるマナリはとても優秀な女性だった。それでも不足している部分はミハイル皇子が補うべきだ。
身分の問題を解消するためにマナリを侯爵家に養女として迎えるための手続きを進め、サイロウ一族としてもミハイル皇子や帝国との交流を深めた。
サイロウ侯爵家から義娘を嫁がせるという利をできるだけ高くとるのは貴族として当然のことだ。
そうしてミハイル皇子がサイロウ侯爵家の王都本邸を訪ねてから一年後、マナリは十七歳で帝国に嫁していった。マナリの母親も一緒に移住した。
そうしてサイロウ侯爵家の怒濤の一年間が終わった。