交渉は荷物を犠牲に
人種と言っても、その数は10万人を超える。女神たちは人数を全て把握しているわけではないため、国はどのくらいあるのか、獣人種や亜人種とはどういった関係にあるのかなど、細かいことはわからないらしい。
ではなぜ、人種と魔人種が戦争をしているのがわかるのか訊ねてみたところ、地上には天界――今オレがいるこの場所の事だ――と通信するための器具があるのだが、それを通じて人種と魔人種の間で戦争が起こっていることを知ったらしい。
ではなぜ戦争が起こっていても、女神たちは何もしないのか。
「私たちは世界を整えることはできても、戦争を止めることはできないわ。何が火種になったのかがそもそもわからないし、その火種がわかっても一度ついた炎は消すことが難しいの」
他にも創造神から、地上に干渉することを禁止されている、と言っていた。
地上に干渉すると、今日まで築き上げてきた文化や歴史が崩壊してしまう危険性があると考えられているからだ。いや、この言い方は正しくないな。実際に一度、崩壊したことがあるから、干渉を禁じられているんだ。
地上のどこかに、創造神が干渉したせいで崩壊した都市が、遺跡として残っている場所があるらしい。
なるほど、行く機会があれば行ってみよう。
「世界を整えるってつまりどういうことです?」
「そうねぇ……戦争によって崩壊してしまった生態系を元に戻したり、焼けてしまった森を復活させたりすることかしら」
女神は簡単そうに言ってはいるが、人間にとっては難しいことだ。
崩壊した生態系など、人間がどれだけ頑張っても10年や20年、はたまた100年くらいはかかってしまうからだ。
そうだな……例えるなら、ホタルはどうだろうか。
人工的に川をコンクリートなどで埋め立てて、溢れさせないようにしているせいで、川からホタルが消えていき、昔はホタルが見られたのに今では全く見られなくなった場所がある。
そこは今では、昔のようにホタルが飛び交う川にしたいと思っている人間たちが、あの手この手でホタルを復活させようとしているが、10年経っても20年経ってもホタルのいた川に戻すことができない……そんな感じかな。
「さて、大まかな説明はこれくらいにして……他に何かしてほしいことはあるかしら?」
「こういう時は欲を出しすぎると、ろくなことがないって相場が決まってるんで……」
「……今ならその荷物を譲ってくれれば、あなたの望む職業やスキルを付与してあげる……って言ったらどうする?」
……ほほう。この雨水にまみれたリュックを欲しいとおっしゃるのですか、女神様は?
中身は土砂降りのせいで、無事ではないと思うのだが、それでも欲しいとおっしゃるのなら渡そうと思う。
「残念ながら、土砂降りのせいで中身がビショビショになっている可能性があるのですが、それでも?」
オレの問いに、女神は目を爛々とさせてゆっくりと頷いた。
その様子を見た俺は、リュックを肩から下ろし、机の上に乗せると女神の目の前に動かした。
「ふむ……実はこれは独り言なんですけど、オレは道化師に憧れていてですねぇ……ステータスを偽装したり、魔法を使った大道芸をしたりして、色々な人を楽しませたいと思っているんですよ。それでですねぇ、そんな職業やスキルがあれば良いなぁ、なーんて思っているんですよねぇ」
女神が俺のリュックに夢中になっているところで、独り言を呟いた。
そう、あくまでも独り言だ。だから、この言葉に答える奴はいないはずなんだ。おいそこ、わざとらしいとか言わない。
「私のこれも独り言だけど、特別な職業である『道化師』と、大道芸に必要なスキルがちょうど余っているのよねー。天使が対応した男の子たちは、沢山ある職業の中から『勇者』だけを選んで行ったけど……もしかしたら使いこなせる人がここら辺にいるかもしれないのよねー」
女神は独り言の最後に、「それはもう、運命のように」と呟いていた。
まあこれも独り言だ。別にオレがとやかく言う必要は全く無いし、それが欲しいとは思っていても口に出してはいけない。
これは賭けの一種なのだ。
もしこの言葉に反応してしまえば、次に出てくる言葉は多分、「あら、私は何も言ってないわよ。それで、用件はもう無いわよね?」とはぐらかされてしまうだろう。
だが、後もう一押しで何とかなりそうだ。
だからオレは、最後の切り札を、自身のズボンの左ポケットから取り出した。
「これはどんなに遠くに離れていても、会話ができる便利な道具なんだけど、女神様はオレのリュックの中身だけで十分だよなぁ……もし女神様がこれを改良できたのなら、多分だけど男神と連絡が取れるようになるんじゃないかと思ったんだが、不必要だよなぁ」
今の人間なら知っている……そう、スマートフォンである。
オレはスマートフォンを眺めながらチラッと女神の方を見ると、彼女の目はスマートフォンに釘付けになっていた。リュックを抱えたままで、だ。
異世界の物だから珍しいのはわからなくもないが、それでも少し欲張りすぎではないだろうか?
「……ゴクリッ」
女神の喉から、生唾を飲み込むような音が聞こえた。
右に動かしてみる。すると、女神の瞳も一緒についてくる。
左に動かしてみる。すると、先ほどと同じように、女神の瞳はスマートフォンについていった。
ぐるっと回してみる。あ、なんか面白い。
「……んんっ!」
「……ハッ」
イライラしているのか、腕を組み人差し指でトントンと音を立てている天使は、女神の様子を見て咳払いをした。すると、スマートフォン……いや、スマホに釘付けだった彼女は我に帰ると、顔を赤らめながら姿勢を正した。
こうしてみると、天使が保護者で女神が子供に見えるな……いやホント。
「コホン……もしそのスマホを譲って頂けるのなら、もう一つだけ願いを聞き届けても良いと考えているのよねぇ」
チラチラとこっちを……いや、スマホを見ながら言われても困るのだが。
「仮にもこれはオレが撮った、元の世界の思い出も詰まっている物なんだ。『くれ』と言われて簡単に渡せるものじゃないよ」
「だから!一つだけ願いを聞き届けてあげるって言ってるじゃないの!!」
「……本当にそれでいいのか?」
我慢できなくなったのか、女神は机をバンッと叩きつけ、乗り上げるようにしてオレに詰め寄った。その瞳からは、焦らされたことによる怒りの感情と、興味のあるものを目の前にされて興奮した感情が見て取れた。
が、オレはそれを真っ直ぐに見返して言う。もう敬語とかそんなのは関係なくなり、タメ口になったが、お互いに大事なことだから、もうそれすら気にならなくなっていた。
「女神として、本当にその答えで合っているのか?」
「……何よ!不満なの!?」
売り言葉に買い言葉、今にも胸ぐらを掴みあい、殴る蹴るの暴行事件に発展しそうな時……
パァンッッ!!
風船の割れたような、かつ真っ直ぐで濁りのない音が響き渡った。
音の発生源を探すと、女神と向かい合うようにして座っていた天使が、両手を合わせた状態で座っていた。
先ほどの、のんびりとした雰囲気はどこにもなく、戸惑いの混じっていた瞳はオレと女神を真っ直ぐと捉えていた。
「マーテル様」
間延びしていた話し方とは打って変わり、凛とした言葉で女神の名を呼ぶ。
「何……よ……」
先ほどとは違う天使の様子に、女神はオレに詰め寄った勢いのまま天使の方へ向いたが、天使の目を見た途端に萎縮したように自分の席へと戻った。
それを見た天使は、一つ溜め息を吐くとオレの方へ向き直って言った。
「カタル様、無意味な賭けはしないでください。死ぬ死なないはあなたが決めるべきことですし、そもそも我らは暇では無いのです」
初めてオレの名前を呼んだ天使の意見に、初めて女神の姿を見た記憶を思い出したオレはぐうの音も出ない。しかも、賭けをしていたことすらバレているとは……『無意味』は余計だけど。
「それなのに、あなたは図々しく生き延びようとあの手この手でマーテル様を言いくるめようとし、あまつさえ異世界の道具で釣ろうとする……愚か者のすることですね」
「え、ありがとうございます?」
「褒めてません!!」
周りが震えたように感じるほどの怒声……ふざけた回答はしない方が吉か。
でもなー……オレは事実、愚か者だし。っていうか、愚か者じゃなかったら、「道化師なぞになりたい」なんてふざけたこと宣わないし……。
天使の瞳には、怒りの感情。そして哀れみ、後は……あれ?この感情は……いや、それは後回し。今はこの状況を打破することを考えねぇと……どうすっか。