幼馴染みの話
毒親、という言葉を知っているだろうか。
子供の人生を支配し害悪を及ぼす親。
何をするにも親の顔を伺がわなくてはならない。
私には毒親をもつ幼馴染みがいる。
名前はおかぴ。
恋愛も母親に邪魔され働いたお金も殆ど持っていかれ彼女は青春時代を家の家政婦、母親の奴隷として過ごしていた。
子供の頃、幼馴染の家で遊んでいた私はなぜおかぴはあんなにもおばちゃんに怒られているんだろうかと不思議でならなかったが中学に上がる頃には彼女の母親は私から見ても常軌を逸していた人だと分かった。
幼馴染のおかぴとは三つの頃に出会い、以降今に至るまで親交がある。
同じ団地に住んでいた事もあって私たちはよく互いの家を行き来していた。
いつ頃からだろうか、恐らく小学校二、三年の頃からだと思う。
おかぴは家族のご飯を作り初めた。
最初のきっかけはたまたま作ったカレーから始まる。
子供番組の中で同い年くらいの女の子が料理を作るコーナーがあって、おかぴはそのコーナーが好きだったと言う。
カレーなら作れるかもしれないと作ってみた所初めてにしてはよく出来たらしく母親や家族にとても喜ばれたんだとか。
その頃は既におかぴの母は再婚をしていて弟も生まれており男尊女卑の思考が強かったおかぴの母親は弟を大変可愛がった。
おかぴと彼女の姉は二人の実親にとっていらない子供だった。
事実おかぴと姉は一度施設にいれられている。
望んで生まれた子供ではなく、おかぴの母は二人を置き去りにして夫の元を去り、実父は二人を施設に捨てた。
その後何を思ったのか、親の責任を思い出したのか二人が施設に入れられた事を知ったおかぴの母は二人を引き取り、再婚。
しかし先程も言った通り望んで生んだ子供ではないのでおかぴは愛に飢えていた。
大人になって思うのは望んでなければ生むなと言いたい。
そうおかぴは私に言った。そりゃそうだ。
カレーを作り喜んでもらえた事が嬉しくて、おかぴは色々作るようになった。
それに味を占めたのだろう。
おかぴの母は事ある毎にあれを作ってほしいこれを作ってほしいとおかぴに頼むようになり、最初は料理だけだったのが洗い物、掃除、洗濯とどんどん増えていった。
小学校高学年になる頃には家の家事を殆ど彼女がやっていたと思う。
遊ぼうと誘えば家の事をせんといかんけん…と何度か断られた記憶があった。
遊ぶのも駄目、泊まりに行くのも駄目。
母親に喜んでほしくて、いい子だねと褒めてほしくて始めた行いが彼女の首を締めていた。
弟は可愛がられ、おかぴの母は彼に自分の食べた食器を洗う事すらさせなかった。
男は家事をしなくていい。
当然おかぴがする事になる。
姉はおかぴが小学校六年の時にぐれて手が付けられなくなり広島の親戚の家に一年程預けられる事になる。
おかぴの母にとって、彼女は使い勝手のいい人形だったのだ。
中学生になり高校生になっても状況は悪化する一方。
子供は親には逆らえない。だって親だ。
殴られてもも蹴られても、怒鳴られてもたった一人の母親で、おかぴにとっては誰よりも認めて、褒めて、愛してほしい相手だったから逆らう事なんて考えもしなかった。
私にも気持ちはよく分かる。
おかぴは高校一年の冬頃、中退した。
ファミリーレストランで働き出したおかぴだったが彼女に更なる不幸が訪れる。
高校を辞めて働き出した彼女の給料は殆ど母親に取られる事になった。
どれだけ一生懸命働いても手元に残るのは雀の涙程度の金額。
働いてはお金を取られ、家事を怠れば怒られる地獄の日々。
おかぴに自由はなくて、当時付き合っていた恋人との邪魔までされる。
どこにいる。何をしている。いつ帰る。早く帰ってこい。家の事をしろ。男と別れろ。金を寄越せ。弟の世話をしろ。
些細な事で怒鳴られ八つ当たりで暴力を振るわれる日々。
おかぴの母もまた私の父と同じく外面がよかった人間だ。
おかぴの母と私の母は同級生ではあるがおばちゃんの暴力的な一面までは知らなかった。
私が一番吃驚した暴力事件はおかぴが十六か七の時の事件。
おかぴは母親に体を持ち上げられるように右耳を引っ張られ血が出るくらいには少し耳が千切れた。
そのまま柱に頭をぶつけられたおかぴはげえげえと吐き気が止まらぬまま一日過ごすが吐き気は治まらず。おかぴの母は病院に連れてこともせずに放置。
当時ショットバーで働いていたおかぴの姉が帰宅した際に様子のおかしいおかぴを見かね病院へ連れて行くと脳に異常は見られなかったが恐らく柱に頭をぶつけられた時に脳が揺れた事が原因だろうと診断された様だった。
この話を当時電話で聞いた私は耳を疑うしかなかった。
因みに少し千切れた耳を見たときは泣きそうになった。
私もよく躾と称して平手打ちをされたり孫の手やハエ叩きの持ち手で叩かれる事は多々あったがおかぴがされているのは紛れもない暴力。
幼い頃から母親に暴力を振るわれていたおかぴはどこかおかしい。
暴力を暴力と思っておらず、首を絞められてもケロリとしていた。
頬が腫れている理由を聞けば、これ?おかんにグーで殴られたと笑って言うし首に手痕があった時はどうしたんそれ、と聞けば何て事のないようにああ、昨日おかんに首絞められたんよという。
彼女にとって母親から受ける暴力は暴力ではなかった。
私は馬鹿だったので警察にでもどこにでも相談すればよかったのだがその頭がなかった。
おかぴの姉はおかぴの様な酷い扱いを受けてはいない。
それはおかぴの姉の気が強かったからだと思う。ぐれるくらいには。
殴られたり怒鳴られたりはしたようだがおかぴの様に家の、母親の奴隷とまではいかなかった。
おかぴだけが、母親の奴隷だったからだ。
そんな生活は二十代前半まで続いた。
おかぴの心はいつも母親というトラウマに支配されていて、私はそれをよく知っている。
長らく毒母に支配されてきた私の幼馴染みはトラウマまみれだ。
一児の母、シングルマザーになった今も、毒母の血が流れている事を怖がっていてよく私に自分も母親のように子供に暴力を振るったり支配しようとしたらどうしようと神妙な顔をして言ってくる事が多々ある。
いやいや。あんたの母親は可愛い可愛いと言う孫の子供手当てもかっさらっていくんだから。
中々いない人間だと思う。
おかぴがいつも一人息子の幸せを思っているのは分かっているので、そう思っている限りは同じ様にはならないよと私は言い続けるだけしかできない。
私はおかぴが誰よりも愛情深い人だという事を知っているし、誰よりも愛情を欲しがっているのも知っている。
シングルマザーだとしても子供に不自由はさせたくないと愛情を注ぐおかぴを見てきた私が言うのだから間違いない。彼女は自分の母親と同じ様にはならない。
あんたなんか生まなければよかったと生むつもりはなかった、育ててもらって感謝しろと言う彼女の母親とは違う。
おかぴは望んで息子を生んだしシングルマザーになって苦しい事も辛い事も沢山あるけれど息子がいてよかったと言うのだから全然違うと思うのだけれどいつだって彼女は毒母から受けたトラウマに囚われているように見えてならない。
重度の月経困難症でもあり今のままでは妊娠できる可能性は低いと病院の先生に言われ続けている私はこの先も子供が産めるか分からない。
なのでずっと一緒に過ごしてきたおかぴの息子は私の息子のような存在でもある。
だから私は言い続ける。
もしもおかぴが道を踏み外そうとしたら、私の息子のような存在でもあるあの子の為にも殴ってでも止めてやるから安心しろと。
そして逆におかぴも、私が道を踏み外そうとしたら殴ってでも止めると言ってくれた。
幼少の頃からずっとトラウマを与えられてきた人間がトラウマを克服するには相当な時間と気力が必要で、おかぴも私も仕方なかったと諦め飲み込む事は出来ても克服したわけではない。
五年経とうが十年経とうが心に残る。
三十路になった今でも、私たちはトラウマを完全に克服できないでいるのだ。