エピローグ 3
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氷室 霰は一人、学校からの帰路についていた。
本来神秘とは無縁の平凡で平坦な世界は、超常たる災害の数々に見舞われ大きく傷ついた。
世界は、国は、街は大きく混乱し、未だにかつての平穏を取り戻せていない。
もう一方の世界に比べればその被害は軽度であれど、しかしその爪痕は深い。
しかし、ゆっくりと戻りつつある日常の中を霰はひっそりと、静かに過ごしていた。
学校はやはり平常通りとはいえず、顔合わせ程度の簡素なもの。
『魔女ウィルス』の大規模感染や、ジャバウォックが起こした大災害の影響は、周りの人々にも及ぼしていた。
それでも学生である彼女たちは、まだ子供である彼女たちは、これからの未来を生きていくために最大限の日常を振る舞う。
こちらの世界に、本来は魔法も神秘も存在しない。
流れてきた因子はあれど、それは表舞台に立つことはなく、故にないものと同じ。
結果として、突如起きた未曾有の事件は解明されぬまま、謎に満ちたままとされた。
それは、本来神秘に関わりのないこちらの人々にとっては、いい結果なのかもしれない。
しかし同時に、この世界を誰が守ったのか、誰が何を賭したのかを、一人として知らないということになる。
それを霰はとても寂しく思っていた。
氷室 霰は、生き延びた。
『魔女ウィルス』が消滅したことにより、その身体は蹂躙から解放された。
長らく離れていた心も本来の体へと戻り、彼女は今、全ての問題を乗り越えて今を生きている。
しかしその生存は、その命は、一人の掛け替えのない友達の存在と引き換えだった。
生きていられることは素晴らしく、自らの取り戻せたことは喜ばしい。
それでも、何よりも放したくはなかった友の手を繋ぎきれなかったことが、彼女の胸に冷たい涙を流している。
けれど、霰は前を向いて歩く。友達が全てを賭して救ってくれた命を、精一杯生きるために。
「おーい、氷室」
はらはらと、微かな雪が舞いはじめた下校路。
身を縮めながら歩く霰を、背後から呼ぶ男の声が一つ。
彼女が足を止めて振り返ると、守屋 創が小走りで近づいてきた。
「……あ…………守屋、くん」
「どうしたんだ、氷室。お前のうち、こっちの方だったっけか?」
かぼそく声を上げながらも、俯いて髪で視線を隠す霰。
そんな彼女に、創は気さくに尋ねた。
二人はそもそも、そこまで交流があったわけではないが、しかし秘密を共有する仲ではある。
ここ数日は、以前よりも言葉を交わす機会も多くなった。
「あ……」
創に指摘されて霰は初めて、自らが帰路を間違えていることに気がついた。
この道は、彼女の住まいとは凡そ反対だ。
しかしこの道をよく歩いていたことを、彼女の心と体がよく覚えていた。
「ぼけっとしてたのか? 雪降ってきたし、転んだりするなよ?」
ぽつりと口を開ける霰に、創はそう言って笑う。
彼の幼馴染たちとは全く違う大人しさに、少しばかり戸惑いを感じつつ。
しかし、その静けさが新鮮でもある。
創は、何となく霰を放っては置けなかった。
そうやって笑う創を、ひっそりと見上げる霰。
その堂々とした佇まいは、大切なものを失った悲しみに囚われているようには見えない。
花園 アリスが消え去った後。一命を取り留めた霰はその後、創に全てを話して聞かせた。
二人はクラスメイト以上の関係ではなかったが、彼女は彼がアリスの大切な人間だと知っていたからだ。
アリスが抱える事情を知っている創は、彼女の話を黙々と受け止めて、「アリスを守ってくれてありがとう」と、お礼を言ったのだった。
それ以降、事の真相を知る数少ない人間として、時折言葉を交わす。
霰は、アリスの全てを聞き入れてくれた創に感謝して。
創は、アリスが全てを賭して守った霰を大切にして。
二人は静かに、ゆっくりと、ささやかな友人関係を続けている。
「────アリスちゃんに、会えるかもしれないと……思ったのかもしれない」
ぽつりと、言葉をこぼす霰。
控えめに、バレないように隣を見上げながら。
アリスの幼馴染であった彼にしか、言えない言葉を。
「こうしてこの道を歩いていけば……アリスちゃんの家に行けば、もしかしたら……なんて」
「氷室……」
花園 アリスはもういない。
それを誰よりも一番理解していながらも、しかし一番再会を願ってしまう。
そうした気持ちが自然とこの道へ足を向けさせたのだとしたら、誰がそれを責められるだろうか。
しかしそれを控えめに口にする彼女に、創は小さく微笑む。
「そうだな。もしかしたら……。アイツのことだから、ふらっと帰ってきたりしてな」
あり得ないとわかっていても、創はそう言った。
そして、そっと歩き出して霰を促す。
二人は小さく歩みを進めた。
「……お前から全部の話を聞いて俺は、信じたくはなかったけど、でも受け入れた。魔法とか、なんかとんでもないことの話は、俺にはよくわかんねぇけどさ。でも、アリスがいなくなっちまったってことは、ちゃんと理解したんだ」
二人で肩を並べて歩きながら、創はポツリと口を開いた。
霰は、小さく頷く。
「でもさ、実は俺もお前と同じで。アイツの家を見るたびに、思うんだ。もしかしたら、玄関からポンって、飛び出してくるんじゃないかって。なんていうか……うまく言えないんだけどさ。アイツはいなくなっちまったけど、消えてなくなちまったわけじゃない。そんな気が、するんだよ」
「…………ええ。私も」
頭を掻きながら、恥ずかしそうに言う創。
しかしそうしながらも、彼の目は真剣だった。
「だってさ、アイツが突然いなくなるのは、これで三回目なんだぜ? 色んなことがあったみたいだけど、今まではそれでもちゃんと帰ってきたんだ。だから今回もって、思っちまうん、だよなぁ……」
わかってるんだけどと、そう繰り返しながら、創は言う。
それは願望でもあり、しかし同時に、心の奥底にある信頼でもあった。
理解している現実とは別に存在する、幼馴染に対する切なる信頼。
霰はもう一度頷いて、小さく唇を開く。
「……私は、信じてる。アリスちゃんは……いなくなってしまったけれど。でもまた、必ず会えるって」
胸元を握りしめ、霰は呟くように言った。
それは、願望を通り越して、確信を語るように。
「私は、これからもずっと……アリスちゃんを忘れない。ずっと、想い続けてる。大切な……一番大切な、友達だから。そうやって、ずっと心の中に彼女を浮かべていれば……私たちは、ずっと友達。私たちは今でも、繋がっているから……」
「そう、だな」
噛み締めるようにそう言う霰に、創は微笑む。
こうしてずっと幼馴染を想ってくれている人が、自分と一緒に彼女を想い続けてくれる人がいることを、心から幸せに思って。
ぽつりぽつりと、ささやかに言葉を交わして。
不器用に色んなことを模索しながら、それでも精一杯に気持ちを口にしあって。
緩やかな時間を過ごしながら、二人はアリスの家の前までやってきた。
住人を失った家屋は、今はとてもひっそりとしている。
もちろんここから顔を出す少女は、いない。
「……家まで送ってこうか? うちから傘とってくるから、ちょっと待ってろよ」
「大丈夫。少し……ここにいる」
「そう、か……わかった。風邪、引くなよ」
静かにアリスの家を見つめる霰に、創は大人しく頷いた。
自分では踏み込めない絆が、彼女たちにはある。
自分とアリスとの間にしかないものがあるのと同時に、彼女の中にも。
だから創はそれ以上を口にせず、身を引いた。
「────あ、あの」
じゃあなと別れを告げて、自らの家に入ろうとした創。
そんな彼を、霰の小さな声が呼び止めた。
立ち止まって振り返る彼に、霰は俯きながら唇を震わせる。
「あの……えぇと…………もし、もしあなたが、よかったら……」
少し長めの前髪で目元を隠しながら、言葉を詰まらせながら、霰は創を控えめに見る。
体が震えて、緊張で口が乾いて、恐怖で心が縮こまる。
それでも懸命に堪えて、一歩を踏み出さんと言葉を続けた。
「よ、よかったら、今度……クリスマスパーティーを、し、しましょう」
「……え?」
「アリスちゃんと約束した、から……。アリスちゃんも、雨宮さんも、いないけれど。でも、私たちはいるから、だから……」
ぽかんと口を開ける創に、霰は言葉をつっかえせながら、必死に口を動かす。
「だから、あなたさえ良ければ……私たちで、その約束を……」
今までの彼女なら、到底切り出せなかったような言葉。
誰かに自分から声をかけて、誘って、積極的に関わろうとする。
そんなこと、氷室 霰のできることではなかった。
けれど、彼女は踏み出した。
そんな無垢な少女の姿に、創は驚きを隠せずに目を見開いて。
「もちろん。アイツらが嫉妬するくらい、盛り上がろうぜ」
そして、満面の笑みを浮かべて頷いた。
それにつられて、霰もほんのわずかに、表情を崩して。
二人は、これからの未来の約束を取り付けた。
アリスが望んだ平穏な日常を、自分たちが楽しもうと。
「…………」
創が家に入っていくのを見送って、霰は大きく息を吐いた。
慣れないことをしたせいで、身体中が火照って仕方がない。
けれど、とても緊張したけれど、満足感が彼女を満たしていた。
花園 アリスはもういない。
その存在はほどけ、現実から形を失った。
けれど今でも、霰はその心を感じ続けている。
繋がりを、信じ続けている。
「────世界を隔てる壁を前にしても、私たちは……出会うという奇跡を、起こすことができた。だから、想い続ければ……諦めなければきっと、また会えると、信じてる。この繋がりが、その奇跡を起こしてくれると……私は、信じてる」
だから彼女は、今も尚、きっといつまでも、アリスを想い続ける。
一番大切な友達に恥じない自分になろうと、前に進み続ける。
そうしてまたいつの日か、笑顔を褒めてもらえるように、自分の気持ちを表せるよう努力する。
今この時を確かに、懸命に生きて、明るい未来を目指す。
それが、守られ、残された者の使命だから。
けれど決して、一番大切なものを忘れることはない。
「アリスちゃん。私は、ずっと────」
熱い想いを胸に、心からの言葉を口にする。
この繋がりを辿った先に、また手を取り合えると信じて。
また、笑い合えると信じて。
氷室 霰は、花園 アリスを想い続ける。
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