16 悲しい
「先に、進む……」
震えながら、夜子さんの言葉を繰り返す。
凍りかけている霰ちゃんの身体を抱きしめながら。
夜子さんは、そうだと頷いた。
「霰ちゃんはもう、本当にギリギリだ。でも、『魔女ウィルス』を取り除くことができれば、まだ間に合うだろう。そしてそれはドルミーレにしかできない。そのためには、彼女が目覚めるしかない」
「それは……」
少し話が逸れていたけれど、元々はそこが主題だ。
霰ちゃんを助ける唯一の方法は、ドルミーレの力しか残ってなくて。
でもそれは。ドルミーレが目覚めるということが、意味するものは……。
「それはつまり……私に消えろということですか? ドルミーレの礎になれ、と」
「まぁ、そういうことだね」
絞り出した言葉に夜子さんは頭を掻いた。
バツが悪そうにしながらも、私から目を背けることはしない。
彼女は真剣に私に向かい合って、そう言っている。
「私だって嫌だ。とっても心苦しい。私は君のことを友達だと思っているからね。でも、二つに一つなら、どちらかを選ぶしかないのなら。私は、ドルミーレを選ぶ」
「ッ…………」
何の迷いもなく、夜子さんは言う。
でもそれはわかりきっていた答えだ。
だって彼女たちは、ドルミーレの復活をずっと望んでいたんだから。
でも、わかっていたとしても。
お前は死ねと言われるのは、堪えた。
「…………お母さんは……お母さんも、そう思ってるの?」
それもまたわかりきっているはずなのに、聞かずにはいられなかった。
ぎゅうぎゅうと締め付けられる胸を掻き抱きながら、尋ねずにはいられなかった。
「私は……」
私の傍で屈むお母さんは、口籠って視線を外した。
けれどそれでも、唇を噛み締めて答えを口にする。
「私は、私たちは、ドルミーレの親友。大切な友達にまた会うために、この二千年を生きてきた。あなたにとっては、みんなにとっては酷い人かもしれないけれど……でも、私たちにとって彼女は、掛け替えの無い親友なのよ。だから……ごめんなさい。ごめんなさい……」
「………………」
振り絞るようなその言葉に、ただ、傷付いた。
わかっていたのに、わかりきっていたのに。それでも、その言葉は刃となって私の心を切り裂いた。
お母さんなら、私のお母さんなら、何よりもわたしを大切にしてくれるんじゃないかって、そんな甘えた願望に惑わされて。
わかりきった答えに、今更ながらに深く抉られてしまった。
でも、そうだ。そうなんだ。
ジャバウォックを食い止めるために一時的に協力したけれど。
でも既に彼女たちは、私とは違う立場を明らかにしていた。
二人はずっと、ドルミーレの味方だったんだ。
だから今こうして気持ちが重ならないことは、仕方のないことなんだ。
ドルミーレを打倒したいと、自分を貫きたいと思っていた私と、ドルミーレを復活させたい二人。
相入れるわけがなかったんだから。
「……私たちが、憎いかい?」
夜子さんが静かに尋ねてくる。
その表情は優しくて、けれど悪びれのようなものはない。
彼女は覚悟を持って私を切り捨てることを選んでいる。
そこに罪の意識を抱かないことこそが、私に向き合っている証だ。
「わからない。わかりません……」
夜子さんと、そしてお母さんを見て、答える。
私の近くにいながら、ずっと謀っていた二人を。
私を大切にして優しくしながらも、もっと奥のドルミーレを見ていた二人を。
彼女たちが私にくれた気持ちは本物で、私に敵意があったわけじゃない。
心底大切に想ってくれていた中で、でもその動機が別にあったということ。
でもそれは、私にとっては裏切りに他ならなくて。
けれど、二人に対する想いを全て掻き消すには、足りなくて。
「わからない……けど、とても……悲しい」
怒りを燃やすのが普通で、憎しみを抱くのが当たり前で。
でもやっぱり私は、お母さんのことを、夜子さんのことを敵だとは思えなかった。
だって、立場が違って目的が違っても、二人が私のことを想ってくれていることには、変わらないんだから。
ただ、その優先順位が、他に向いてしまったというだけで。
それでも、お母さんに見限られるという現実は、耐え難い痛みを伴う。
それでも憎めないのは、怒れないのは、きっと。
今まで、あまりにも沢山の愛情をもらってきたからだ。
そして私が、お母さんのことをとっても大好きだからなんだ。
「そうか。君はやっぱり、私たちを恨まないのか」
「…………」
夜子さんはそう言って眉を寄せ、お母さんは顔を伏せた。
私がそういう選択をすることを、そういう気持ちになることを、わかっていたのかもしれない。
だって二人が、お母さんが、私をそういうふうに育てたんだから。
「なら、ことを進めよう、アリスちゃん。君にとっても事は一刻を争うだろう。霰ちゃんを救うためには、君がドルミーレにならなきゃいけない」
「………………はい」
夜子さんは飽くまで淡々と話を進める。
私に対する感情を決して表に出そうとはしない。
謝罪も言い訳も口にせず、私に反する存在として振る舞っている。
その方がいい。その方がまだ、少しは気が楽だ。
下手に何かを言われたら、私は更なる悲しみに苛まれて、まともな思考ができなくなってしまうだろうから。
ただでさえ、あまりにも大変なことがありすぎて、心が疲弊しきっている。
だからこれ以上パニックになって、霰ちゃんを助ける期を逃したくない。
霰ちゃんを救うためには『魔女ウィルス』を無くすしか方法がなくて、それはドルミーレにしかできない。
ドルミーレにそれをしてもらうには、彼女に目覚めてもらうしかなくて。
そうすれば、私は彼女に飲まれて消えてしまう。
でも、もうそれしか方法がないのなら、そうするしかない。
ドルミーレを打倒して、私を勝ち取りたいと思っていたけれど。
でも私が彼女に全てを譲る事で、霰ちゃんが救われて、そして『魔女ウィルス』に苦しめられている他の人たちも救われるんだったら。
これはある意味、私の目指した結果だ。
霰ちゃんを抱きしめて、覚悟を決める。
怖いけど、でも道を選ぶ。
最善の結果でなくても、得られるものはきっと多いだろうから。
「大丈夫だよ、アリスちゃん。『魔女ウィルス』のことは、霰ちゃんのことは私たちに任せてくれていい。責任を持って、ドルミーレになんとかさせるよ」
「……はい。お願いします」
淡々としているけれど、それでも夜子さんの心遣いは私を想ってこそのもの。
私に反する立場の人ではあるけれど、だからこそその言葉には信頼を寄せられた。
ドルミーレが復活し、私が塗り潰された先の未来でも、私の友達はきっと救われる。幸せになれる。
「────じゃあ、ドルミーレを呼ぶよ。彼女の準備は、気持ちは整っているだろうから。私たちが呼べば、目を覚ますだろう」
夜子さんの言葉に、頷く。
恐怖に震える身体を、霰ちゃんを抱きしめる事で誤魔化して。
止まらない涙を垂れ流したまま、それでももう声を上げたりはせず。
ドルミーレに乗っ取られるって、どういう気分なんだろう。
私という存在を奪われるって、苦しいのかな、痛いのかな。
その先で、私の心はどうなってしまうんだろう。
恐怖がゾクゾクと駆け上ってきて、頭が真っ白になる。
先のことを考えると、その果てのない闇に身が竦む。
逃げ出したいけれど、でもそんなことをするわけにはいかないから。
恐怖から目を背けて、ただただ、未来にあるであろう希望だけに想いを馳せる。
私の友達が、霰ちゃんが、幸せに生きていける未来を。
大きく息を吸って、夜子さんを見つめる。
何をどうするのかはわからないけれど。
でも、目覚める時が来ているのだから、もう今すぐにでも彼女は登って来られるんだろう。
必要なのはもう、きっかけだけ。
そしてそれを与えに、夜子さんとお母さんは来たんだ。
夜子さんは私とぴったりと目を合わせて。
そして口を開いた。
「────待って! 待って、イヴ!」
けれどそれを遮るように、お母さんが声を上げた。