9 バカにしないで
わかってる。これは私のどうしようもない欠点だって。
友達を憎みきれない、嫌いになれない。
許せないと思ってるのに、怒っているはずなのに。それでも。
今だって、透子ちゃんのしてきたことが、どうしても許せない。
氷室さんをこんなことにした彼女が、とても憎らしい。
それなのに、憎みきることができなくて。
どんなに受け入れられなくて、どうしようもないと思っていても。
友達だから、きっと何か切り口があるはずだと、思ってしまう。
そんなもの、全く見出せないのに。
わかり合うことができるんじゃないかと、思ってしまう自分がいるんだ。
「アリスちゃん。ねぇ、逃げないでアリスちゃん。私は敵じゃないのよ? あなたの、友達なの。アリスちゃんが大好きで、あなたを守りたいだけなの。わかってくれるでしょ?」
思考を完全に振り切って、透子ちゃんはニンマリと笑みを向けてくる。
彼女は全てわかっているんだ。今までの私を、一番そばで見てきたから。
最終的に、私は彼女を否定しないんだろうと。
気持ちが食い違っても、意見がぶつかっても、受け入れようとするんだろうと。
嫌いだなんて言わないと。敵だとは思わないと。
それを知っているから、わかっているから、透子ちゃんは私を求め続けてくる。
「そんな、そんなこと……」
そんなんじゃダメだって、わかってる。
そんなやわな考え方ができると段階は、とうの昔に過ぎているって。
道を踏み外し過ぎたこの人に、手を差し伸べる余地は、もうないんだって。
でも、そうやって思考を切り替えるのには、私にはあまりにも勇気が必要で。
けれど今の私には、そんな気力は残っていなかった。
大切だと思っていた人に裏切られて、それが空虚な偽りだと知って。
本当に大切な人は今にも消えてしまいそうで、そしてなにより、自分の心の愚かさが情けなくて。
悲しみと絶望が私の全てを支配していて、とても怒りを燃やす力が湧いてこない。
友達を切り捨てて、敵だと断じる力が、残ってない。
それがどんなに酷い人でも、友達を自ら失うという痛みを行う勇気が、今の私にはなかった。
だから、どうしても一歩踏み出せなくて。
許せないのに憎めなくて、抗わなきゃいけないのに振り払えなくて。
私はただただ傷付いて、震えることしかできなかった。
ほら、やっぱり私は、これでしっぺ返しを受けている。
そんな私を見て、透子ちゃんは嬉しそうに口の端を釣り上げる。
「いいのよ、それでいいのよ。無理なんてしなくていい。あなたは友達を大切にする女の子。私のことを無理に嫌いになろうとしなくたっていいのよ。今までの前提がなくなってしまうのは残念だけれど、でもまた育んでいけばいいものね。ずっと、一緒にいましょう、アリスちゃん」
もう完全に身動きが取れなくなってしまって、再び透子ちゃんが眼前へと迫る。
氷のように冷たい氷室さんを抱えたまま、ただただ泣きながら震える私に、透子ちゃんの手が迫る。
私は、彼女に怒れない私は、その歪んだ瞳を見つめることしかできなくて。
でも、それでいいのかと、私の心が叫んだ。
「────バカに、しないでよ」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、体の震えが声を震わせながら。
それでも私は、微かに芽生えた気持ちを、唇からこぼした。
いいわけがないだろうと。それじゃ、ダメなんだと。
「え?」
透子ちゃんがピタリと止まる。
張り付いた笑みが固まり、訝しむ瞳が私を突き刺す。
私は氷室さんを抱き締める腕に力を込めて、もう一度口を動かした。
「バカにしないでって、言ったんだ……!」
友達を嫌いになれないなんて、なんとかわかり合おうとするなんて、とても聞こえのいいような気がするけれど。
でもそれはただ、現実から目を背けてるだけなんだ。
私はただ、切り捨てることを恐れて、自分が楽な方に逃げていただけなんだ。
切り捨てる方が楽で、受け入れる方が大変だからと、それを頑張る自分を美しいように言って誤魔化していただけ。
もちろん、それでよくなる結果もあるだろうし、その考えを根本から否定するつもりはないけれど。
でも、ダメなものはダメだと言わなきゃいけない時は、必ずある。それが今なんだ。
「こんなに沢山、もうわけがわからないくらい沢山、傷付けられて、裏切られて。大切な人を、無下にされて。それでもあなたをまだ友達だと思うほど、私は、愚かじゃない……! 透子ちゃん、あなたは……あなたは私の……私の、て、敵だよ……!!!」
「………………!?」
吐きそうになりながら、心が張り裂けそうになりながら、震える声で叫ぶ。
今でも、この言葉を吐き出すのには物凄い抵抗があって、少なくない罪悪感のようなものがある。
けれど、でも。私はみんなを傷付けた人を、何より氷室さんにこんな仕打ちをした人を、許してしまうような人間ではありたくない。
「て、敵……? 私が? あなたを誰よりも大切にしてる私が……アリスちゃんの、敵……?」
透子ちゃんはあからさまに動揺して、顔を引き攣らせた。
目をぐるぐると泳がせて、唇をわなわなと震わせて、その綺麗な顔を蒼白に染める。
彼女の全身を、絶望が駆け抜けているのがわかった。
そんな彼女に同情してしまいそうな自分がいるのが、とても憎らしい。
でも、私という根本はそうそう変えられなくて、そう感じてしまう自分自身までは否定できない。
けれど、それに飲み込まれてはいけないということは、よくわかってる。
「なによ、それ。酷いわ、あんまりだわ……。私は何よりもあなたのために生きてきたのに。あなたに全てを捧げているのに。あなたのために頑張ってる私を、否定するだなんて……!」
「もう何度も話したよ、透子ちゃん────ううん、クリアちゃん。あなたは、私の気持ちを考えてくれてない。あなたは、私の気持ちを踏み躙ってばっかりなんだ……!」
「わからない。わからない……わからないわよ! 私はあなたを誰よりも想ってる! だから、あなたをずっと守ってきたのに。こんなに、大好きなのに! それなのに、どうして私を────私だけ、受け入れてくれないのよ!!!」
透子ちゃんは頭を掻き毟って絶叫した。
それは断末魔のようにけたたましく、怒りと悲痛にまみれていた。
優しく頼り甲斐のある透子ちゃんの姿はそこになく、自らの身勝手な感情を叫ぶ様は、狂気そのもの。
この期に及んでも、透子ちゃんは私の言葉を聞き入れてはくれない。
ただ、私を求める一方的な感情だけを押しつけて、何が間違っているのかを考えようともしない。
透子ちゃんを、クリアちゃんをこうしてしまったのは私だと、そう責任を感じてはいたけれど。
ここまで来ると、もうそんな風には思えなくなってしまった。
これは、彼女自身が持つ歪みで、私にはどうしようもできないもの。
私では、彼女の在り方は受け入れられない。その、気持ちも。
「酷い、ひどい、ヒドイわ、アリスちゃん。あなたは、そんな子じゃないわ。あなたは、誰も見つけてくれなかった私を見つけて、そして受け入れてくれた、優しい女の子。そんなあなたが、私を否定するだなんて、まして敵だなんて言うはずが、ないのよ……!!!」
床に手をつき、その長い黒髪をだらりと垂らして、這いつくばるように項垂れながら透子ちゃんは喚く。
艶やかな少女の風体などもうなく、しばらく、まるで獣のようにそうやって騒ぎ散らして。
そして突然、その髪の隙間から濁った瞳を私に向けて、再び手を伸ばしてきた。
「────そんなに、私を受け入れられないなら……いいわ。私が、あなたを受け入れましょう。私と一緒に、あの素敵なアリスちゃんになりましょう?」
「な、何を、言って……」
ケタケタと、歪な笑い声を上げて、透子ちゃんは言った。
舐め回すようなその視線が、背筋を凍らせる。
「私が、あなたになる。心を溶け合わせて、一つになりましょう。そうすれば私たちはずっと一緒。私が、おかしくなっちゃったあなたを補ってあげるから。私を否定するような、間違ったあなたを、私が助けてあげる」
「ッ────────!」
狂っている。狂っていた。もう、まともな部分なんてありはしない。
いやきっと、はじめからそんなものはなかったのかもしれない。
それがどんな意味を持っていて、それが本当に求めることかどうかも、何もかもめちゃくちゃだ。
ただ彼女は、彼女の中の私の偶像を求めているだけ。
私のことすら、見えてはいなかった。
「ほら、アリスちゃん、来て。私があなたを守ってあげるわ。一番の友達の私と、一緒になりましょう」
「や、やだぁ……やめ、て……」
伸ばされる手を、振り払う力がなかった。
透子ちゃんを敵だと言い切っても、抵抗するまでの気力が湧ききっていない。
竦み上がっている体が、抗うように、戦うように切り替わらない。
言葉で拒絶するだけで、精一杯だった。
それになにより、既に満身創痍だった私には、戦う力なんて残っていなかった。
こんなに憎らしい人が迫っていて、仇を討たなきゃいけないのに、抗わなきゃ全て終わってしまうのに。
悲壮的な感情の方が私の全てを埋め尽くして、震えることしかできなかった。
「アリスちゃん、アリスちゃん……! 私のアリスちゃん!!!」
「た、たすけ────」
その手はもう目の前。数瞬で私に触れる。
戦えと、抗えと、心の底から思っているのに。
ズタズタになった心は、どうしても奮い立ってはくれなくて。
ただ情けなく、助けを乞うことしかできなかった。
誰も、助けてなんてくれないのに。
「助けて────霰、ちゃん────!」
私の胸に、氷の華が咲いた。