7 狂気の色
私は目の前の透子ちゃんから後退がって、氷室さんを抱き寄せた。
凍結に侵食された氷室さんは、冷たさを通り越して痛みすら感じる。
それでも私は、その身体に縋った。
「氷室さん……氷室さんッ…………」
私が今まで触れ合ってきた氷室さんは、氷室さんじゃなかった。
ということは、私の思い出の中にある彼女は、氷室さんじゃないということで。
それが堪らなく寂しく、そして虚しかった。
いつも私を助けてくれた、あの頼もしい姿も。
普段の、気弱で物静かな佇まいも。
私の気持ちを受け止めてくれて、支えてくれたあの言葉も。
手を取り合って抱きしめあった、あの感触も。
控えめに見せてくれた、あの不器用な笑顔も。
私の知る氷室さんは、全部偽りで。
この胸の中に残る彼女の姿は、本当の彼女じゃなくて。
何もかも、透子ちゃんが見せていた偽りで。
今まで私たちが育んできた日々は、何もかも、私の勘違いだった。
沢山大変なことがあったけれど、それでも、氷室さんと歩んできた日々は、支えてくれた日々は、掛け替えのないものだと思っていていたのに。
それは全て、氷室さんじゃなかったんだ。
私と氷室さんの思い出を、氷室さんは知らない。
いや、それは氷室さんとの日々ですらなくて。
だから氷室さんは、氷室さんじゃなかった。
それなのに、氷室さんは今にも死んでしまいそうになっている。
私たちは、何も紡ぐことができず、交わすことができなかったのに。
まだ、氷室さんの元に一番に帰るという、約束を果たせていないのに。
それなのに、氷室さんは今にも消えてしまいそうで。
「ごめんなさい……ごめんなさい……氷室さん、ごめんなさい」
こんな不甲斐ない私で、ごめんなさい。
こんな愚かな私で、ごめんなさい。
静かに止まっていく氷室さんを見下ろしながら、謝る。
私なんて、友達失格だと。
「なんでよ……どうしてよ、アリスちゃん」
そんな私に、透子ちゃんが弱々しく声を上げる。
「その子じゃないのよ。私なのよ。ずっとずっと、私があなたを守ってきたんだから。あなたの隣にいたのは、私なんだから。ここまで沢山、絆を育んできたのは、私なのよ……!」
透子ちゃんはヒステリック気味になりながら、私に縋るような目を向けてくる。
震える手をこちらに向けながら、切実に。
「全部全部、私なのに。どうしてアリスちゃんは未だに、その子ばかり見るの……!?」
「…………それは、氷室さんが、大切な友達だから、だよ」
冷たい氷室さんの肩を抱きながら、口にする。
溢れる悲しみを噛み締めながら、こぼれる涙を堪えずに。
「今までの日々は、本当の氷室さんじゃなかった。それは全部、透子ちゃんが騙ったものだった。でもだからって、それで私の、氷室さんへの気持ちがなくなるわけじゃない」
「どうしてよ。私なのに、それは、私なのに……」
「だって、それだけじゃないから。私と氷室さんはそれだけじゃないから。私が氷室さんを好きなのは、守ってくれたからじゃない。一緒にいてくれたからじゃない。もちろんその気持ちもあったけれど。でも違うんだよ」
今更私に、彼女の友達を名乗る権利がないことくらい、わかってる。
好きだという権利も、大切だという権利も、何もかもない。
でもこれは、確かな私の気持ちだから。
どんなに氷室さんに怒られても、言わせて欲しいんだ。
「私は、この氷室さんだから、好きになったんだ。七年前に過ごした日々が、この心に鮮烈に残ってる。内気で人見知りで物静かで。それでも一生懸命に目を輝かせてた、氷室さんが……好きだったんだ。私の胸にはずっとそれがあるから……」
最近の出来事は、その補強に過ぎない。
私の心は、あの時から氷室さんに惹きつけられていたんだ。
もちろん、今までの日々が偽りであるという事実は、育んできたものが間違っていたという事実は、身が張り裂けそうだけれど。
私の氷室さんに対する想いの根幹は、あの時に芽生えたものだから。
どんなに透子ちゃんの手で偽りを植え付けられても。
私の気持ちが、氷室さんから離れるなんてことはないんだ。
「透子ちゃん。無理だよ。無理なんだよ。あなたの言うようには、ならない。なれない。私が好きなのは、氷室さん。同じものを、透子ちゃんには向けられない」
「ッ…………!」
首を振りながら、力なく訴えかける。
張り合う気力はなく、気持ちを叩きつける力もない。
でも違うんだと、それはできないんだと、伝える。
だってそんなこと、ありえないから。
透子ちゃんはポカンと口を開け、信じられないと眉を寄せた。
「おかしいわ。そんなの、おかしいわ。だって、確かに今まで私たちは強い絆で結ばれていたはずなのに。それが全部なしになるだなんて、おかしいわ……」
「…………」
「それに、そんな昔のことを持ち出して。そんなこと、そんなこと言ったら私だって……!」
わなわなと震えながら、透子ちゃんはゆっくりと擦り寄ってくる。
私は氷室さんを必死に抱き締めて、身を縮こませることしかできなかった。
その瞳が、あまりにも必死すぎた。
「私だって、昔からあなたと心を交わしてきたわ……! そうよ、私だって、七年も前から……!」
「透子、ちゃん……?」
「七年前、あの森で出会った時から、私たちは友達じゃない。あの森で、透明だった私を見つけてくれた時から────」
「それって…………!」
勢いよく捲し立てていた透子ちゃんは、ハッと息を飲んだ。
慌てて口を押さえたけれど、もう遅い。
私はその言葉を確かに聞いてしまった。
七年前の森での出会い。透明だった、過去。
その言葉が示す意味は、一つしかない。
「やっぱり……やっぱり透子ちゃんは、クリアちゃんだったんだね…………!」
「ッ────────!」
もう否定できない事実だろうとは、思っていたけれど。
でも今、彼女自身の口から放たれたことが、全ての証明だった。
神宮 透子は、クリアランス・デフェリアだった。
観念したのか、透子ちゃんは私の言葉を否定しない。
苦々しく顔をしかめて、自分の失態に歯を剥いている。
そして唇を震わせながら、ゆっくりと口を開いた。
「……私はもう、その名前を捨てた。その在り方を捨てた。私は神宮 透子────あなたに相応しくなれるように、私は私になったんだから。こんなに頑張ったんだから……そんな子の方が大事だなんて、言わないでよ!!!」
向けられる瞳は吸い付くようで、私を放さない。
その切実な眼差しはしかし、濁りが見えて。
それはきっと、彼女の狂気の色────。