126 私の一番大切なもの
「ど、こ…………? アリス、ちゃん…………」
「ここだよ! 私は、ここにいるよ……!」
強く体を抱きしめて、必死で呼びかける。
氷室さんは脱力しきった体で、私に手を伸ばそうと身を捩って。
けれど体が動かすことができないのか、ただ呻き声だけが漏れる。
「大丈夫、大丈夫だから……! 私が、氷室さんを必ず助けるから!」
霞となって消えてしまいそうな氷室さんの手を握って、私は懸命に声をかけた。
まだ息があるのなら、命が繋がっているのなら、助けられる余地がある。
私は急いで治癒の魔法を掛けようとした。
「────ど、どうして!?」
けれど、魔法は全く発動しなかった。
どんなに力を込めようとしても、少しも力が発動しない。
今まで当たり前の様に使ってきた魔法が、全く現れなくなっていた。
そこで私は初めて、今自分が精魂尽き果てているのだと気づいた。
ジャバウォックを打ち滅ぼすため、力を最大限まで振り絞った私には、もう絞り出す力が残っていない。
原初の力を持つドルミーレを抱いている私に、今までこんなことはなかった。
『始まりの力』は無限大で、私の気力の限り、際限なく力を振るうことができたのに。
どうして今になって、一番大事な時に限って、この力を使うことができないんだ……!
「いやだ、いやだよ……なんで、どうして……!!!」
どんなに気持ちを込めても、どんなに力を振り絞ろうとしても、神秘のカケラも起きない。
すぐに治癒しなければ手遅れになってしまうかもしれないのに、どうしても魔法が使えなかった。
治れと願えば願うほど、自分の中身が空っぽであることを自覚させられる。
「お願い、お願いだから! 魔法、出てよ……!」
「アリス……」
氷室さんの手を握り、ただ叫ぶことしかできなくて。
そんな私のもとに、レオとアリアが足を引きずりながらゆっくりと近づいて来た。
二人ともボロボロながらも、辛うじて生き延びられた様だ。
「レオ、アリア……! 助けて、氷室さんが……!」
二人の無事は本当に嬉しかったけれど、今は氷室さんのことで頭がいっぱいだった。
喜びを分かち合う余裕もなく、氷室さんを抱きしめながら二人に縋り付く。
レオとアリアは慌てて私の腕の中を覗き込んで、ハッと息を飲んだ。
「魔力が暴走している……? それに力を使いすぎて、生命力の消耗が……」
「ど、どうにかならない!? 二人なら、氷室さんのダメージを癒せない!?」
アリアは口をパクパクとさせ、口籠った。
私の前で屈んで、自分もふらふらながらに氷室さんの頭に手を当てて、様子を窺う。
そして、小さく首を横に振った。
「普通の治癒の魔法でどうにかなる状況じゃないと、思う。過ぎた力を過剰に使って、そのフィードバックが体を蝕んでる。そこに『魔女ウィルス』の侵食も合わさって、消耗が著しいんだと、思う。怪我の治療でどうこうなる段階じゃ……」
「そんなこと言わないで、なんとかしてよ……! お願い、ねぇアリア……!」
「……ごめんなさい。私たちじゃ……」
無念そうに俯くアリアに、ずんと心が沈んだ。
頭殴られたみたいにくらくらして、うまく思考が働かない。
レオが私の肩を抱いてくれたけれど、全く冷静ではいられなかった。
氷室さんが、助からない?
そんなの嘘だよ。信じられない。受け入れられない。
絶対に嫌だ。嫌だ、嫌だいやだ……!
「何か、方法が……何か……!」
「どうしたの、よ……」
パニックになって、喚かずにはいられなかった。
我を忘れそうになっている私に、這う様にしてやって来た千鳥ちゃんが声をあげた。
彼女もまた満身創痍で、けれど私の様子に慌てて近寄ってくる。
そして、氷室さんの様子を見て顔を白くした。
「千鳥ちゃん……どうしよう。氷室さんが、氷室さんが……!」
「これは……」
千鳥ちゃんは顔を引きつらせ、私の顔をまじまじと見て言葉をためらった。
魔女であり、転臨している彼女には、今の氷室さんの状況がよくわかるのかもしれない。
だからこそ、何も言えないんだ。
「…………私たちの、手に負える状況じゃ、ないわ……」
辛うじて零した言葉は、酷く曖昧で。
でもそれは結局のところ、アリアと同じ答えだ。
「向こうの世界なら、優秀な魔法使いの手なら、どうにかなるんじゃねぇか……?」
カノンさんがカルマちゃんと共に支えながら近寄って来て、掠れるような声でそう言った。
二人とも立って歩くのも苦しそうなのに、必死に私たちに元に寄ろうとしてくれている。
「確証は、もちろんねぇけどさ。ここでくたばってるアタシらよりは、可能性があるんじゃねぇか……?」
「そ、そうだね。なんとかして、あっちに行けば……!」
今は少しでも可能性があるのなら、縋りたい。
例えそれが本当にカケラような僅かなものだとしても、諦めたくなから。
「お、おい。でも、どうやって帰る気だ? お前、今力使えねぇんだろ?」
震える体に鞭を打って立ち上がろうとする私に、レオが声をあげた。
私の肩を押さえるように腕を置いて、けれど止められるだけの力はもうそこには残ってない。
「ここからなら、夜子さんのビルが近い。あそこになら、何か方法があるかもしれない。夜子さんは、単身で世界を渡る魔法が使えるから、ゲートを残してるかも。それに今はまだ世界が不安定だから、普段よりもなんとかなるかもしれないし」
「けど、一人じゃ……」
心配そうに私を見るレオに、大丈夫だよと言って腕を退けた。
脅威は既に去っているから、この世界にもう危険はないだろうし。
問題は、あちらの世界にいく手段があるかどうかだけだ。
「みんなはこっちで待ってて。みんなだって、すっごくボロボロなんだから。私と一緒に戦ってくれて、本当にありがとう」
立ち上がって、冷たくなっている氷室さんを背負う。
心配そうに私を見つめるみんなに、私は心からのお礼を言った。
「あっちに行けたら、助けを呼ぶから。それまでみんな、絶対に無事でいてね」
そう言葉をかけて、私は一人で歩き出した。
みんな私を追いかけたそうにしていたけれど、もう体が思うようには動かないようだった。
無理をしなくていい。今は自分たちの回復に専念して、自分を大事にしてほしい。
氷室さんをここまで追い詰めてしまったのは私のせいなんだから、私が頑張らないと。
みんなの視線に見送られながら夜子さんの廃ビルを目指す。
街外れのこの場は、戦いの爪痕でとても荒れ果てている。
けれど住宅地からは大きく離れているから、人の被害はきっと多くはないと思う。
特にこの辺りは私たちが散々戦っていたから、みんなはどこか遠くに避難しているんだろう。
普段からこの辺りはあまりひと気がないけれど、より一層寂しく思えた。
そう。戦いは終わって、私たちはジャバウォックという危機を退けた。
二つの世界を巻き込んだ破滅を、私たちは食い止めることができたんだ。
だっていうのに、ここで氷室さんを失うようなことになったら、何にも意味がない。
「……大丈夫。大丈夫だからね、氷室さん。私が必ず、助けるから」
「…………ええ」
凍り付いて冷たくなった体は、私にしがみつく力すら残っていないらしい。
返答も力なく、意識を持って返事をしているのかも怪しい。
私の背中で、どんどん彼女の命がすり減っていくのを感じる。
「全部、全部終わったんだよ。私たち、全部勝ったんだよ。氷室さんのお陰で。やっと、平和な毎日が返ってくるんだよ」
「…………ええ」
「魔法使いとは────ロード・スクルドは悪い人じゃないし、国の誤解も解けたみたいだから、きっとわかり合える。きっと、魔法使いと魔女の争いのない国にできるよ」
「………………ええ」
「そうすれば、魔女はもっとのびのび、理不尽なことに怯えないで堂々と暮らせる。カノンさんたちみたいにこっちで暮らしたい人はそうしてもいいし、みんなもっと自由に生きられるよ」
「……………………えぇ」
私に降りかかってくる思惑、牙を剝く悪意、多くのトラブルを、私たちは全て振り払って来た。
こうして最大の危機を乗り越えた今、私たちには明るい未来しかないんだ。
だから、これからを語る。目指して来た、夢に溢れるこの先の日々を。
この背に、氷室さんを感じながら。
足が重く、廃ビルまでの道のりが果てしなく感じる。
力が使えないどころか、私の体も全身が悲鳴を上げている。
それでも、縋り付く思いで歩みを進める。
「ねぇ、氷室さん。昔は仲良しだったけど、私が色々あったから、最近まで全然お喋りできなかったでしょ? でも私は高校で氷室さんに出会ってから、ずっと気になってて。読んでる本のこととか、いっぱい話したかったんだ」
「…………………………」
「……もう、随分と前のことのような気がするけどさ。覚えてる? この前、約束したよね。みんなでクリスマスパーティーしようって。晴香は……いなくなっちゃたけど、でも、創と三人で、必ずしようね」
「……………………」
「…………私、氷室さんと沢山、たっくさんお喋りしたいよ。好きなこと嫌いなこと、会えなかった頃のこととか、私の知らない氷室さんのこと、いっぱい聞かせて欲しい。これからは、そういう話をする時間、たっぷりあるから」
「…………」
ここ数日ずっと一緒にいたようで、いつもドラブルばかりだったから。
この間のお泊まりの時のようにゆっくりした時間をうんと作って、氷室さんのことを沢山知りたい。
私が待たせてしまった分を取り戻すために、いっぱい、いっぱい。
「だから氷室さん、頑張って。私が、絶対に、助けるから。約束したでしょ……?」
「……」
耳元をくすぐっていた微かな吐息が、感じられない。
その体のほとんどが、張り付くような冷たさに固まって、動かない。
氷室さんは何も、答えない。
「…………」
廃ビルの前に着いた。
でも私の足は、そこでガクッと折れてしまった。
この背に覆いかぶさる氷室さんの細い体が、いつになく重く感じる。
振り返ることができなかった。これ以上、言葉をかけることができなかった。
だってそうしたら、この事実を認識しなければならなくなるから。
でも、嫌というほどわかっているんだ。確かめなくても。
だって今、この手から零れ落ちてしまったんだから。
私は今、一番大切なものを────────
「うぅわぁぁぁああああああぁああぁぁあああああああーーーー!!!!!!!!」
第8章「私の一番大切なもの」 完