125 私にとっての真理
冷たい地面の感覚と同時に、私は意識を取り戻した。
心の中に落ちた精神の状態ではなく、確かに現実にいると、体全体の感覚で自覚できる。
私はまだ、ちゃんと生きていた。
それを実感する一方で、周囲が冷たく禍々しい力で埋め尽くされていることが肌で感じられた。
ジャバウォックという邪悪の権化が世界を蹂躙し、その混沌で全てを埋め尽くそうとしている。
その絶望感が辺りを蝕んで、その混沌とした力が周囲で暴れ回っている。
先程負ったダメージで、体は鉛のように重い。
けれど決して諦めてはいけないという気持ちと、この心に灯るみんなとの繋がりが私を起き上がらせた。
そうして顔を上げた先で、私はどうして今も尚、自分が生きていられたのかを知った。
大き氷の華の盾が、倒れ伏す私の前に展開されていた。
荒れ狂う黒い力の奔流の中、視界を埋め尽くすばかりの巨大な盾が、私を守っている。
けれどそれは私が立ち上がるのと同時に砕け散ってしまって。でもその先には、もう一つ大きな防御があった。
「氷室さんッ……!!!」
私を守るように、氷室さんがジャバウォックの攻撃に立ち向かっていた。
一人その前に立ちはだかり、幾重にも氷結を重ね掛けして、ジャバウォックが吐き出す闇を防いでいる。
すぐさま魔法を崩壊させるジャバウォックの力の前に、絶え間なく全霊の魔法をかけ続けている氷室さんの体は、半ば凍り付いていた。
「────アリス、ちゃん……よかっ、た……」
「氷室さん……ずっと、私を守って……」
「約束、したから……私が、あなたを守る、と……」
細い手は霜が降って白み、全身は悴んで、黒髪は凍り付いている。
魔法を打ち砕く無情に抗うその力は、確実に氷室さん自身をも蝕んでいた。
それでも彼女はそのポーカーフェイスを崩すことなく、振り返って安堵の瞳を向けて来た。
「ごめんなさい、私がしっかりしてなかったから、氷室さんが……!」
「謝らなくて、いい。私が、あなたを守りたくて、こうしているんだから……。あなたが無事なら、私は、嬉しい……」
「私だって、氷室さんに無事でいて欲しいよ。今度は私が守るから、だから、後は私に任せて」
折れた剣を握り締め、私は氷室さんの隣に並んだ。
氷室さんの魔法は辛うじて私たち二人分の隙間を守っていて、他は全て黒の力に埋め尽くされている。
それも、凄まじい混濁の力にいつ瓦解してもおかしくなく、今この時まで保たれていることが奇跡のようだった。
氷室さんは凍りかけた両手を正面に掲げたまま、小さく首を横に振った。
「これを解けば、その瞬間に全て飲み込まれてしまう。あなたに打開する力があっても、それを振るう隙間が無いくらい、もうギリギリ……」
「私がなんとかするから。これ以上その魔法を使い続けたら、氷室さんが……!」
「私は、大丈夫、だから。私がアリスちゃんを、支える。道を、切り開くから。だから……」
そうやって話している間にも、無謀な力が氷室さんを蝕んでいく。
今の氷室さんは物凄い力を振り絞っているってわかるけれど、それが体と心をすり減らしているのは明らかだ。
だから今すぐにでもやめてほしいけれど、でも、状況を見れば彼女の言うことがもっともだった。
ジャバウォックを打倒するためには、現状を打開するためには、私一人の力では及ばない。
氷室さんを救うためには、彼女を信じて一緒に前に進んでいくしか無いんだ。
これ以上氷室さんが傷つかないことを望むからこそ、今はそうするしかない。
「……わかった。私が絶対にジャバウォックを倒すから、もうひと頑張り、お願い。絶対、折れちゃダメだよ!」
「ええ……。でも、一つだけ、約束を……して、ほしい」
弾ける力がその体を固めていく中、氷室さんはそのスカイブルーの瞳を私へと向けた。
切実で縋り付くような、弱々しくも芯の通った視線が、私を見据える。
「この先、たとえ何があっても……私を見失わないで、欲しい。ずっと、私と一緒に……もし、私がどんなことに、なったとしても。私が、私でなくなっても、ずっと……」
「当たり前だよ! 私はもう二度と、あなたを放したりなんかしない。あなたを失いたくなんかない。何があったって、どんな形だって、私たちはずっと一緒だよ!」
震える声に私が強く答えると、氷室さんはホッとした様に小さく口元を緩めた。
ずっと私のことを待っていてくれて、いつだって私のことを支えてくれて、どんな時も守ってくれた氷室さん。
私のとっても大切な、掛け替えのない友達。この先どんなことがあろうとも、決して手放したくなんかない。
約束なんていくらでもする。だって、私には氷室さんが必要不可欠なんだから。
交わる視線で、この気持ちを全て伝える。
氷室さんは満足そうに頷いて、再び目の前へと顔を向けた。
それに合わせて、私は朽ち折れた『真理の剣』を掲げる。
「────────!」
そして、氷室さんの魔力が急激に膨れあり、爆ぜた。
ギリギリだった防御を振り絞った力で盤石にし、僅かな余裕を作ってくれる。
それに合わせて、私は剣に自らの力を集結させた。
さっき見出した、私の力。私だけの力。
みんなとの繋がりが作り出す、無限大の希望の力。
私にとっての、真理たる力。
私の心から溢れる温かな力が、折れた剣に集って光り輝く。
失われた刀身はその輝きによって補われて、剣は金色に煌めいた。
私自身からも止めどない力が輝きと共に広がって、大きく衝撃が波打った。
みんなの心が私に集って、みんなの手がこの手に添えられている。
もう何も、怖くなかった。
「私はみんなを、氷室さんを、守るんだ────!」
そして、剣を振り下ろす。
金色に輝く剣は、その一振りで氷室さんの氷ごと目の前の黒を切り裂き、暗闇に一本の活路を開いた。
今までの『真理の剣』の様に、あらゆる神秘を砕く力は今の私にはないのかもしれない。
けれど、絶望の中に一筋の希望を切り開く力さえあれば、十分だ。
私に必要なのは、ただ一つの答えじゃない。みんなと歩む、無限の可能性なんだ。
必要な道は、自分たちで作り出す!
「ジャバウォック!!!」
生み出された活路の先に、醜悪な獣の姿が見えた。
二つに割れた闇の咆哮を吐き続けながら、私を食らいつく様に見つめている。
私はその姿目掛けて、金色の剣を携えて一目散に飛び込んだ。
けれど突き進む私に、周囲の黒い力がすぐに押し迫ってくる。
「アリスちゃんは、私が……!!!」
氷室さんが凍結を更に伸ばして、私の行く道に迫る闇を全て凍結させた。
既に散々無理をしていたのにやり過ぎだと思ったけれど、でもおかげで邪魔するものは何もなくて。
私は振り返りたい気持ちを必死に堪えて、ただジャバウォックを見据えて突撃した。
『ッ────────────────!!!!!』
そして、ジャバウォックの目の前へと至った私は、その頭目掛けて跳んだ。
ジャバウォックは闇を吐き出すのをやめ、私を追って顔を上げ、その顎を最大限に開く。
間近で放たれる絶叫にも、今は全く恐怖を感じなくて。その気持ちの悪い姿にも、微塵も物怖じしない。
ただただ私は、目の前の障害を振り払うため、金色の剣を振り上げた。
「絶望なんか知らない。混沌なんかいらない。私たちの未来を、勝手に捨てないでよ!!!」
世界の意思とか、在り方の間違いとか、夢とか現実とか。
そんなこと全部知ったことじゃない。
私は、私と友達の未来を、ただ大切にしたいだけなんだ。
剣を振り下ろす。
けれど一瞬だけ早く、ジャバウォックの牙が私へと伸びた。
しかし、胸元に刹那に咲いた氷の華の盾が、それを瞬間的に押し留めて。
私の剣の刃が先に、ジャバウォックへと到達した。
「ぁぁぁああああああぁあああぁあああああああ────────!!!!!!!!」
力の限り、想いの限り振り抜いた剣。
それは金色の輝きを真っ直ぐに解き放って、ジャバウォックを頭から真っ二つにした。
溢れる力が全て輝きとなって、煌く力が剣の刃を補って。
世界を絶望に落とす混沌の権化を、私たちの希望が一刀両断した。
『────────────』
暗闇を晴らす金色の輝きがジャバウォックを飲み込む。
全てを混濁とさせることでしか形を保てない破滅の怪物を、みんなの心を繋ぎ合わせた希望が打ち砕く。
ジャバウォックがあげる悲鳴は、しかし何の音も響かせず、その怨嗟すらも輝きが埋め尽くした。
そして、ジャバウォックは輝きに飲み込まれて形を失い、崩れた闇の残骸も、また金色にかき消された。
二つの世界をかき乱し、あらゆるものに絶望を振りまき、全てを混沌に落とそうとした、災厄の魔物。
ジャバウォックは、その呪いは、この剣の元に跡形もなく消え去った。
「…………勝っ、た」
荒れ狂っていた力の渦は晴れ、邪悪な気配は全てなくなって。
今までの天変地異が嘘だったかの様に、一気に平穏が帰って来た。
暗雲立ち込めていた空は晴れ、静かな夜の景色が穏やかにこちらを見下ろしてくる。
そうして訪れた静寂に、私はゆっくりと現実を噛みしめた。
空間の捩れはなくなり、断裂も緩やかに繋ぎ合わさっていく。
乱れた時空も、きっと時間と共に正常な形に戻っていくんだろう。
荒れ果てた世界の痛みはなくならないし、救えなかった人たちだってきっと沢山いた。
でももう誰も、あの邪悪に苦しめられることはない。この世界を苦しめる悪夢は、なくなった。
私たちは勝ったんだ。
「やった……やったよ。氷室さんのおかげで私、世界を守れたんだ……」
喜びよりも、安堵が勝る。
とにかくホッとして、全身の力が抜けそうだった。
でも何よりこの気持ちを分かち合いたくて、私は急いで背後を振り返った。
そしてそこで、地面に倒れ伏す氷室さんの姿を見つけた。
「ひ、氷室さん────!?」
緩んでいた気持ちが、ぎゅっと絞りあげられる。
一瞬で頭が白くなって、私は慌てて氷室さんに駆け寄った。
その体を抱き起こしてみると、まるで本物の氷の様に冷たかった。
「氷室さん……ねぇ、氷室さん……!!!」
「────アリ、ス……ちゃ、ん」
微かに唇が開いて、消えそうな声が零れる。
返答があったことにホッとしたけれど、氷室さんは薄く瞼を開けて、朦朧と目を泳がせていて。
その瞳は、私を映していないようだった。