123 混沌の底、絶望の淵
全てが黒に塗りつぶされて、自分がなんだかわからなくなる。
自分自身も、周りも、世界も。ありとあらゆる物がごちゃ混ぜになって、何一つとして判別できない。
幸も不幸も、喜びも悲しみも、怒りも憎しみも。この胸に膨らむすべての感情が、一緒くたにされてわけがわからない。
これが、全てが混濁するということ。
良いも悪いも全て無視して、何もかもを台無しにしてしまう、混沌による破滅。
私はそれに敗れて、底のない闇に堕ちたんだ。
私の意識は現実から乖離して、ひたすら無の中に沈んでいく。
「何を聞き分けの良いことを言っているの。生意気な小娘が」
暗闇が支配する虚無の中で、冷たい声が聞こえた。
闇に飲み込まれた私の心の中で、こんなふてぶてしい声をあげられる人は一人しかいない。
顔も見たくないし声だって聞きたくない。けれど悔しいことに、そうして声をかけらたことで、私はこの混濁した心の奥底で自分を認識することができた。
彼女と私は違う。その認識を糧に、自分自身を見出した。
途端、暗闇の中でぼんやりと景色が見え始めた。
そして同時に私は自分の体の感覚を取り戻して、果てがないと思っていた落下が止まる。
いつの間にか私は足を地面につけていて、そうして地を踏み締めることで、より辺りが認識できるようになった。
深い深い暗闇の中に、ぼんやりと森が広がっていることが窺えた。
意識を失った私は、また心の奥底に落ちて、そしてこの心象が生み出す場所にやって来たんだ。
けれどそこはいつも見る森とは明らかに様相が違って、あまりにもどんよりとしていた。
暗闇に包まれているだけじゃない。
生茂る木々や草花は萎れて、縮こまり、まるで生気が感じられないんだ。
そんな草木はアーチを作るように密集して、薄暗い森の中に更に寂しげな洞窟のような物が出来上がっている。
私はいつの間にか、その中に立っていた。
「…………」
手には、刀身が砕けた『真理の剣』が握られている。
それを見て、私は改めて自身の敗北を知らしめられた。
私の剣は混沌の力の前に敗れ、その圧倒的な絶望に、私の心は屈してしまったんだ。
心の中とはいえ、こうして意識があることが意外に思える。
あのまま消え去ってしまっていても、決しておかしくなかった。
「何を馬鹿なことを言っているの。私は言ったはずよ。混沌にはあなたが立ち向かいなさいと。敗れることを、私は許してなんていないわ」
また、声が聞こえた。
それは木々が作り出す洞窟の奥から響いて来ていた。
冷淡で独りよがりなドルミーレの声。
もしかしたら、混沌に沈みゆく私の心を、彼女がここに引っ張り込んだのかもしれない。
気は向かなかったけれど、私は洞窟の奥へと進むことにした。
これ以上何がどうなるとも思えないけれど、でも彼女が呼んでいるから。
木々が密集する洞窟はしばらく続いて、その最奥に、ドルミーレの姿はあった。
黒塗りの大きな椅子の上で、両膝を抱えて蹲っている、とても悲壮的な姿。
黒く長い髪の隙間から私を恨めしそうに見ている。
「一体、あなたは何をしているの? 自分のすることに関わるなとか、あんな生意気なことを私に言ったくせに。混沌に屈して、そのまま消えようとしている。無様ね」
「ドルミーレ……」
ドルミーレの声は細く、けれど決して弱々しさはない。
そこに込められた威圧感は、強い怒りと恨みによるものだった。
「あの忌々しい魔物が、とても恐ろしいものだということは認めましょう。けれど、私を否定するあなたは、それを打倒しうる力を持っているんではなかったの?」
「……でも、『真理の剣』は折れてしまった。この剣がなかったら、ジャバウォックになんて勝てない。それは、あなたがよくわかっているんじゃないの……?」
「そうね。混沌を打ち倒すには、その混濁を正す真理の力が必要……私ですら、先端にしか至れなった概念を、あなたに扱い切れということ自体が、無理な話だったのかしら。がっかりだわ」
「え……?」
大きな溜息をついて膝に顔を埋めるドルミーレに、私は思わず首を傾げた。
ドルミーレにすら、この剣の力は使いこなせていなかった?
真理の力という物が具体的にどういう物なのかは、私にはよくわからないけれど。彼女すら扱いきれていなかったものを、私が十分に振るえないことは確かに当たり前だ。
そもそもこれはジャバウォックへの対抗手段として、あまりにも不十分だったということだ。
それをきっと、ドルミーレははじめからわかっていたはず。
彼女の力を扱え、一応でも『真理の剣』を振えても、それでも私には力が及ばないと。
だというのに、どうして彼女は私に、混沌と立ち向かうことを押し付けて来たのか。
自分が向き合いたくないとか、そういう気持ちももちろんあるだろうけれど。
彼女は、その至らないものを埋める何かが私にはあると、わかっていたのかな。
でも、それって……。
「こんなところで死ぬなんて、私は許さないわよ。あなたに死なれたら、私の夢が台無しになる」
「もしかして、いつだかみたいに私の体を乗っ取ろうってつもりじゃ……」
「嫌よ。私はもう二度と、あの魔物とは向かい合いたくないわ。あんな悍ましいもの、関わりたくなんてない。だからこうやって、いつもよりも更に深くに篭っているんだから」
「…………」
ドルミーレはとても無気力な様子で、吐き捨てるように言った。
ジャバウォックに敗れるのは嫌だけれど、だからといって自らが動くことも嫌で。
彼女に支配されるようなことがなくてホッとしたけれど、でも何か打開策があるわけでもない。
いや、打開策も何も、私は既に負けてしまっているんだけれど。
「まさかもう一度混沌が牙を剥くなんて、思いもよらなかった。こんな長い間、大人しく眠っていたのに。どうしてこの世界は、こんなにも私を憎むのかしら。……まぁ、ミス・フラワーがあの世界に残っていた時点で、可能性はあったということね」
「……ミス・フラワー。あなたと彼女は、深い関係があるんでしょ? あなたの力で彼女を制して、ジャバウォックを止めるなんてことは、できないの?」
「できるわけがないわ。だって逆だもの。彼女が私を制するために、ジャバウォックは呼ばれている。それでも前回ならいざ知らず、今回は依代として完全に同化してしまっているみたいだし。もう彼女の意思は存在しないでしょう」
「そんな……」
ミス・フラワーを糧としてジャバウォックは生まれたから、彼女に訴えかけるという方法もあるんじゃないか、とも思ったけれど。
でもそういうことなら、それどころかミス・フラワーを助けることすらできないということだ。
ドルミーレは一人で大きく落胆して、小さく縮こまる。
全て私が弱いせいにして、自分は何一つ悪くないような顔をして。
そんな姿を見ていると、無性に腹が立った。
私が戦ったのは、ドルミーレのためじゃなくて自分のため。自分の大切なものを守るためだ。
それを、うまくいかなかったからといってどうして彼女に責められなければいけないのか。
何もかもを拒絶して、一人で心の中に閉じこもって、そうやって自ら孤高を選んでいる人に、私が何かをしてあげる義理なんてない。
そもそも私は、その身勝手さに散々振り回されて来たんだから。
このままで、良いのかな。
このまま敗北を受け入れたら私は、こうやって一人の世界に引きこもる、この人と同じになっちゃうんじゃないかな。
苦しいことから逃げて、辛い現実から目を背けて、全てを周りのせいにして。
何もかもを失って、何もない場所で消えてしまうような、そんな結末を迎えてしまうんじゃないかな。
そんなのは、嫌だ。
「────ねぇ、ドルミーレ」
そんな対抗意識、いや意地が、折れた心を僅かに奮い立たせた。
私を生み出したこの人と、同じ道を辿りたくはない。
こんな寂しい場所に堕ちて、それで仕方ないだなんて思いたくない。だから。
「晴香を、返して」
折れた剣を握りしめ、私は強くそう言った。