118 混ざり合う世界
ジャバウォックの叫びに世界が耐えられなくなったのか、至る所で空間に裂け目が生まれる。
それだけではなく、不安定になった場所には蜃気楼のように他の場所の景色が浮かび始め、辺りがどんどんとぐちゃぐちゃしていった。
ジャバウォックという存在は、世界に牙を剥く。
それは物理的な崩壊だけではなく、世界の基盤や枠組みを破壊するものなんだ。
時空が歪んだ影響か、激震は絶え間なく続き、暴風が入り乱れ、世界自体が轟いている。
「もしかして、世界が壊れ始めた!?」
「そうみたいだ! 二千年前にも、似たような光景になった!」
悲鳴のような声を上げるアリアに、夜子さんが唸るように頷いた。
空間が引き裂けるということは、その場にあるものも同時に破壊されるということで。
街の地面にもその影響は伸び、地割れも起き始めた。
「みんな、巻き込まれないように気をつけて! ひとたまりもないわ!」
お母さんの叫びと同時に、私たちは一斉に散開した。
空間の断裂はいつどこで起きるかわからず、じっとしていたらあまりにも危険だ。
私は氷室さんと一緒に大きく回り込んで、ジャバウォックの死角を取ろうと旋回した。
みんなも方々へと飛び回り、各々が牽制のために攻撃を放つ。
けれどジャバウォックの周囲の空間は一際歪んでいて、その渦に乱されて魔法が上手く届かない。
だからといって自ら飛び込めば、自分たちが空間ごと引き裂かれてしまいそうだった。
それでも諦めず攻撃を続けて、けれどどうしても形勢が覆せない。
時間が経つにつれて周囲の断裂、歪みは広がっていて、違う景色が写っていると思えば、空間が歪み過ぎて違う場所と繋がってしまっている場所も出てきた。
「このままじゃ、本当に世界がめちゃくちゃになっちゃう!」
焦りが全身を震わせて、冷たい汗が掌を濡らした。
世界の崩壊というものをまざまざと見せられて、理解のできない恐怖が心を蝕む。
それでも諦めてはいけないと、私は『真理の剣』を大きく振り上げた。
ジャバウォックの力がドルミーレと同質なら、それもまた魔法の延長上。
そう考えれば、ジャバウォックが時空に及ぼしている悪影響もまた、魔法の力によるもののはずだ。
その全てを崩せなくても、この剣なら切り口を開けるかもしれない。
「これ以上、世界を壊さないで!!!」
『────────ッ!!!』
大きく回り込んで、ジャバウォックに向けて『真理の剣』の斬撃を放つ。
白く輝く魔力を濃密に含んだ斬撃が、波動となって撃ち放たれ、ジャバウォックへと突き進んでいく。
しかしそれと同時に、ジャバウォックは私の方へとその細長い首を曲げ、けたたましい奇声を上げた。
ジャバウォックが生み出す時空の歪みと、私の斬撃がぶつかり合う。
その瞬間、ぐわんと大きな振動が襲ってきたかと思うと、周囲がぐるぐると渦巻きだした。
まるでサイクロンに引き寄せられているかのように、空間ごと引き寄せられ、まるで身動きが取れない。
「アリスちゃん────!」
すぐそばにいた氷室さんが、慌てて私の腕を強く掴んだ。
暴れ狂う大空の中で、何とか二人で身を寄せ合って、けれどそれ以上はどうにもならない。
周囲を大きく攪拌された私たちは、暴れ狂う時空に身を任せることしかできなかった。
『────────』
「っ────! …………ッ!」
ジャバウォックの薄気味悪い叫びが聞こえる。
遠くで、みんなが私たちを呼ぶ声が聞こえる。
でもどんなに目を凝らしても、ぐしゃぐしゃに掻き回された周囲と、振り回される自分からは、何も見て取ることはできなかった。
今わかるのは、固く体を繋ぎ合っている氷室さんの細い感覚だけ。
そして、永遠のような一瞬のような、時が終わって。
暴れ狂う時空の歪みに流された私たちは、唐突に硬い地面に投げ出された。
クラクラする頭を抱えながら、その鈍い痛みを噛み締めていると、それはコンクリートの冷たい硬さだということに気付いた。
王都の多くは石畳や土の地面で、コンクリートなんてない。
ハッとして起き上がってみればそこは、私のよく知る景色が広がっていた。
ここは、私が生まれ育った世界。
いくつかのビルが立ち並び、車が行き交い、電飾が煌めく世界。
『まほうつかいの国』じゃない、私の街だ。
「そんな、馬鹿な……!」
今の今まで『まほうつかいの国』の王都にいたのに。
けれどそんな驚愕もそこそこ、更に目を疑う光景がそこにはあった。
私たちが転がされたのは、加賀見市駅前の広場。
いつも賑わうそこは、しかし今は人の数がとても少なかった。
そんな中で、まばらな人々は暗い上空を見上げて、皆一様に恐怖の表情を浮かべていた。
高いビルの更に上、黒暗立ち込める空には、ジャバウォックが浮かんでいた。
王都の上空にいたのと同じく、その悍ましい姿を悠然と晒し、呪いを振りまかんとこちらを見下ろしている。
そしてこの世界の空間にも、さっきと同じような切れ目や捩れが生まれ始めていた。
「やっぱり、ジャバウォックの影響がこっちにも……!?」
何故世界を移動してしまったのかといえば、もうジャバウォックの仕業としか考えられない。
歪められた時空が混ざり合って、二つの世界の隔たりをあやふやにしてしまったんだ。
こちらの世界は、先日の『魔女ウィルス』の一斉発症で、ただでさえ未曾有の混乱が起きているっていうのに。
あんな未知の化け物が現れて、世界ごと掻き乱されてしまっては、もう混乱どころの騒ぎじゃない。
「早く……早く倒さないと……!」
「戦力が厚い、あちらの世界に戻すのが一番。なんとか、もう一度世界を越えられれば……」
「そうだね。できなくてもやろう。どっちの世界にいてもダメだけど、こっちじゃ対抗手段がなさすぎる……!」
氷室さんも流石に少し焦りを見せていた。
二人で慌てて立ち上がり、逃げ惑う人たちを尻目にジャバウォックを見上げる。
『────────!!!』
それを待ち受けていたかのように、ジャバウォックが叫ぶ。
同時に足元が隆起して、地面が次々に爆発を起こした。
私たちはギリギリのところで飛翔して、近くのビル伝いに大空へと駆け上がる。
すると、叫びによって破裂したビルの窓が、シャワーのように降り注いできた。
こまごまと雪崩れてくるガラス片を、氷室さんがひとまとめに凍らせて、大きく回避して上昇する。
そうしてビルの屋上まで登り詰めると、今度はジャバウォックがそこに向けて闇を吐き出してきた。
その攻撃を『真理の剣』で切り裂いて、その隙間を縫って急接近を試みるも、そこで空間の激震に遭い、私たちは下へと叩き落とされた。
氷室さんが空中を凍らせ、滑り台のように体を滑らせ落下の軌道を傍に逸らしてくれた。
その瞬間、さっきまで私たちがいたビルの上部がすぐそこに崩落してきて、私たちは直撃を免れるも衝撃に巻き込まれて吹き飛んだ。
落下したビルの一部の瓦礫と、それによって大きく損壊した駅前広場。
まるで大地震に見舞われたような惨状の中に、私たちは思いっきり投げ出された。
重い攻撃は受けていないけれど、それでも少しずつダメージが蓄積している。
それでもぐったりとなんてしている暇はなく、私は自分に鞭を打って体を起こした。
すぐ隣の氷室さんと手を取り合って立ち上がると、ジャバウォックがすぐ真上まで迫っていた。
体を形成する沢山の死骸の顔と、べちゃりと潰れた顔が私たちを覗き込む。
長い首の中腹まで避けた奇妙な口をあんぐりと開け、ネバネバと気味の悪い涎を垂らしている。
存在そのものが何より気持ち悪いのに、見た目も見た目で度し難いほどに醜悪だ。
でも、震えている場合じゃない。怯んでいる暇はない。
ガクガクと戦慄く脚を踏ん張りながら、氷室さんと身を寄せて、剣を強く握ったその時。
突然どこからともなく、沢山の蝶が飛んできた。
青白く幻想的に瞬く蝶が幾羽、勢いよくやってきて、ジャバウォックの周囲に踊る。
煌びやかな光景に一瞬の目を奪われていると、それらは一斉に眩い閃光と共に弾け、激しい雷鳴を轟かせた。