114 混沌と絶望の中で
瞬間、私の中身が全てぐちゃりと潰れたような感覚に襲われた。
体の中、心の中を全てぐちゃぐちゃにすり潰されて、混ぜこぜにされたような、そんな気持ち悪さ。
そして私の心の奥底で、断末魔のような悲鳴が上がった。
それは、ドルミーレが激しい拒絶感を覚えているものだとすぐにわかった。
けれど私自身、黒く塗りつぶされた冷たい感情に支配されてしまって、それがドルミーレの叫びなのか、自分の叫びなのか区別がつかない。
理性そのものがザクザクと音を立てて切り刻まれているようで、気が狂いそうなほどの恐怖が全身に絶望を満たす。
「────アリス、ちゃん。アリスちゃん、しっかり……!」
氷室さんが私にしがみついて、押し込めるように私の顔を下げさせた。
彼女もまた恐ろしく震えているのに、それでも私を力強くよく押しつけて。
そうされたことで私は幾ばくかの理性を取り戻して、そこで初めて、自分がけたたましい悲鳴をあげていたことに気付いた。
抱き込まれるように氷室さんに押さえられて、それに思わずしがみつく。
目を離しても、その姿が網膜に、いや心にこびりついて離れない。
自分が生きていることが信じられないほどに、恐ろしくてたまらなかった。
私たちに覆い被さっているもの。混沌の魔物ジャバウォック。
私の目が捉えたその姿を、何だと表現していいのか、よくわからない。
何かの生物のような姿をしているのに、けれどなんの生物でもありはしない。
少なくとも、女王様の面影などはなく、もちろん人の名残なんてありはしない。
何らかの獣のようであるそれは、強いていうのであれば、空想の存在たるドラゴンのようで。
広間の空間にギリギリ収まっているその体は、大きく長い胴体をしていて、どうやら巨大な翼やスラリと長い尻尾がある。
全体的に深淵の闇のような黒々とした肌で、その体の至る所には、色々な生物の顔のようなものが浮かび上がっていた。
人を始めとした様々な動物、生き物の顔が、苦悶の表情を浮かべて張り付いている。
絶望と破滅を煮詰めたようなそれは、生きとし生けるものの苦しみを混濁させたような、そんな形。
多くの死骸を混ぜ合わせたような姿は、まさしく全てを混沌とさせる絶望そのもの。
そんな悍ましい姿をしているのに、その胴体には真紅のドレスがまとわれていることが、とてもチグハグとする。
姿そのものは女王様のカケラもないけれど、それは彼女の名残ともいえるもので。
まさしく、その怨嗟を燃料にしているものだということがわかった。
そんな不釣り合いな衣服の首元からは、細長い首が伸びていて、その先にはとても歪な形の頭がついている。
とても潰れた顔面で、それ故にか両目は落ちそうなほどに飛び出している。
口は首の半分くらいまで裂けた巨大なもので、その中は剣山のように無数の鋭い歯がひしめき合っている。
異様に細長い脚は恐らく全部で六本。
翼も尾も首も、この狭い空間では縮こませざるを得ないようで、とぐろを巻くように収まっている。
だから本当の全容は窺えないけれど、生物のようで決して生物とはいえない姿をしているのは、嫌というほどよくわかった。
混沌の化身とか、破壊の権化とか、世界を滅ぼす存在とか、そんな言葉で表せるほど単純なものじゃない。
これは、世界に存在してはいけないものだ。人が対面してはいけないものだ。
理解できないし、してはいけないし、わかってはいけないし、わかるわけがない。
こんなものが何らかの形を持って存在する場所に、人はいちゃいけないんだ。
「醜く、恐ろしい、理外の獣。これこそが、混沌の魔物ジャバウォック! まさしく世界を破壊するための存在! 素晴らしい!」
私たちが恐怖で縮み上がる中、ロード・デュークスが上げる声が聞こえた。
辛うじて視線を向けてみれば、彼は姿を現したジャバウォックの尾に壁へと追いやられ、無惨に挟まれていた。
しかしそんな状況をものともせず、彼は崩壊の権化に嬉々とした声を上げている。
「わかる、わかるぞ。その存在が、世界そのものに牙を向いている。世の理を掻き乱し、あるゆる論理を崩壊させ、この世界を基盤から崩している。そう……そうだ! この間違えた世界を、ゼロへ戻せ! その役割を果たし、全てを無へと回帰させるのだ!」
『────────ッ! ────────────!!!!』
ロード・デュークスの呼び掛けに応えるように、ジャバウォックが咆哮した。
その叫びは声と呼べるものではなく、あらゆる不快音を全て合わせたような、吐き気を催す怪音。
それそのものが呪いであるかのように、鼓膜を通して心に暗闇を轟かせる。
そして、それと同時にジャバウォックは大きく身動いた。
窮屈そうに収まっていた体を、伸びをするように蠢かす。
広間の壁や天井は、その質量に耐えられずに呆気なく破裂し、玉座の間の半分が簡単に崩壊した。
崩れ去った壁と天井の先で、雲ひとつない空が露わになって、ジャバウォックは解放を求めるように外へと身を乗り出した。
『────────ッ!!!』
そして、迷うことなく大きく羽ばたく。
狭い空間内で翼が暴れ回り、更に広間内を破壊しながら、ジャバウォックは城から飛び出し大空へと羽ばたいた。
私たちはそれの衝撃にただただ堪えることしかできなくて、みんなで身を寄せ合わせ、縮こまるしかなかった。
ジャバウォックが城から飛び出しても、そこから感じる気持ち悪さは全く変わらない。
それを見ているとか、近くにいるのかなんて関係ない。あれがこの世に存在していること、それが全てだった。
けれど、あの怪物に覗き込まれているという圧迫感からは解放されて、ほんの少しだけ気が楽になる。
「どう、しよう……」
外界へと飛び出したジャバウォックを見ながら、ようやく言葉が出る。
晴れやかだった空には突如黒い雲が蔓延って、あっという間に世界に夜の帳が下りる。
その黒い雲の中では赤雷が轟きだして、まさしく世界の終焉と言える混沌とした様子が辺りを埋め尽くした。
「ジャバウォックが、顕れちゃった……。あんなのが、世界に……」
ジャバウォックが危険だということは、絶望的な存在だということは、頭ではよくわかっていた。
でも実際にこうやって体感すると、何もわかっていなかったんだとわかる。
あれはそういった、人が乗り越えられる危機なんかじゃない。抗いようのない、宿命のような存在だ。
人が、自分というものがとてもちっぽけで、無力なんだと知らしめられた。
唐突な周囲の変化。そして何よりジャバウォックという怪物の出現に、街からは多くの悲鳴が聞こえてくる。
それも、まさしく絶望的な、けたたましい泣き叫ぶような悲鳴だ。
阿鼻叫喚を通り越して、地獄の底の断末魔の如き、絶望の淵の声。
この国のみんなが、泣き叫んでいる。
「────────」
その声を聞いて、私はハッと息を飲んだ。
それと同時に周りを見回してみれば、崩壊した広間の中で身を寄せ合っているみんなの、青白い顔が見えた。
そこには希望のカケラもなく、ただ辛うじて今生きているだけで、生気はまるで感じられない。
でも、確かにまだ生きてる。
私を強く抱きしめてくれている氷室さんと目が合って、そのスカイブルーの瞳が私を覗き込んだ。
絶望の奥底に突き落とされて、希望の光がまるで届かない暗闇の中。それでも、私を見てくれる瞳。
私は、この人を守らなければならないのだと、思い出した。
私は、大切な人たちを守らなければいけないんだと。
「……どうしようじゃ、ない。私が、何とかしなきゃいけないんだ……」
力の入らない体を奮い立たせ、『真理の剣』を杖にして立ち上がる。
震えながら伸ばしてくる氷室さんの手を握りながら、その温もりで己を鼓舞して。
「絶望してる場合じゃ、ない。あれは、私にしかどうにもできないんだ……」
ジャバウォックはドルミーレの天敵。それは逆も然り。
それは、彼女の力を持つ私にも適用される相性関係。
あれは私にとって脅威だけれど、私だからこそ刃が届くはずなんだ。
とても恐ろしい。今すぐ死んだ方がマシだと思うほどに、怖くてたまらない。
あれが絶望そのものだという事実を、全身でひしひしと感じる。
けれど、私は絶望よりも恐ろしいものを知っている。
私が何よりも耐えられないのは、大切な人を失うことだ。
私に繋がってくれる友達、支えてくれる人たち、力を貸してくれる人たち。
私を私足らしめてくれる大切な人たちを失うことが、何より私の心を引き裂く。
氷室さんやみんなを失うくらいなら、絶望に立ち向かう方がきっと、何千倍もマシだ。
「私が、守る。絶対に守る。私の大切ものを、あんなものに壊されるわけには、いかないんだ……!」
もう何も、失いたくない。