110 守れたものを噛み締める
氷室さんの冷たくも確かに存在する温もりに、心がじんわりと満たされる。
その華奢な体を抱きしめると、全身が思いっきり安堵に包まれた。
その無事を心の底から嬉しく思いながらも、けれどどうしても、手が届かなったクリアちゃんのことを考えてしまった。
結局私は、彼女にすべきことを何もできなかった。
もちろん、今すべきことは氷室さんの救出とジャバウォックの阻止だった。
けれど私はクリアちゃんの友達として、彼女の感情の中心として、その全てに責任を果たさなければならなかったのに。
クリアちゃんがいなくなってしまっては、もうその罪を償わせることができない。
悔い改めさせて、新しい道を歩ませることもできない。
歪になってしまった彼女の心を、救ってあげることもできない。
生きていなければ、なんの未来もないのに。
「自分から生きることを手放して、逃げるなんて卑怯だよ……」
私は最後まで、クリアちゃんをわかってあげることができなかった。
この怒りを解いて許して、もう一度笑いあうことができなかった。
それが堪らなく悔しく、私に託してくれた人たちに申し訳が立たなかった。
「…………」
気を失ったままの氷室さんを抱き上げて、後ろで控えていてくれたみんなの元にゆっくりと戻る。
レオとアリアが集中的に治癒の魔法を続けてくれていたおかげで、シオンさんとネネさんの具合は少し良くなっているようだった。
多くの怪我はまだまだ完治させられてはいないようだけれど、でも顔色は良くなってきていて、峠は越えたように見える。
私が氷室さんを抱えたままみんなの横にしゃがみ込むと、レオとアリアはよく頑張ったと励ましてくれた。
ジャバウォックの顕現を阻止することに成功し、見事氷室さんも取り戻した。そういう意味では、目的は果たせている。
でも私はやっぱり諸手を挙げて喜ぶことはできなくて。そんな私に、二人は優しく微笑んでくれた。
「アリス様……」
後味があまり良くない勝利の余韻の中で、シオンさんがうっすらと目を開けた。
未だダメージが重すぎるその体は動かないようで、目だけを動かして私を見上げ、掠れるような声を上げた。
隣で、ネネさんもまたゆっくりと意識を取り戻す。
「申し訳、ありません……私たちは、醜態ばかり……」
「そんなことありませんよ。とっても助けられました。無理に喋らないでください」
シオンさんは申し訳なさそうに瞳を揺らしながも、僅かに安堵を浮かべた。
そんな横で、ネネさんが小さく口を開く。
「クリア、は……?」
「ジャバウォックは止められたんですけど……ごめんなさい。彼女は、自分で消滅を選んで……私はそれを止められませんでした」
「…………そっ、か」
殺さず止めて、必ず償わせると約束したのに。私はそれを果たすことができなかった。
自分の不甲斐なさが恨めしくて深々と頭を下げると、二人は一生懸命に笑顔作った。
「いいんです。アリス様は、私たちなんかの気持ちを背負って、懸命に戦ってくださった。私たちには、それで十分です」
「うん……。それに、クリアのことは止められたんでしょ? これ以上アイツが誰かを苦しめないならもう……私たちはいいんだよ」
「…………ごめんなさい」
全てを飲み込んで受け入れているように、二人の言葉には一切の濁りもなかった。
然るべき裁きを与えることができず、その償いをさせることもできなかったのに。
私が共に立つことで、彼女たちの気持ちを晴らすことができていたのなら、それは嬉しいけれど。
でもやっぱり、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「そんなに自分を責めないで、アリス。クリアランス・デフェリアを相手に、あなたは良くやったよ。友達のあなたはとっても辛いだろうし、責任なんて感じなくていいんだよ」
「そうだ、誰もお前を責めやしねぇ。寧ろ、お前以外誰もアイツを止められなかった。これが、できる限りのことだったんだ。気にすんなっていうのは難しいかもしんねぇけどよ。思い詰めんな」
「…………うん。ありがとう」
話すことも苦しそうなシオンさんとネネさんを労りながら、アリアとレオもそう言葉をかけてくれた。
理想の結果ではなかったけれど、精一杯頑張ったのだと。
確かにみんなにとってはクリアちゃんは完全な悪人で、その悪事を食い止められたんだから、及第点の結果なんだ。
だから私のこの気持ちは、彼女を敵と思いきれなかった故の、友達だと思っているからこそのもの。
それもまた、みんな理解してくれている。
だからこそ私の気持ちに付き合ってくれて、わがままを聞き入れて力を貸してくれたんだから。
そんなみんながこうして優しい言葉をかけてくれるんだから、私もいつまでも気落ちしていられない。
クリアちゃんに手が届かなかったことは、確かにとても悲しいことだけれど。
彼女が目的のためならば手段を選ばず、多くの人を傷つけ、世界を脅かそうとしたことは事実だから。
その危機を防ぎ、そして氷室さんを無事に取り戻せたことを、今は喜ぶ時なんだ。
「……本当に無事でよかったよ、氷室さん」
腕の中で眠っている氷室さんに、安堵の言葉を向ける。
未だ意識を取り戻さない氷室さんだけれど、外傷は見て取れないし呼吸も穏やかだ。
こうして腕に抱いていると、とっても安心できる。
ずっと不鮮明だった繋がりや、その気配は今はありありと感じられる。
氷室さんは確かにここにいて、ちゃんと私たちは繋がっている。
それを改めて認識できることが、とても嬉しかった。
「よくやったわね、アリスちゃん」
みんなでホッと息をついていると、お母さんと夜子さんがこちらに歩み寄ってきた。
術式から剥がされたミス・フラワーは、未だ宙に穏やかに浮遊している。
お母さんはとても安堵した様子で私に向けて微笑んだ。
「よく頑張ったわね。あなたはちゃんと、彼女を止めることができた。これで、懸念は全て解消されたわ」
「……うん。全部が思い通りにならなかったのは、私がまだまだ未熟だからだけど。でもこうして協力してくれるみんなのおかげで、多くの人を救うことができたよ。それは、お母さんと夜子さんも」
クリアちゃんを止められても、ミス・フラワーを除けなければ、万が一ということもあった。
二人の協力がなければ、そこまで手を回すことはできなかっただろうし。
それにミス・フラワーの結界が突破されたことが、クリアちゃんの断念を後押しした部分もきっとあるだろうから。
「そこは持ちつ持たれつさ。私たちとしても、君がいたからこそ堅実に対処できた点もある。君が言った通り、力を合わせた結果だ。君はそれを誇っていいよ」
「はい、ありがとうございます」
夜子さんは普段通りの穏やかな様子で、ヘラヘラと笑みを浮かべてそう言った。
そして私の腕の中で静かに眠っている氷室さんを見下ろしながら、少し真剣な声を出した。
「彼女のことは、あとは君の問題だ。そこに私たちは口を出さないよ。その真実を知った上で、ちゃんと考えてるんだろう?」
「……はい。クリアちゃんは酷いことを沢山してしまいましたし、私も傷ついた。でも、やっぱり友達だから。折り合いをつけるのは難しいかもしれませんけど、ちゃんと気持ちに整理をつけるつもりです」
「うん、ならそれでいい。辛いとは思うけれど、頑張って」
視線を上げ、私の目を見て夜子さんは微笑んだ。
その声色、笑みはいつになく優しかった。
やっぱりクリアちゃんは透子ちゃんで、夜子さんはそれを知っていたのかな。
私を助けてくれてからずっと眠ったままの透子ちゃんは、夜子さんがずっと面倒を見てくれていたわけだし。
だからこそ、その実態を知った私を案じて、そしてそれを私が乗り越えることを信じてくれているのかもしれない。
あちらの世界に帰ったら、きっとまだあの廃ビルいるはずの、透子ちゃんの体に会いに行こう。
そこで私は、ようやくクリアちゃんのことに決着付けられるだろうから。