109 手の届かない想い
「クリアちゃん……」
白刃の鋒を首元に突き付けたまま、私は項垂れるその姿に声を掛けた。
クリアちゃんは、まるで啜り泣いているような声を微かに漏らしながら、決して顔を上げようとはしない。
その姿に同情心のようなものが湧きそうになるけれど、でもそれはダメだと自分を叱咤した。
「私は確かに、ドルミーレを打倒したい。『魔女ウィルス』を撒き散らして、二つの世界の多くを苦しめている人だから。その無慈悲さで、沢山の人たちを傷付けている人だから。私に、こんな運命を背負わせた人だから。でもね、それは私自身がケリをつけなきゃいけないことなんだよ」
彼女の夢から生まれた私。彼女の力に翻弄された私。彼女の運命に縛られている私。そして、彼女である私。
この私が、自らの手でドルミーレと決着をつけないことには、何も終わりはしない。
まして、多くの犠牲どころか世界諸共滅ぼしてしまうジャバウォックなんて、問題外なんだ。
「確かに、ドルミーレを倒すという点では一番確実なのかもしれない。でもね、そうやって彼女を消し去っても問題は何も解決しない。私にとってのそれは、一番正解から遠いんだよ」
「…………でも、でも、でも。それは、あなたが他人を顧みているからでしょう? そんなものを無視さえすれば、やっぱりこれこそが……」
「うん。確かにそうだけど。でも私の気持ちの問題もあるし。それに、私は友達が救われてくれなきゃ、本当の意味では救われないから」
「っ…………」
未だ理解できないと頭を抱えるクリアちゃん。
彼女にとって他人なんて気にも留めない存在だから、そう思うのも最早仕方ないけれど。
でも私は、友達や周りの人が苦しんだまま犠牲になっていった先で、自分の心が救われるとはとても思えない。
例え自分の問題が解決したって、みんなが救われていなければ、結局同じなんだ。
「クリアちゃん。あなたは間違ってる。他人を蔑ろにするような方法で、人は救えないんだよ。もちろん、みんなが幸せなんていうのは、綺麗事かもしれないけど。でも少なくとも、進んで人を踏み躙るようなやり方は、誰も幸せにしないよ。クリアちゃんが、幸せにしたい人もね」
「そんな……そんな、そんなぁ……。だって、一番なの。一番大切で、一番大好きで、それ以外のものなんてないのに……。私には、あなた以外に必要なものなんて、ないのに……」
クリアちゃんは弱々しく、フルフルと頭を振る。
それまるで、子供が駄々を捏ねるようだった。
「何よりも大切なあなたのために、なりふり構わないのは、そんなにダメなの? あなたの幸せだけを願ってはダメなの?」
「ダメじゃないけど……ダメだよ。一番があるのは悪いことじゃないけれど、世界はそれだけで成り立ってるわけじゃない。私たちはね、一番もそれ以外も大切にしなきゃいかないんだ。そうしないと、一番大切なものは守れない」
「………………」
人と人の繋がりは、一対一だけでは完結しない。
ただ大切なものだけに目を向けて、それ以外を顧みない生き方は、絶対に行き止まってしまう。
多くのものに目を向けて、周りと手を取り合って生きていくから、一番大事なものを大切にできるんだ。
「いや、いやよ……いやぁ。私は、私がアリスちゃんを守りたい。私が、私だけがあなたの隣いたい。アリスちゃん……私の、アリスちゃん……!」
頭を抱えたかと思うと、クリアちゃんは突然喚くように声を上げ、取り乱した顔を上げた。
炎の体をはためかせ、剣を突きつけられていることも気にせず、その手を私へと伸ばしてくる。
「────!」
けれどそれは、私の胸に咲いた氷の華によって阻まれた。
クリアちゃんの指先が私に触れる寸前、煌びやかな氷が咲き乱れて、パチンの弾く。
ただそれだけのことではあったけれど、クリアちゃんはハッと息を飲んで手を引いた。
相変わらず表情は見て取れないけれど、血の気が引いたような気配の色を感じた。
「あっ…………。そ、そう……。そう……そうなのね。やっぱり、この私じゃダメなのね」
そう呟くと、途端にだらりと脱力するクリアちゃん。
今までの激情が嘘のように、一気に覇気が引いてしまう。
その穏やかさは、まるで別人のようだった。
「……わかったわ、アリスちゃん。私のやり方じゃダメなのね。私じゃ、あなたを救えない。それは、よくわかったわ」
「クリアちゃん…………?」
「理解はできない、したくないけれど、でもあなたの言う通りなのね。あなたの意に添えない私のやり方では、あなたを救えない。私じゃ……」
唐突に萎れたクリアちゃんに、何だか妙な違和感を覚える。
けれどようやく話を聞き入れてくれたようで、正直に安堵の気持ちが勝った。
彼女に今全てを理解してもらうのは難しいかもしれないけれど、少なくともこの凶行を収めてくれるだけでも結果としては大きい。
「クリアちゃんが私のことをとっても想ってくれていることは、ものすごく伝わってきたよ。でも私は、その表し方をもっと考えてほしかった。それを、わかって欲しかったんだ」
「私は、こうすることがあなたの為になると思ってた。私には、この私には、こうすることしかできなかったし。でもそれを、どうしてもあなたが望まないと言うのなら、仕方ないわね。私は、やっぱりダメだったということ……」
急激に悲観的になったクリアちゃんは、再び俯いてポツリポツリと泣き言を溢す。
その姿が自分自身を否定するようで、とても痛ましかった。
「自分にないものを取り繕って、他の色に染まろうとする必要なんてないんだよ。クリアちゃんはクリアちゃん。あなたの気持ちで、あなたにできることをすればいい。ただ、そのやり方を考えてくれれば……」
「ううん、私はやっぱり自分が嫌い。こんな何もない自分が嫌い。私は、あなたに胸を張れる自分になりたいの。この私じゃやっぱりダメだったんだわ……」
「そんなことは……」
長らく他人から否定され、受け入れられなかった自分を、彼女は未だ認められていない。
だからこそ、他人から姿や力を奪い取って、理想の自分を作り上げようとしたんだ。
それも私のためで、そんな彼女に掛けてあげる言葉を、すぐには紡げなかった。
気休めで片付くほど、彼女が抱えている闇は軽くなく、そしてしてきたことは容易くない。
「私はそんなこと、ないと思うけど……でもクリアちゃんがそう思うなら、私が一緒に見つけてあげるから。クリアちゃんが納得できる、自分の在り方を。本当の自分を。だからその為に、今までしてきたことの罪を償おう? それが、きっと自分を見つめ直すことに繋がるから」
「………………」
他人を虐げ、奪ってきたクリアちゃんにはまず、自分の行為そのものを返り見る必要がある。
自らを見失った彼女に、それを取り戻してもらう為には、その罪と向き合わなきゃいけない。
許されないような罪だとしても、償わないことには決して終わらないし、そうしなければクリアちゃんは決して進めないから。
だから、クリアちゃんを救う意味でも、私は手を差し伸べた。
彼女に苦しめられた多くの人々に詫びる為、そして彼女自身が変わる為に。
ただ断罪するだけでは、なにも変わらないから。
俯くクリアちゃんが私の手にチラリと視線を向けた時、広間の奥で大きな魔力がパンッと弾け、眩い輝きが散った。
思わず目をやってみれば、そこにあった強力な結界が剥がれていて、夜子さんとお母さんの手によって、ミス・フラワーが術式から引き剥がされていた。
玉座の後ろで咲いていたユリの花は宙へと浮かび上がられていて、剥き出しの大きな球根が見て取れる。
未だ彼女は意識を取り戻してはいないようだけれど、そこから発せられた禍々しい気配は、一気に鳴りを潜めた。
「二人とも、やってくれたんだ……」
「……やっぱりここまでね。まぁいいわ、もう無駄だとわかったし」
儀式の根幹であるミス・フラワーの除去は、儀式の阻害を意味する。
その事実にホッとして、実は結構ギリギリだった妨害の魔法を解く。
クリアちゃんと戦いながらの魔法の維持だったから、もう少し戦闘が長引いていたら、こっちが先に解けてしまっていたかもしれない。
クリアちゃんはもう既に儀式への拘りはなくなっているようで、完全に意気消沈としている。
儀式へと向けていた魔力も完全に絶たれていて、ジャバウォック顕現という目的は放棄しているようだった。
「さぁ、クリアちゃん。もう全部終わりだよ。今までしてきてしまった沢山のことを見つめ直して、償って。それから一緒に、前に進む方法を考えよう」
ジャバウォック阻止が果たされたことに安堵しながら、改めて声を掛ける。
私の言うこと全てを理解は、まだできていないようだけれど。
でもこの気持ちはわかってくれているようだし、後はゆっくりわかり合っていけばいい。
ほらと、手を向ける。
「アリスちゃん……」
クリアちゃんは縋り付くように声を上げて、ゆっくりと手を持ち上げた。
弱々しく迷うように。けれど確かに、私を求めて。
そこに敵意や害悪はもうなくて。ただただ、私に触れようとしている。
「────いいえ、もういいのよ」
けれどその手は、私の手を取らなかった。
代わりに指先が、『真理の剣』の鋒を弾く。
「え────クリアちゃん、それは……!」
「私は……クリアランス・デフェリアはここまで。もういいの。私はあなたには必要ない。だから、もうこれでいい」
そういうクリアちゃんの炎が、剣に触れた指先から消えていく。
今の彼女は、魔法によって心が具現化している思念体だ。
そんな体で『真理の剣』に触れれば、その魔法が解けて形を保てなくなる。
「待って、待ってクリアちゃん! 行かないで。私はあなたと────」
「いいえ、さよならよ。私とあなたはさよなら。私はあなたに相応しくない。だからこの先も必要ない。このまま消えてしまって、それで終わり」
「そんなのダメ! 許さないよ! このまま有耶無耶になんか……!」
声を上げ、手を伸ばしてももう遅い。
あらゆる魔法を破却する『真理の剣』の能力は、例外なくクリアちゃんの炎を消す。
それは、彼女の心をこの場に繋ぎ止めている物が消滅することを意味していた。
体がこの場にない状態で、その魔法が解けたらどうなってしまうか。
心に形を与えている魔法が消えてしまえば、きっと心も同時に消滅してしまう。
だって今の彼女は、その魔法と一心同体の状態なのだろうから。
これは、クリアちゃんの自殺だ。
「ダメ……ダメ! 私まだ、クリアちゃんのこと何にもわかってないのに。逝かせられないよ! ねぇクリアちゃん、あなたの体はやっぱりあっちに────」
「さようならアリスちゃん。ダメな私はここで終わり。でも、私はずっとあなたと一緒にいるから」
「クリアちゃん、待って……待ってよ!!!」
その炎を捕らえようと手を伸ばして。けれど魔法を失ったそれは、最早霞のようで。
私は何も掴むことができず、クリアちゃんは消える炎と共に、いなくなってしまった。
彼女が犯した罪を、まだ何も償わせていないのに。
彼女の歪んでしまった心を、まだ救えていないのに。
彼女という女の子、そして透子ちゃんとの関連性も何もかも、まだわかっていないのに。
クリアちゃんは、まるで存在を解いていくかのように、消え去ってしまった。
「────氷室さん!」
そして、潰えた炎の内側から、気を失った氷室さんが姿を表す。
まさしくクリアちゃんの体の中に秘められていた彼女は、炎が剥がれたと同時に解放されて。
パタリとこちら側に倒れ込むその体を受け止めながら、私はクリアちゃんを止められなかった自分を強く責めた。