80 人を嫌いになれない
私にはきっと、一生この気持ちに整理をつけることなんてできないのかもしれない。
人を嫌いになることのできない私のこの性格は、どう考えたって愚かだ。
でも、仕方ないじゃなかいか。どんなに苦しみを受けたって、今まで感じてきた幸せがなくなるわけじゃないんだから。
だから私は、お母さんのことも夜子さんのことも、憎むことなんてできない。
はじめから私を裏切り続けていて、私から晴香を奪って、そして今は氷室さんを諦めさせようとしている。
それはとてつもなく許し難いことだけれど、それを理由に二人とのこれまでを否定することはできない。
だから、好きとか嫌いとか、もうそういう次元で語るのはやめにする。
好きだって嫌いだって、良いことは良いことで、悪いことは悪いことなんだ。
今はただ、それを論じれば良い。
許すわけじゃない。嫌いになるわけじゃない。なかったことにするわけじゃない。受け入れるわけじゃない。
どっちにも転ぶことのできない私は、だから全部を飲み込むしかないから。
だから私は、全てを抱きしめて二人に立ち向かうんだ。
「……実に、君らしい選択だ」
私の決意に、夜子さんは頭をポリポリと掻きながら言った。
「確かに、私たちが大人気なかった。私たちの気持ちや言い訳は、決して君に言って良いことではなかったね。わかってほしいというのは、あまりにも身勝手だった」
そう言った夜子さんは、とても悲しげな顔をしている。
何かを憂いている、とても不安定な瞳だった。
「良いも悪いも全て飲み込んで、その上で真っ向から向かい合おうとする。君のその姿勢には感服するよ。ただ、アリスちゃんもわかっていると思うけれど、それは諸刃の剣だ。人は時に、どちらかに決めなければならないんだから。まぁ、私が言えた義理じゃあないけれど」
「…………」
夜子さんの言っていることはよくわかってる。
人を嫌いになれない私の考え方は、とても危険だって自分でも理解している。
レオとアリアのことだって、酷いことをされても親友としての感情を優先してしまっている。
それじゃダメな時がいつか来るって、自分でもわかってはいるんだ。
でも、人を嫌いになるなんて簡単なことじゃない。それが、大切な人なら尚更だ。
私はただ逃げているだけなのかもしれないけれど、でも、好きな感情を殺すことなんてできないから。
だから私は、それを乗り越えて進む道を選びたい。
「……いいんです。今は、私はこういう生き方しかできないから。でもだからこそ、事実からは絶対に目を背けないって、決めたんです」
苦しみがなくなったわけじゃないし、今だってとても辛い。
むしろ、好きなままでいる分辛い部分だってたくさんあるんだ。
でもどっちにも踏ん切りをつけることができないのだから、それは堪えるしかない。
「お母さん、夜子さん。ドルミーレの親友だというあなたたちが、彼女を想うが故に私に立ちはだかるっていうのなら、私はそれに抗う。例え、大好きな人たちでも。今は、ただそれだけです」
いずれ気持ちに決着をつけなきゃいけない時がきっと来る。そしてそれは、多分すぐだと思うけれど。
でも今は、今だけはその時ではないと思うから。
二人のことを好きなところも嫌いなところも、全て含んだ上で、今は目の前の問題を見つめよう。
だってそうしないと、心なんて簡単に折れてしまうんだから。
「アリスちゃん……」
お母さんは私のことを、とても寂しそうな目で見つめて来た。
唇を結ぶその表情が、何を意味しているのかはよくわからない。
でも、お母さんもまた何かを迷っているような気がするのは、私の都合のいい解釈なのかな。
「あなたがそうするのなら、私も。うん、だって私は、あなたにちゃんと向き合うって決めたんだから」
お母さんはそう独り言のように言うと、結いていた髪を勢い良く解いた。
ひとつ結びにしていた髪が大きく跳ねて、髪が下された見慣れた姿になる。
少しだけ、表情から緊張が抜けていた。
「今まであなたに真実を話さなかったことは謝るわ。でも本当なら、一生話したくなかったくらいだから。けれど、もうそんなことは言っていられないから、だからお母さんは、本当の自分でちゃんとあなたに向き合う」
「本当の、自分……それは、ドルミーレの親友としてのって、ことだよね」
「ええ、そうなるわね。ただ私としては、アリスちゃんのお母さんである私も、本当の自分だと思っているけれど。でもやっぱり本質的なことを言えば、それだけでは私とは言えないから」
薄く微笑むお母さんは、私がよく知る優しさの影を思わせる。
この人はやっぱり、どこからどう見ても私のお母さんで。
どんな在り方、どんな立場であろうとも、それは変わらないんだと思わされた。
「私は二千年前から、ドルミーレの親友として生きてきた。彼女の目覚めを望み続けてきた。でもやっぱり、あなたを愛する母親でもあるから、それを隠したままその時を迎えることはできなかったの。でも、もう迷わない。ありのままの自分で、自らの願いをあなたにぶつけるわ」
昨日からずっと目を背けて来たお母さんが、私の目を真っ直ぐに見つめている。
お母さんの気持ちや迷いは私には測れないけれど。でもお母さんもまた、全てを飲み込んで前に進もうとしている。
私のこともドルミーレのことも、両方とも守るための行動をしようとしているんだ。
ドルミーレの親友だと言う二人が、具体的にどういう思想を持っているのかはわからない。
目覚めを待っているという話だけれど、それがどういうことかも不鮮明だ。
だから二人が私にとってどういう立ち位置の人かということも、またハッキリしない。
けれど少なくともわかることは、二人がドルミーレを守ることと私を守ることは、過程としては同じでも持つ意味合いが違うということ。
私の身を守ることでドルミーレを守れるのだろうけれど、でもそれは私の心を守ることではないから。
そういう意味では、今この場に於いて二人は私の味方とは言い難い。
「もう一度言うよ。私は氷室さんを助けて、クリアちゃんを止める。二人もクリアちゃんを止めたいのなら、力を貸し合うべきだと思うけど」
「こっちももう一度言おう。答えはノーだ。君にそんな危険は冒させられない。君をもう、クリアちゃんには会わせられないよ」
結局、お互いの主張は変わらない。夜子さんの言葉は、二人の変わらぬ意思を示している。
気持ちは平行線で、正反対の意見に腹立たしくなってくる。
それでもわけのわからなかったさっきまでよりは、少しだけ気分がマシだった。




