79 相反する気持ちの狭間
自分でも自分の気持ちがわからない。
お母さんにはじめからずっと裏切られていて、大切なものを奪われて、心はズタズタだ。
その行為は到底許せるものではなく、恨めしくて堪らないはずなのに。
何故だかどうしても、お母さんに対して憎しみを向けることができなかった。
怒りが湧き上がって、悲しみが満ち溢れて、その感情の矛先は確かにお母さんへと向いているのに。
お母さんは、私を差し置いてドルミーレを第一に考えているというのに。
それでも私はお母さんを敵視することができない。
この怒りは本物で、晴香を犠牲にしたことを、私は決して許すことなんてできないのに。
憎みたいと思えば思うほど、敵視したいと思えば思うほど、その気持ちが散らされて曖昧になる。
「戸惑うのも無理はない。理解できないことも、納得できないことも。でも、それが事実なんだよ。申し訳ないとは、思ってる」
へたり込んだ私を見下ろして、夜子さんは言った。
その声は先ほどよりも優しげで、妙に暖かだ。
「ただね、敢えて言わせてもらえば、私たちが君のことも大切に思っていたことは、君自身がよくわかっているはずだよ。だって、君は他人の心を深く感じ取ることができるはずだから。だから君には、私たちの気持ちが本物だと、本当はわかっている。だからこそ君は、今そんなに苦しいんだ」
「………………」
心の中で渦巻く感情の答えを、夜子さんは静かに述べる。
そうだ。そんなことわかってる。だからこそ混乱してるんだって、わかってるんだ。
私はお母さんからの愛情を、夜子さんからの親愛を、確かなものとして感じ取っていた。
だからこそ、それとは相反する現実をどう処理をすればいいかわからないんだ。
「確かに私たちは、ドルミーレを第一として生きてきた。死ぬことのないこの体で、二千年という頭がおかしくなるような時間を、また彼女と会うために過ごして来たんだ。でもね、私たちは一度だって、君をドルミーレの入れ物だと思ったことはないんだよ」
「そうよ。私たちはアリスちゃんを想ってた。もちろん、アリスちゃんを守ることが、ドルミーレを守ることに繋がるという前提はあったけれど。でも私たちはアリスちゃんをドルミーレだと思ったことなんてないわ。だってアリスちゃんはアリスちゃんだから」
そうやって言い訳をされればされるほど、パニックに陥りそうになる。
その優しい言葉が私を現実から遠ざけて、甘やかな偽りへと唆す。
その言葉が本当でも嘘でも、今目の前にある事実はかわらないというのに。
何にしたって、二人がドルミーレの親友で、それこそが何より大切だという事実には変わりない。
そしてドルミーレの目覚めを待ち望む二人にとっては結局、それ以外のことは捨て置いて仕方のないものなんだ。
「────もう、もうやめてください!」
体の内側がどよめいて、中身を全て吐き出してしまいそうな嘔吐感に見舞われる。
胸の真ん中をゴリゴリと抉られたように、心は形のない痛みに苦しんでいて。
私はへたり込んだまま、頭を抱えて蹲ることしかできなかった。
そんな私を、アリアが後ろから抱きしめて、包み込んでくれた。
その後に上げられた叫びは、痛烈な怒りに満ちていて、彼女もまた泣きそうに震えていた。
「もう、やめて……! アリスがかわいそう……」
強く、強く私を抱きしめながら、アリアが絞り出すように言っている。
頼もしいその腕の感触も、今は何だかボンヤリ感じられた。
「アンタらのそれは、自分たちが納得したいだけじゃねぇか。自分たちのために言い訳してるだけじゃねぇか。そんなこと言ったって、アリスは救われねぇ……!」
私のすぐ前に立ちはだかって、レオが唸る。
いつになく低く重いその声は、静かな怒りに満ちていた。
「アンタらの理由があるんだろうさ。そうしなきゃいけなかったんだろうよ。それをわかって欲しいのかもしれねぇけど。でも、それはアリスには関係ねぇだろ。アンタらの気持ちを、アリスがわかってやる義理はねぇだろーが!」
レオのそんな叫びが、静かな広間に重たく響いた。
誰もその言葉に言い返しはしなくって、ただ、息を飲む音だけが微かに聞こえただけ。
そうやって、二人が私の代わりに怒りを叫んでくれたことが、とても嬉しかった。
自分ではどう表していいかわからなかった気持ちを、躊躇うことなく吐き出してくれたことが、嬉しかった。
私は一人じゃないんだと、この気持ちをわかち合ってくれる人がいるんだと、まざまざと感じ取れる。
それが、私の心をほんの少し落ち着けてくれた。
「────ありがとう、二人とも。私のために怒ってくれて」
大きく深呼吸をして、震える脚に力を込める。
アリアの支えを借りながら、私はゆっくりと立ち上がった。
前に立って私を守ってくれているレオの手を取って、そしてもう一度お母さんと夜子さんを見た。
「話は、わかりました。わかりたくないけど、わかるしかない。わからないと、いけないから」
私を守ってくれる二人の存在を支えに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
この現実を考えようとすると心がバラバラに砕けそうになるけれど、でも、それを繋ぎ止めてくれる人たちがいるから。
だから私は、踏ん張れる。
「二人がどうしようもなく、ドルミーレの親友だってことは、理解した。それでも私のことは、それでそれで想ってくれていたんだろうってことも。でもやっぱり私にとっては、受け入れ難いことではある。私はお母さんが大好きだったし、夜子さんのことも信頼してた。だから、二人がドルミーレ側の人だって事実は、正直耐えられない」
自分で口にしながら、その言葉に胸が締め付けられる。
理解したら、受け入れたら、納得したら、そこでおしまいだと心が叫んでいる。
でもそこから目を背けていても、決して現実は変わったりしない。
「許せない。酷いよ、酷すぎる。私のことを大切に思ってるって、そうやって優しくしてきてくれた分、尚更。私は二人の本当の優しさを知ってるから、どうしても憎むことなんてできないんだよ! 卑怯だ……」
そう、卑怯なんだ。
私のことなんてはなからどうでもよくて、ドルミーレしか眼中にないと、そう扱ってくれていたらどれだけマシだったか。
私に愛情を持って触れ合わず、ただドルミーレの入れ物として育ててくれた方が、どれだけ良かったか。
私を私として扱って、愛して、親しんで。そんな風にするから、私は今絶望的な苦しみに立たされてるんだ。
「だから私は、今でも二人を敵だとは思えない。どうしようもなく裏切られてるのに、お母さんも夜子さんも、敵視できない。晴香の仇、討ちたいけど……できない! でも、でも! それでも、二人が私の邪魔をするんだったら、私はそれを乗り越えなきゃいけないんだ……!」
今感情を整理することはできないし、もしかしたらいつまでもできないかもしれない。
裏切られた悲しみを晴らすことも、晴香を奪った恨みを晴らすことも、できないかもしれない。
でも、そうやって私の心がどんなに荒れ狂ったとしても、ここで立ち止まっているわけにはいかないから。
この気持ちを置いておくことなんてできないけれど。
でも何だとしても、二人が私を阻んでいることに変わりはなく、その障害を取り払わなきゃいけないことにと変わりない。
子供のように駄々を捏ねて、感情にケリがつくのを待つ時間なんて今はない。
今にも潰れそうな心だけれど、でも一緒に感じて、そして支えてくれる友達がいるから。
その手を借りて、私は目の前に立ちはだかる問題を、踏み倒す。
「事実だけを、今は受け入れる。お母さん、夜子さん。二人が何を見ているかなんて、今はどうでもいい。いいことに、する。だからその上で、もう一度言うよ」
受け入れる、受け入れるしかない。
辛く苦しい現実も、それに相対する矛盾した自分の気持ちも。
好きだけど憎くて、嫌いだけど愛おしい。そこに折り合いがつかないのなら、もう目の前の事実を見るしかない。
好きでも嫌いでも、敵でも味方でも、今生じている問題に対処する。
そうすることで前に進むしか、それしかないんだ。
「私は氷室さんを助けに行く。私がクリアちゃんを止める。それは、誰にも邪魔させない!」
これは現実逃避じゃない。現実に向き合うしかない故の突貫。
私は歯を食いしばりながら、がむしゃらに叫んだ。