67 かつての再現
「そもそも、私は別にあなたたちと会いたくなんてなかったし。これ以上ここにいる意味ないもの。早く、準備の続きをしなくっちゃ」
目の前の二人は眼中にないと言うように、クリアは軽やかに笑う。
今し方追い詰められておきながら、それすらもどうでもいいかのように。
彼女には、自身の目的しか目に入っていないようだった。
「必要な材料はもうほとんど揃っているし、後は場所と……それにアリスちゃん。まぁそれも時間の問題かしら。あぁ、楽しみね……!」
「……? あの子がどうして必要なの? まさか、アリスちゃんを生贄にするつもりじゃ……!」
口元に恍惚な笑みを浮かべたクリアに、ホーリーが噛み付くように吠えた。
ドルミーレの反存在であるジャバウォックを呼び起こすために、ドルミーレを抱くアリスを触媒にしようとすることは、可能性としては大いに考えられた。
しかし、クリアはカラカラと小馬鹿にした笑い声をあげる。
「何言ってるのよ。アリスちゃんを助けるためなのに、そんなことするわけないでしょ? ただ、一番肝心なアリスちゃんがいてくれなきゃ、真っ先にあの子を助けられないからよ。もちろんこの国が、この世界が壊れていく様も見てみたいけれど、まずはアリスちゃんを呪縛から解き放ってあげることが、何よりも大切だもの」
うっとりと蕩けるように、クリアはまるで自らが救世主になるかのような言い方をした。
自らの行為がアリスに受け入れられることを、信じて疑っていない。
「アリスちゃんには、その全てを見てもらわなくちゃ。私がこの狂った世界を壊すところを。この可笑しな国をめちゃくちゃにするところを。それに何より、私がアリスちゃんを助けてあげるところを! だって私が、誰よりもアリスちゃんのことを大切に思ってるんだから。誰よりも大好きなんだから。だから私が、ずっとアリスちゃんのそばにいるの……!」
歓声でもあげるように、甲高い声で高らかに叫ぶクリア。
誰のことも考えていない、自分の世界に入りきったその言葉には、一方的な妄念に塗れていた。
「だからちゃんと、然るべき場所で、ね。術を使う場所としてもちょうどいいし、何よりアリスちゃんを縛り付けているその場所で、あの子を解放してあげるのが一番でしょう? あの子の目の前で、私が全部壊してあげるのよ! アリスちゃんはきっと、とっても救われるわ!」
「……まさか君は、王城にジャバウォックを呼び寄せるつもりか!」
ハッとしたイヴニングは、思わず大きな声をあげてしまった。
二千年前、ジャバウォックが顕現して世界を脅かしたのもまた、王城だった。
かつての悍ましい記憶が、彼女たちの脳裏に鮮烈に蘇る。
「あら、口が滑っちゃった。ま、いいけれど」
「そうか、そういうことか。君がアリスちゃんを救わんとすると同時に、この世界を滅ぼそうとする理由がわかったよ。君は、今でもスカーレットを憎んでいるんだね」
「…………」
イヴニングがそう口にした瞬間、高揚していたクリアの雰囲気が静まり返った。
彼女の身を形成している炎までも、その揺らめきを落ち着かせている。
しかし、それは気を落としているのではなく、静かにじっくりと感情を震わせている、確かな激情だった。
「自分を忌み嫌い、拒絶した母親が憎くてたまらないんだ。だから彼女のものだったこの国が、不快でたまらないんだろう。そしてだからこそ、その国にアリスちゃんが収まってしまったことが、より一層不愉快なんだ。そういうことなんだろう、クリアランス・デフェリア・ハートレス。消しさられた姫君。いや、自ら消えた姫君といったところか」
「……なんだ、知ってたの。私のことを覚えている人が、いたなんてね」
ポツリと、クリアはあっさりと肯定の言葉をこぼした。
自身が、前女王の娘であるという事実を。
「この国のことで、私が知らないことはないさ。自ら姿を消した君が、あからさまな大立ち回りをするようになった時はたまげたよ。ただまぁ、ここまでのことをするとは思っていなかったけれどね」
「私は、この世界で唯一私を受け入れてくれたアリスちゃんのために生きるだけ。他のものなんて、もうどうでもいいのよ。でもそうね。確かに、あの人が培ってきたものが壊れていくのは、見ていてとても気持ちがいいことは否定しないわ」
クツクツと、かすれた声で笑うクリアからは、黒々しい怨念のような気配が立ち込めていた。
長年溜め込まれてきた憎悪は、決して晴れない闇を抱いているようだった。
「────なら、尚更あなたを逃すわけにはいかないわね。他でもないあの城でなんて、そんなことあってはならないもの」
ホーリーはかつての情景を思い起こしながら、拳を握り締めた。
霞む程果てしない過去の、それでも色褪せないかつての記憶。
あの悪夢がそっくりそのまま繰り返されようとしているなんて、とても許せなかった。
クリアにとって、二千年も前のことなんて何も関係のないことだろう。
彼女はただアリスのためだけを考え、そしてその手段としてジャバウォックを選び、ついでに世界を滅ぼそうとしているに過ぎない。
しかし、前女王スカーレッドの娘、つまり英雄ファウストの子孫である彼女が、かつてジャバウォックが顕現したあの城で、再び混沌の魔物を呼び寄せようとしている事実は、あまりにも皮肉めいていた。
「よくわからないけれど、もう遅いわ。準備は着々と進んでいるもの。思っていたよりもスムーズにね。あなたたちとここでスリリングな遊びをするのも、そろそろおしまいにしないと」
「本当に逃げられるつもりでいるみたいね。それに、誰にも邪魔できないって確信があるみたい。よっぽど、自信があるのね」
「ええ、まぁ」
ホーリーが噛みつくと、クリアは余裕に満ちた様子で頷いた。
先ほどの不機嫌さは鳴りを潜め、再び人を小馬鹿にしたような笑みを口元に浮かべた。
「言ったでしょう、必要なものはもう揃っているの。ロード・デュークスの術式もちゃんと飲み込んでるし、後はもうその時を待つだけなのよ。誰にも止められやしないわ」
「────いや、そんなことはないよ。今ここで君を、消せばいいんだからね」
イヴニングがそう言った瞬間、彼女の足元から周囲に影が広がった。
暗黒の影は瞬く間に大理石の床を埋め尽くし、それは壁を這い上がって天井まで上り詰める。
入り口の扉も窓も全てを黒く塗りつぶして、瞬く間に黒く暗い空間を作り上げる。
外界から全てを遮断して、明かりすらも差し込まない。
しかしそれでも何故かそれぞれの姿だけが全員の目に写っていて、この状況が普通ではないことを表していた。
「…………ッ!?」
「言っただろう、逃さないって」
瞬時にして別世界に引き釣り込まれたような状況に、クリアも動揺を隠せないようだった。
慌てて周囲を見回しても、そこには先の見えない暗闇しか広がっていない。
そんな彼女に、イヴニングはほくそ笑んでそっと両手を広げる。
「表の裏側、光があるからこそ生まれる光なき場所。影の世界にご招待しよう。君を、表舞台に行かせはしないよ」
世界を塗り替えるような、圧倒的な魔法による隔絶の魔法。
今までいた場所から切り離され、違う場所に放り込まれたような喪失感に襲われる、暗黒の世界。
世界の裏側に瞬時に引き摺り込むその手腕に、クリアは息を飲んだ。
しかしそれでも、クリアは余裕を崩さなかった。
「あら怖い。でも、私も言ったはずよ。私は逃げるのが得意だって」
クスクスと笑ながらクリアがそう言った瞬間、彼女の背後がぐにゃりと歪んで、暗闇に満ちた空間に揺らぎが生まれた。
イヴニングが支配する空間が、他人の手によって干渉され、押し開かれている。
「これは、ケインくんの魔法! どうして彼が……!」
「こういうのも、実力のうちよね。私、いつだって絶対に生き延びるの。だからこそ、私はあの人に殺されずに、今こうしていられているんだもの」
イヴニングが影によって支配した空間は、ほぼ異界化しており、術者以外が簡単に干渉できるものではない。
それを僅かにでも可能にするのは、超一流の空間魔法の使い手である、ロード・ケインだからこそ。
感じられる魔力からそれを察知したホーリーは、思わず驚愕の声をあげた。
クリアは二人に対してほくそ笑みながら、背後の歪みに足をかけた。
「させるか!」
イヴニングはすぐさま空間全体の影を操り、空いた歪みごとクリアを圧殺しようと試みた。
しかし、瞬間的に彼女の周囲の空間が強化されており、それが防御の役割を持って攻撃を防ぐ。
それもまた、ケインの魔法によるものだった。
「それじゃあ、さようなら。あなたたちは、好きなだけここで閉じこもっていればわ」
カラカラと笑うクリア。その言葉と同時に、イヴニングが形成した空間の外側から、強力な結界が張られる。
二人の手にかかれば突破することは可能だろうが、しかしその対処は大きなタイムロスになる。
「待つんだ!」
憎らしげに睨みを聞かせるイヴニングを他所に、クリアは歪みに体を滑らせていく。
食い止めることが叶わない状況に、イヴニングとホーリーは歯を食いしばるしかなかった。
「────君は……氷室 霰をどうするつもりなんだい?」
せめても抵抗をするように、イヴニングは疑問を投げつけた。
唐突なその言葉に、クリアは一瞬首を傾げてから薄い笑みを作った。
「さぁて」
意地悪くそれだけを言い残して、クリアは得意げに空間の歪みに消えた。
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