86 終末装置
怪物────ジャバウォックが吠えるたび、世界が軋んでいるように思えた。
いや、それは比喩でもなんでもなく、実際にジャバウォックという存在は世界そのものに害を与えている。
あれが存在しているだけで世界に負担を与え、一挙一動が世界を傷つけている。
混沌を冠するジャバウォックは、その存在が混沌という概念そのものであり、あらゆる条理を乱している。
あれが世界の中に存在しているだけで、世界の法則、そして形までもが揺らがされていた。
それは世界の力と通ずる私だからこそ感じられることであり、しかし同時に、そうでなくともあれが崩壊をもたらしていることは一目瞭然の事実でもあった。
咆哮によって震撼する空気が空間すらも断裂させ、視覚が大きく歪む。
強烈な振動は街の建物や木々の崩壊を促し、石やレンガの足元を裂き、地面に亀裂を走らせる。
ジャバウォックそのものから発せられる悪しき重圧は、周囲に存在する全てのもの圧迫し、普通のヒトたちは立つことすらできずにいた。
そう。魔物に逃げ惑っていた人間たちは、今や力なく地面に転がることしかできずにいる。
ジャバウォックの悍ましい存在に気圧され、もはや悲鳴を上げることもできず蹲っているだけ。
逃げる余裕もなく、ただ恐れ慄いて、邪悪の権化たるあの魔物を見上げ続けているだけだ。
人々からしてみれば、まさしく世界を破壊せんとする悪魔のように見えるだろう。
国のシンボルたる城に覆い被さり、周囲のものをその叫びのみで蹂躙し、奇妙で恐ろしい姿を晒す化け物。
私だって、敵うか敵わないかは別として、あんな気持ちの悪いもの、一瞬たりとも相対したくなどない。
けれど、あれは私のせいで生み出されてしまったもの。
私を罰するため、私の行動を抑止するため、相反するものとして生まれてしまったものだ。
私が目を逸らすことは、決して許されないものだ。
だって以前、私はミス・フラワーから忠告を受けていたのだから。
私が自らの愛するものを優先する生き方を続けていれば、抑止の働きを押さえられなくなってしまうと。
私の望みは、世界の意思と、世界から与えられた役割に反するものだからと。
わかっていたのに、私は自分の生き方を貫いた。
世界が望むものよりも、私は自らが大切にするものの方が重要だと思ったからだ。
私は何よりも、愛おしい男のために、愛おしい友のために生きたいと思ったから。
しかしそれを世界は許さず、結果このような悍ましい抑止を持って、私を止めに来た。
「でもこれは、本当にそれだけ……?」
私を正し、その行いをやめさせるだけにしては、このジャバウォックは度が過ぎている。
その敵意は私に向いているけれど、しかしその力は世界そのものに牙を剥いている。
ジャバウォックは世界ごと私を葬り去ろうとしていると、そう見えてならない。
もしかしたらこれは、始めから全てをやり直してしまおうという魂胆なのだろうか。
世界の力を持つ私が世界の意思に反するのなら、全てをなかったことにして一から作り直してしまおうと、そういうことなのだろうか。
私に対する抑止はつまり、世界に対する抑止だと、そういうこと……?
世界が私に与えた力は、凡そ世界そのものと言っても過言ではない力だから。
そんな私を止め、その意志を砕くためには、世界そのものを壊す必要があるのかもしれない。
今の世界のシステムを崩し新たに構築し直すことで、私という異分子を排除しようとしているんだ。
ジャバウォックは恐らく、そのための終末装置の役割も担っている。
世界自らが自身に牙を剥くなんて、あまりにも滑稽と思うけれど。
しかし超常的な概念を相手に、ヒトの思考で考えても仕方ないかもしれない。
その思惑を理解できなくとも、世界が自らを一度破壊することで、私を抑止しようとしていることは明らかだ。
勝手に私のことを生み出しておいて、また勝手な都合でこんな悍ましいものを差し向けてくるなんて。
私はただ、生を受けた一人のヒトとして、自らが望む人生を歩もうとしていただけなのに。
私を生み出した世界そのものが、こういう形で私に敵意を向けてくるだなんて。
とても滑稽で、とても醜くて、とても恨めしい。
「────例えそうだとしても、今は泣き言なんて言っていられない。この世界には、私が愛する人たちが生きているのだから」
世界に対するどうしようもない怒りを感じながらも、私は歯を食いしばった。
ジャバウォックに対する吐き気を催す嫌悪感、それを抑止という形で差し向けてくる世界に対する拒絶感。
それを全身で感じながらも、しかし今はその感情に飲み込まれている場合ではない。
ジャバウォックが、世界ごと私を葬り去ろう去るために生み出されたのならば、野放しにするわけにはいかない。
どんなに目を背けたくても、このままでは世界ごと私の大切なものを滅ぼされてしまうのだから。
私のせいで現れたものだという、そんな責任感よりも。
私の大切なものを脅かすものだという、その害悪に対する怒りが先行した。
世界なんてわけのわからないものに、私の意思や人生を左右され、そして私の愛するものを奪われるなんて我慢ならない。
世界がどんなに偉大で崇高だろうと、私にはそんなこと知ったことではない。
だって私にとって世界の趨勢よりも、愛する人たちの幸せが大切なのだから。
「この世界を壊させたりなんて、絶対にしないわ。例え世界がそれを望まないとしても。混沌になんて、飲み込ませない……!」
気持ち悪く悍ましく、ジャバウォックは見ているだけで恐ろしい。
けれどそれでも、あれの存在を許すわけにはいかないから。
城の天辺から私を喰らい付かんばかりに見下ろしてくるその魔物を、私は顔をしかめながらも睨み返した。




