17 逃走と自覚
私は走った。ひたすらに走った。
ただ逃げたくて、この場にいたくなくて。
手を伸ばしてくる大人たちを力で押し除け、がむしゃらに走り続ける。
追ってくる人たちがいなくなり、町から草原へ出ても、私は決して足を止めはしなかった。
何も考えられず、ただただ目の前の現実から逃げ出したかったから。
そうして走り続けて、私はいつの間にか森まで帰ってきた。
けれどそれでも心の中で渦巻くどんよりとした感情は無くならなくて、その気持ちのままに私は走り続けた。
日が完全に落ち切って暗くなった森の中を、目的もなく、ただ逃げたいという気持ちだけで。
前も後ろも右も左ももわからない。
自分の存在すらあやふやに感じられる森の暗闇の中。
私を満たしたのはやはり、『どうして』という疑問だった。
どうして拒絶されたのか。どうして全ての責を負わされるのか。どうして、こんなに悲しい気持ちでいっぱいになるのか。
わからない。私には何もわからなかった。
「………………」
あまりにもがむしゃらに走り続けて、私はようやく足を止めた。
気持ちは更に逃げ続けたがったけれど、身体が、脚が走り疲れて勝手にその場でへたり込んだ。
「なんだか大変だったみたいねぇ、アイリス」
座り込んで荒い呼吸をしていると、すぐ近くから陽気な声が飛んできた。
それが耳に届いて私はようやく、そこがミス・フラワーのいる広場なのだと認識した。
視線だけを声がした方に向けると、白いユリの花がその花弁をもたげて私を見上げているのが伺えた。
「辛い思いをしたのね。あぁ、可哀想なアイリス」
歌うような軽やかさはそのまま、しかしミス・フラワーは普段よりも大人しめな声色を出した。
まるで自分自身が心を痛めているかのように、その言葉には悲しみが満ちている。
今まで私は彼女とあまり積極的に会話をしてはこなかった。
けれど今は何故だが、自然と言葉が口から出た。
「悪魔だと、言われた。恐れられ、罵られ、拒絶された。私はただ、守ろうとしただけなのに……」
改めて言葉にすると、心に渦巻く感情がより明確化された。
躊躇いなく向けられた感情が恐ろしかった。迷いなく下された拒絶が悲しかった。一方的な罵声が腹立たしかった。
町の人々から受けた理不尽が、私には堪らなく苦しかったんだ。
「確かに私のしたことは完璧ではなかった。私にもっと実力や経験があれば、より良い結果にできたかもしれない。けれど、それでも私は今できる精一杯のことをした。ホーリーとイヴニングだってそれを認めてくれたのに。それなのにあの人たちは、私が普通ではないというだけで、全てを否定した……」
自分が他の人間とは違うということはもちろんわかっていた。
本来あり得るはずのない神秘の力に、疑問を持ったり不思議がったり、戸惑ったりするだろうことは予想していた。
けれどまさか、恐れられ忌み嫌われ、そして存在を否定されるとは思ってもみなかった。
力があっても、私は同じ人間なのに。人間であることを認めてもらえないなんて、思わなかった。
「どうして……? 私はただ、ホーリーとイヴニングを守りたかった。彼女たちの町を守りたかっただけなのに。同じ、人間として……」
「悲しいわね。辛いわね。あなたの気持ちはよーくわかるわ。でもね、アイリス。その疑問の答えはとても簡単なのよ」
初めて経験した、胸を締め付けられるような思いに歯を食いしばると、ミス・フラワーは静かなトーンでそう言った。
「それはね、アイリス。あなたがみんなとは違うからなのよ。あなたは人間たちとは違う。ただそれだけなのだけれど、それはとても大きいの」
ミス・フラワーのその言葉には、私は頭を殴られたような衝撃を覚えた。
酷くクラクラして、心が嵐の中の大海原のように揺れ動く。
「アイリス、あなたもわかっていると思うわ。あなたはこの国で暮らす他の人間たちとは違う。それが、あなたが受け入れられなかった理由なのよ」
「わたし、は…………」
わかっている。わかっていた。その上で、大きな問題ではないと思っていたんだ。
親もなく一人で過ごしてきた十二年間。本来あり得ない神秘の力を持つこと。それ故か自然と頭に湧いてくる知識。
私が普通の人間とは異なる来歴を持つことは当然わかっていた。
でもそれが、私が人間として生きていく上で弊害になるなんて思わなかった。
一際珍しいかもしれないけれど、飽くまで個々の差異の範疇だと、そう思っていた。
私がみんなと同じ人間であることを否定する材料になるだなんて、思ってもみなかった。
「でも私は、人間。人間、でしょう? だって、見た目は何も変わらない……」
「違うのよ。違うの、アイリス。あなたは確かに人間の形を持って生まれたけれど、人間とは違う存在なのよ。だから私は、ここにいる」
「────────!?」
柔らかく否定するミス・フラワーの言葉に、私はただ戸惑いを覚えた。
だって私は生まれてからずっと人間として生きてきたし、ホーリーとイヴニングもちゃんと人間として接してくれた。
私が人間であることに、疑問を挟む余地なんて……。
そう思った瞬間、私は気付いてしまった。
私は自分が人間だと思って生きてきたけれど、その根拠はどこにもなかったと。
私の中に湧き出した知識から自分を人間だと判断しただけで、親の顔すら知らない私を人間だと断定する材料は何もない。
人間の形をして生まれた。ミス・フラワーはそう言った。
形だけは人間と同じだから、ホーリーとイヴニングは私を人間だと思ってくれただけ。
その内側、中身に関して私を人間だとする根拠は、何もないんだ。
「私は人間じゃない。はじめから……」
とても、ショックだった。
今まで生きてきて、自分が人間であることに拘ったことなんてなかったのに。
いざそれを否定されると、胸の真ん中に穴が空いたような喪失感を覚えた。
きっと、少し前の私だったらさして気にしなかったかもしれない。
けれど今の私はホーリーとイヴニングという友を得てしまった。
彼女たちと同じ人間ではない、肩を並べる存在ではないという事実が、私の心を締め付けるんだ。
出自が特殊だから、神秘を持っているから違うんじゃない。
私という存在は、根本から彼女たちとは異なるんだ。
「アイリス。あなたは人間とは異なる存在。けれどそんなあなたが人間の友達を作って、人間と同じように生きようとしていたのは、私とっても嬉しかったわ。けれど、全ての人間があなたを受け入れられるわけではないから……」
「人間は……違いを嫌い、拒み、淘汰する生き物……」
そうだ。私はホーリーとイヴニングに出会ったことで、人間の本質を忘れていた。
私の頭の中には、とっくにその生態の知識があったのに。
多少の個体差はあれど、人間という種族は他種族のように多様性を持たない。故に特異性に不寛容な生き物なんだ。
そんな生き物の中に、私のような異端の塊が混ざれるわけがない。
そう自覚すればするほど、私は自分のいう存在の特殊さを肌で感じていった。
私はただ形が似通っているだけで、人間とは似て非なる存在なんだと。
私の中で渦巻くこの力が、何よりの証拠なんだ。
理解できた。理解できてしまった。
なのに何故だか、気持ちだけは割り切れなくて。
いいや、その理由はわかっている。
ホーリーとイヴニングが、私の心に引っかかっているんだ。
二人の友人の存在が、私に人間への未練を生んでいた。
彼女たちと同じように共にあれる存在でいたいと、そう思わせた。
それさえなければきっと私は、人間という存在に踏ん切りをつけて私自身として生きていけるだろうに。
ホーリーとイヴニングの顔がチラついて、それが私の心を悲しみで満たした。
どうして私は、二人と同じではないのかと。
「それでも、あなたは悲しいのね。アイリスは、人間でいたいのね」
「………………」
違う、そうじゃない。いや違わないかもしれない。
二人と一緒でありたい。そう思うからこそ私は、人間に否定されることが苦しくて堪らないんだ。
二人と同じように在りたいと思うから、受け入れられないことが悲しく、責められることが苦しいんだ。
泣いても喚いても現実は変わらない。
自分が人間ではないことに変わりはなく、そして人間という種族の在り方は変えられない。
それでも、私を受け入れてくれない彼らへの失望感が全身を満たした。
この世界で生を受けている以上、種族や存在の違いなんて些細な問題でしかないはずなのに。
向かい合い言葉を交わすことができれば、お互いの違いなんてものには何の意味もないはずなのに。
どうして人間は、そんなつまらないことに拘って、思考を停止させてしまうんだろう。
いや、最早人間に限った話ではないかもしれない。
彼らの種族性の前に、そもそもヒトというものが利己的で排他的な存在なんだろう。
だってあの町の人々は、私の力を知る前から既に私を訝しんでいた。
ヒトに本当に他人を想い受け入れる心があるのであれば、あそこまで冷たくなれないはずだ。
私に向けられた沢山の負の感情。怒りや恐怖、憎しみの顔を思い出すと、心と身体が震えた。
「ホーリー……イヴニング……」
唯一私に笑顔を向けてくれた友の名前が唇からこぼれる。
その存在の温かさを思えば思うほど、彼女たちが特別でありヒトとは悲しいものだと痛感する。
あぁ……世界はなんて醜いんだろう。
胸に突き刺さるような痛みを抱えながら、私は絶望と共に苦笑した。
未体験の世界に浮き足立ち、希望を抱いていた自分が馬鹿らしい。
人間というもの、ヒトというものに思い描いていた幻想は愚かにも程があるものだった。
現実は、とても冷酷なものなんだ。
「………………なら、私は何なんだろう。人間ではないというのなら、私は……」
世界の醜さに打ちひしがれながら、私は素朴な疑問を口にした。
人間の形をしながら人間ではない私は、では一体何なのか。
この世界に存在するその他の種族に該当するとも思えない。そんな私は何なのか。
ミス・フラワーは答えない。
しかし疑問を口にした瞬間、とある言葉が、単語が、いや名前が頭の中に浮かび上がった。
まで昔から知っていた当たり前のことのように、頭の中に響いてすんなりと心に溶け込む。
それを認識した瞬間、私は今までの自分自身があまりにも曖昧なものに思えてしまった。
私は人間でもなければ、まして『アイリス』なんかではない。
偽りの認識と、与えられた仮初で生きていた今までの自分が、とてつもなく滑稽に思えた。
今はもう、それとしか思えない。理由なんて、わからないけれど。
「────私は、『ドルミーレ』。それ以外の何物でもない」
誰かが決めた枠組みに収まらない。私は私という存在。
『ドルミーレ』。それが私という存在の名前。
それを理解して、私は生まれて初めて涙を流し、声を上げて泣いた。




