137 決して負けないもの
いつも余裕綽々と私を翻弄していたレイくんが、私に縋り付いて泣いている。
今まででは決して想像できなかった、全てを曝け出した姿だった。
それ程までにレイくんはドルミーレを想い続けてきて。
だからこそ決して届かない現実に深く傷付いたんだ。
レイくんの直向きな想いは確かに一方的で、彼女にとっては迷惑だったかもしれない。
けれどそれを否定して傷付ける権利は彼女にはないし、そんな人の為にレイくんが心をすり減らす必要なんてないんだ。
「ありがとう、アリスちゃん」
私の肩に頭を預けたまま、レイくんは震える声で言った。
「僕はバカだった。手の届かないものに魅せられて、それしか見えなくなって。現実を受け入れず、理想ばかりを追い続けていた。本当に大切なものは目の前にあるって、気付かずに……」
レイくんの細い腕が私を優しく締め付ける。
壊れ物を扱う様に繊細で、しかし決して放すまいと力強く。
「君の心に触れて、君を好きになって。その時既に、僕の心は決まっていたはずなのに。想いを断ち切れなかった────いや、断ち切らなかった。僕は本当に、バカだ……」
「そんなことないよ、レイくん」
震える背中をしっかりと抱きとめて、私はそっと首を横に振った。
レイくんの心が間違っていたとは思わないから。
「気持ちを無理に断ち切る必要なんてない。その心で感じた気持ちは、絶対に間違いなんかじゃないよ」
「でも現に僕は、無意味なことをずっと……」
「間違いじゃないし、無意味でもない。レイくんが感じた気持ち、抱いた理想は絶対に。けど、私はこれ以上レイくんが傷つくところを見たくないから。あの人にこれ以上囚われないでほしい」
人の気持ちをどうこういう権利は私にはない。
けれど、決して他人を必要としないドルミーレにこれ以上想いを向けたところで、それは全て仇で返される。
そんな虚しい思いを、私はレイくんにして欲しくない。
だからといって私はレイくんの気持ちに応えることができないから、とても無責任かもしれないけれど。
でも、放っておくことなんてできるわけがないんだ。
「……あぁ。そうだね」
ほんの少しの沈黙の後、レイくんは小さく頷いた。
「僕もいい加減、大人にならないと。この気持ちと決別し、自分の道を歩まないといけないね」
そう言うと、レイくんはそっと腕を解いた。
向けられた顔はとても爽やかで、けれど涙の跡がはっきりと残っていて。
それでもスッキリとしたその顔は、とても気持ちがいいものだった。
「全てを割り切ることはまだ難しいかもしれない。それでも、自分が行くべき道は見つめ直そうと思う。僕はもう、彼女から卒業するよ。自分の意思で自分の道を進んで、自分が守りたいものを守る」
「うん、それがいい。その方が絶対カッコいいよ」
私が頷くと、レイくんは照れ臭そうにはにかんだ。
レイくんのドルミーレに対する想いは確かなものだったと思うけれど、長い時間がレイくん自身を縛っていたんだ。
悠久の時を生きる妖精であっても、いやだからこそ、強く固くその心を制限していた。
そこから抜け出したレイくんは、今までよりもずっと魅力的に見えた。
私とレイくんの交流は、結局ドルミーレとその力を基軸にするものだった。
だからこれからは、何も余計なものがない状態で仲良くしていきたいと思う。
今のレイくんとなら、きっとわかり合って一緒に進める道を見つけることができるだろうから。
その想いを込めて笑顔を向けると、レイくんもまた屈託のない笑みを返してくれた。
何の混じりっ気もない、純粋で優しい笑みを。
「とんだ茶番ね」
私たちのことをつまらなさそうに眺めていたドルミーレが、吐き捨てる様に口を挟んだ。
呆れ返った彼女は、お話にならないというふうに肩を竦める。
「だからなんだっていうの? その仲良しごっこが何になるっていうの? 馬鹿らしい。呆れたわ、まったく」
そうこぼすと、ドルミーレは溜息をつきながら再び椅子に腰を下ろした。
無造作に足を組みながら、私に向けて冷たい視線を送る。
「あなたたちの仲良しこよしを見せつけたら、私の怒りが収まるとでも思った? だとしたら愚かにも程があるわね」
「そんなことじゃないよ。私はただ、もうレイくんに傷付いて欲しくなかっただけ。あなたに、レイくんを傷付けさせたくなかっただけだよ」
尊大に腕を組むドルミーレに向き直って、私は怯むことなく言い返した。
それにドルミーレはただ鼻を鳴らす。
「そう、それであなたはどうするつもり? まさか二人揃ってここから逃げられるなんて、そんな呑気なことを思ってはいないでしょうね。あなたはともかく、レイは殺さなければ私の気がおさまらないわ」
「帰るよ。私は現実に帰る。もちろんレイくんと一緒にね。その邪魔をするというのなら、私は今ここであなたと決着をつける……!」
『真理の剣』を両手で強く握り、ドルミーレに向けて構える。
本当だったら、ドルミーレとの問題に向き合うのは全てが終わった後にしたかった。
だって、その先に何が起こるかなんてわかったものじゃないから。
でもそうも言っていられないのであれば、今ここでぶつかるしかない。
私が覚悟を決めて意思を示すと、ドルミーレは可笑しそうに笑い声を上げた。
「私と決着をつける。あなた、それ本気で言っているの?」
「本気だよ。私の力の源、私という存在の源流……ドルミーレ。私はあなたから生まれたものとして、あなたをこの心に抱くものとして、あなたがしてきたことを清算する責任がある……!」
「馬鹿ね。あなたは本当に馬鹿」
ドルミーレはクツクツと嘲笑い、その冷たい笑みを絶やさない。
背筋が凍る様なその笑い声に挫けそうになりながらも、私は彼女から目を逸らさなかった。
「あなたは私。私が見ているいっ時の夢。私からこほれ落ちたものがいくら自我を持とうと、あなたは所詮影法師に過ぎない。そんなあなたが、本物である私に敵うと思っていて?」
「難しいってことは、わかってる。結局あなたの力に頼るしかない私が、あなたに立ち向かうことはきっと難しい。でも、問題なのは力じゃない。私があなたに負けていないものがあるとすれば、それは心だ。私には沢山の友達の心が繋がっている。みんなが支えてくれている。この繋がりが生む心の強さだけは、決してあなたには負けない!」
私が幻に過ぎなくても、いっ時の夢だったとしても。
私に繋がる友達が、私を一つの存在として証明してくれる。
その繋がりがあれば、この心があれば、私は臆することなく立ち向かえる。
けれど、ドルミーレは嗤う。
「くだらない。そんなものを振りかざして、私に敵うつもりでいるなんて。こっちが恥ずかしくなるわね」
「それが私たちの違いだよ、ドルミーレ。あなたが一人孤独でいる限り、私は絶対に負けない」
「そう。なら見せてもらいましょうか。あなたのその強さというものを」
ドルミーレがそう言い放った瞬間、彼女の黒い気配が色濃くなった。
暗闇に包まれた森の中で、彼女の底知れない邪悪な力がより深い闇を抱く。
真奈実さんが発していた異次元の醜悪さすら可愛く思えてしまうほどの、人間の理解を超越した悍ましさがそこにはあった。




