110 限りなく近いもの
暗黒の輝きが世界を満たし、それに伴って邪悪な魔力が周囲を覆い尽くした。
この世の外に放り出されたような、地獄の釜に叩き落とされたような、そんな絶望感が肌に突き刺さる。
そのあまりにも強大な力の気配は、直面する自分の存在を虫ケラのように錯覚させた。
これに比べたら、自分は如何に矮小でくだらない物なのかと。
それ程に、ホワイトが振り撒いた存在感と力は桁違いだった。
私がかつて、初めてドルミーレと対話した時に感じた恐怖に、限りなく近い。
黒の閃光は数瞬のこと。
輝きはあっという間に収縮し、それでも尚ホワイトの身を包んで瞬いている。
黒い力がそのまま視覚化し、輝きと共に渦巻いている。
やがてそれは形を成して大きく膨らみ出した。
「ッ…………!」
全身に突き刺さる気味の悪さに、もはや慄くこともできない。
催す吐き気はそれだけにとどまらず、体の内側がひっくり返って内臓が出てしまいそうだ。
黒い力と光を伴ってホワイトが姿形を変貌させていく様は、理性を飛び越えて本能に危機感を叩きつけてきた。
転臨による醜悪さや不気味さなんて可愛く思える。
これこそが、本当の理解不能。本当の悍ましさだ。
人間とは立つステージな違う。住む世界が違う。
そう、私の全身が悲鳴を上げた。
『────────!!!!!』
この世のものとは思えない絶叫と共に、黒い力の輝きが解き放たれた。
大きく膨れ上がった力の内側から現れた姿は、私の身の丈などとうに超えている。
それは、白い大蛇だった。
正確に言えば、大蛇の胴体を持つ女の怪物。
昨日見たホワイトの転臨の姿と酷似しているけれど、更に人間離れしていた。
その体格そのものは、二回りほど膨れ上がっており、人の枠を超えたスケールになっている。
その体から伸びた蛇の下半身は、クジラですら絞め殺してしまい方な程に太く強か。
白く艶やかな蛇の鱗は、その蛇の部分以外にも敷き詰められており、消え去った和服の代わりに彼女の上半身の肌を覆っていた。
墨の川のように黒々としている長髪もまた、そのスケールに合わせて世界を覆う黒幕のように広がっている。
そして、その髪がいくつもの束を作って各々自由にうねり、蛇の頭を模すように顎を作り出していた。
それはさながら、ギリシャ神話に語られるメドゥーサのよう。
膨らんだ巨体と、そこから伸びる長い蛇の胴体のせいで、全体像があまりにも大きい。
階段の上になどもちろん収まるわけがなく、その尾は地についている。
神殿と同等のサイズ感の彼女は、建物に巻き付くように尾を蔓延らせていた。
この姿の変貌ぶりは、先日アゲハさんが行った擬似再臨を思わせた。
『魔女ウィルス』の侵食によって変貌した肉体を、最大限まで高め、『始まりの魔女』に近い状態へと登りつめた姿。
ドルミーレの復活である再臨の模倣、擬似的な再現。
きっと、この姿そのものはホワイトの擬似再臨の結果によるものなんだろう。
クロアさんが以前言っていた。『魔女ウィルス』は本来ドルミーレの器を作り出すためのものだったと。
ならば、擬似再臨によって人間ではないものに昇華させた肉体は、まさしくそのためのものだと言える。
ドルミーレをホワイトに映し出すのだとすれば、それは最適な形なんだろう。
アゲハさんと違うところがあるとすれば、その顔がホワイトのものだとわかる形を保っているところ。
顔の肌も白い鱗がびっしりで、ツルツルてかてかとしているけれど、顔の造形はホワイトそのもの。
ただ、その口は口裂け女のように大きく広がっていて、鋭く長い牙を覗かせていた。
そしてその瞳は獰猛な猛禽類のような鋭く尖っており、人の理性を感じさせなかった。
「ッ………………!」
言葉が出ない。擬似再臨による怪物化、それそのものだって縮み上がるほどに恐ろしい。
その上、その姿から滲み出るドルミーレのものと思える底知れぬ力が、私を圧迫して萎縮させた。
それは人のものとは到底思えず、そしてただの転臨、ないし擬似再臨のものでもなく。
『始まりの魔女』ドルミーレのものといえる、異次元の存在感だった。
けれど、そんな中で気になることがあるとすれば。
その姿が飽くまでホワイトのものであるということだ。
レイくんはドルミーレを映し出すと言っていたから、彼女そのものの姿に変貌するのかと思っていたけれど。
ただ、そうは言っても中身は既にホワイトではなく、ドルミーレが反映されているのかもしれない。
『────おかしい』
しかし、発せられたのはホワイトの声。
そして彼女のものと思える訝しんだ言葉だった。
眼前にいるちっぽけな私たちになど目もくれず、キョロキョロと自分自身を見回している。
『確かに、人の身に余る強大な力を感じる。しかし、わたくしはまだ、わたくし……始祖様が、顕れていない────』
「なにっ…………!?」
ホワイトの言葉に、レイくんが大きく動揺を見せた。
私を強く抱きしめたまま、大きく身を乗り出してホワイトの巨体を見上げる。
「確かに儀式は発動した。僕の術に間違いはなかった。なのにどうして、映し出し切れていないんだ……!」
レイくんには珍しい、焦りと戸惑いの声だった。
ホワイト自身の認識はもちろんのこと、レイくんの目から見てもそれは明らかにドルミーレではなかったんだ。
その姿からは確かにドルミーレに限りなく近い恐ろしい気配を感じる。
けれど確かに、何か物足りないような、違和感のようなものを私も覚えた。
目の前の怪物は、ドルミーレのようで、けれど全く違うものだ。
それは、この心の奥に彼女を眠らせていた私にはよくわかる。
『────どういうことですか、レイさん。条件も、状況も、手段も、全て完璧だったはず。何故、わたくしの元に始祖様が訪れないのです……!』
「ッ…………」
怨念のような怒りの叫びを上げるホワイトに、レイくんは歯軋りした。
「クソッ…………ホワイトでは、適性が足りなかったというのか……」
『話が────違う────!!!』
焦りを見せるレイくんに、ホワイトが吠えた。
それは常に余裕を帯びていた彼女にしては珍しい、けたたましい怒声だった。
『わたくしは、この身は始祖様をお迎えするに足りるものだと聞かされておりました。絶対的な正義の体現であるわたくしは、ドルミーレに染まることができる『純白の巫女』足ると! わたくしは、偉大なる始祖様にこの身を捧げることのできる喜びを胸に、この時を迎えたのです。だというのに、こんな中途半端な形では、何も成せない────!』
「落ち着くんだホワイト。まだ計画が失敗したわけじゃ────」
『レイさん! 結局何一つ、あなたの言う通りになどならないではないですか……!』
蛇の形を成す髪の束を毛羽立たせて絶叫するホワイト。
長い尾を地面に打ち付け、その怒りが地を揺らす。
『わたくしはあなたを信じてここまでやってきたのです。わたくしの正義を成す為に! その結果がこれだと言うのですか。始祖様のお力は確かにこの身に映し出されました。しかし、そのお心そのものが顕れなければ、力は不完全。これでは世界を再編することは叶いません!!!』
荒ぶるその姿は、私が知るホワイトの在り方とは遥かにかけ離れていた。
自分が絶対的に正と信じ、何事にも自信と余裕に満ちていたホワイト。
声を張り上げることはあっても、感情のままに荒げることはなかった。
しかし今の彼女は、感情を抑制するという気がまったくないかのように喚き散らしている。
ドルミーレの力をその体に映し出したことで、彼女の心にも大きな影響が出ているのかもしれない。
彼女の口ぶりからは、その体を、映し出したドルミーレに明け渡すつもりだったように思える。
だとすれば、完全ではない投影が彼女を乱しているのかもしれない。
ホワイトは巨体をくねらせながら喚き散らし、そして私にその獰猛な視線を向けた。
『斯くなる上は、その全てを取り込むまで! 足りぬものを補い、わたくしが始祖様と成る!』
「ダメだホワイト! そんなことは認められない!」
『────レイさんはお黙りなさい!』
状況が理解できない私を置いて繰り広げられる会話。
そしてホワイトが声を張り上げたのと同時に、彼女を中心に大きな力が渦巻き、波動となって広がった。
それは瞬間的に周囲に広がって私たちを飲み込み、そしてレイくんだけを吹き飛ばした。
私をしっかりと抱きしめていたレイくんの腕はいとも簡単に解け、その体が強制的に押し退けられていく。
そしてそれはレイくんだけではなくて、私たちから離れた場所で争っていた氷室さんとワルプルギスの魔女たちも、更に外へと追いやった。
それは、『領域の制定』だった。
最高レベルの魔法使いでもそうそう扱えない、超高度な空間魔法。
『始まりの力』を持つ私だから使えていた究極の空間支配。
ホワイトはそれと同等の力で、この場から自分と私以外のものを押し退けた。
その力を受けて、私はようやく実感できた。
その姿、感じる気配だけでも、もちろん嫌というほど伝わってきてはいたけれど。
それでも、彼女に不完全ながらもドルミーレの力が渡ってしまっているということを。
『さぁ姫殿下。わたくしに貴女様が持つ全てをお譲り下さい。それを持ってわたくしは、人柱たる役目を果たし、この世界に正義を執行する!』
広場の中に創り出された封鎖された空間の中で、ホワイトはその巨体をもたげて覆いかぶさってきた。




