106 何もない
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金盛 善子は、自室のベッドに呆然と寝転んでいた。
起き上がる気力はもちろんなく、身動ぐ気力すらない。
浅い眠りから覚めた時は朝日が昇ったばかりだったが、気が付けば太陽が真上に来る時分になっていた。
昨日起こった魔女の集団感染と、それに伴う多数の突然死に、世間は大騒ぎとなっていた。
その中心地ともいえる加賀美市は、厳戒態勢が敷かれ外出もままならない。
テレビやインターネットでは、超常的かつ驚異的な事態に様々な思惑が飛び交っている。
学校は当然休校となり、平日の昼間にも関わらず、善子は学生の身でありながら自室に引きこもることに困らなかった。
「…………」
カーテンを閉め切った部屋の中は、昼間でも薄暗い。
息が詰まるような重苦しい空気が立ちこめるも、それをどうしようとも思えなかった。
善子はただ、漠然と自室の天井を見上げていた。
昨日、廃ビルを後にしてからのことあまり覚えていなかった。
どうやって家に帰ってのか、帰ってきてからどうしていたのか。
目を覚ますまでのことが、あまりにも朧げだった。
後から帰宅した弟に、何か声をかけられたような気もしたけれど、それもまた曖昧だ。
彼女の耳には届いておらず、心にも全く響いていなかった。
「……真奈実」
無意識に唇がその名を紡ぎ、それに気づいて胸が締まる。
彼女のことを考えるだけで、顔が頭をよぎるだけで、どうしようもなく涙が溢れてきた。
堪えることのできない涙を、善子は拭うことなくポロポロと流す。
憚る相手のいない自室で、心のままに、思うままに。
大切な親友の変貌。わかり合えぬ心。向けられた明確な殺意。
かつて笑い合った掛け替えの無い友に、排除すべき悪だと断定された事実。
それは到底、癒すことのできない深い傷だった。
五年前、取り返しのつかない間違いを犯した善子。
レイの甘言に乗せられて無用なことに首を突っ込み、自身は魔女となり、親友を失うこととなった。
その時から、正義を重んじた真奈実のように、正しくあろうと心に決めたのだ。
彼女のように常に、何事においても正しくあれなくても。
自分なりの正しさを、まっすぐ貫いていこうと決めた。
弱き者を助け、届く範囲に手を伸ばし、後ろに続く者の標になろうと。
そう心に決めて、善子はこの五年間を生きてきた。
彼女のことを正義の味方のようだと、そう言う人もいる。
しかし善子自身は、決してそうは思わなかった。
彼女はただ、目の前のことに対して今自分ができる最善のことをしてきただけだからだ。
正しくあろうと思いながらも、彼女は自分を親友のような正義だとは思っていなかった。
それでも、死んだと思っていたはずの真奈実が歪んだ正義を示した時、それは認められないと思った。
親友が唱える間違った正義を正す為には、自分の中の正しさを正義として示さなければならないと、そう思った。
親友である自分には、その責任があると思った。
しかし、突きつけられたのは自分の弱さだけ。
真奈実の正義を正すどころか、自分の愚かさを見せつけられただけだった。
彼女の力、彼女の言葉、彼女の心の前に、自分はいかにちっぽけかと。
自分の正義は届かず、言葉も想いも届かず、親友であることは否定され、存在することすらも拒絶され。
圧倒的な力で聳え立つ彼女を前に、自分が信じてきたものがあまりに脆いものかということを理解してしまった。
「……所詮私は、紛い物なんだ。私には最初から、貫けるものなんて、何もない……」
自分でも驚くくらいに震える声で、弱々しく吐き捨てる。
自分のあまりの弱さに、辟易する。
結局、五年前から何も変わっていなかったと。
自分が指針にしてきた正しさは、つまるところ真奈実の真似事。
それによってしてきたことも全て、結局は模倣による虚構だ。
真奈実の正しさへの憧れから生まれたその行為に、自分由来のものなどなかった。
真奈実とぶつかり合うことで、善子はそれに気付かされてしまった。
自分なりの正しさ、自分にできること。そうやって言い訳をしてきただけで、結局それは他人の真似事。
本物の前には簡単に瓦解してしまう、意味のない偽りだったと。
そう気付いた瞬間、自分がどれだけ脆く弱いかを知ってしまった。
そしてそれはつまり、周りが求める金盛 善子という人間の無意味さを示していた。
可愛い後輩であり、大切な友人であるアリス。
彼女に示してきた自分。そして彼女が求める自分。
そんなものは本当は存在せず、ここにいるのはただの弱い女だと。
正しくなんてない。強くもない。貫くものはない。
何もない、なんでもないちっぽけな女。
そんな自分に掲げる正義などなく、他人の間違いを指摘できるわけもない。
いつも正しかった真奈実こそが正義であり、自分は結局また間違えたのだと。
そう、まざまざと突きつけられた。
そんな自分に、アリスと共に並び立つ資格はない。
そもそも、絶対的に正しい真奈実に立ち向かう勇気も、もうない。
戦う意志など、抱く余地がなかった。
「無理だ。私には、無理だ。私には何もできない。私は正しくない。私は強くない。私には何も守れない。私には、なにも…………」
真奈実が掲げる正義を、正しいとは思えない。
けれどだからこそ、自分は排除されるべき悪なのだと思ってしまう。
彼女の思想を理解できない自分こそが、間違っているのだと。
そんな自分に、彼女を正そうとするなんておこがましい。
あの殺伐とした目を思い出すと、背筋が凍る。
自分は殺しても構わない、悪きものだと断定された。
大切な親友に。掛け替えの無い友に。
それほど恐ろしいことがあるか。
もう一度あの目に立ち向かう勇気など、湧いてくるはずがない。
「ごめんね。ごめんね……こんな私で、ごめんね」
ここにはいない少女への謝罪の言葉を吐き出す。
自分とは違い、強く逞しい少女。
自分には踏み出せない一歩を、更にそれ以上を踏み出している少女に。
そんな、届くはずもない懺悔を口にしていた時。
彼女の部屋の戸が、控えめに叩かれた。




