101 子供のように
心の中で膨れ上がるドルミーレの存在感なんて、今はちっとも気にならない。
それよりも、私の心は優しい繋がりの温かさに満たされている。
きっと昨日みたいに、晴香たちが私を守ってくれているんだ。
胸に咲いた氷の華とても温かく、そして頼もしい。
体の痛みも今は感じず、私はただまっすぐ前を見据えて空を駆けた。
蛸の濁流に押し流された私は、二人から少し離れてしまっている。
どんなに速く飛行しても、クロアさんが脚を捻りきり、氷室さんを絞め殺してしまう方が早いように思えた。
「さ、せ、るかーーーー!!!」
私の目には氷室さんしか映らない。
ただ無我夢中に、持てる力を振り絞って私は眼前に全意識を向けた。
氷室さんを捕えている蛸の脚、そしてその周囲の闇を全て掌握し、瞬時に霧散させる。
闇が形を成していた蛸の脚はあっという間に掻き消え、氷室さんの体は宙に投げ出された。
「────氷室さん!」
「邪魔はおやめください!」
支えるものがなくなった氷室さんが落ちゆくところへ飛び込もうとした私。
しかしクロアさんが甲高い声で喚き、私に向けて自身の蛸の脚を数本振り回してきた。
「それは、こっちのセリフです!」
人一人分の太さがある巨大な蛸の脚が、ブワンと空気を振動させながら私に打ち込まれる。
彼女の肉体であるそれは、私の『幻想の掌握』で主導権を奪うことはできない。
だから私は離れてしまった『真理の剣』を手の中に呼び戻し、ありったけの力を込めて斬り込んだ。
「ッぁぁあああああ────!!!」
クロアさんの蛸の脚はまるでバターのようにスッパリと断ち切れ、けたたましい悲鳴が響き渡った。
しかしすぐにその断面がモゾモゾとグロテスクに蠢き、再生を始める。
異形の姿とはいえ、人の肉体を斬り裂くのには罪悪感があったけれど、その再生力を言い訳にした部分はある。
ただどちらにしろ、氷室さんを傷付けようとしている人を案じている余裕なんて、私にはなかった。
「姫様、姫様ぁああああ────!!!」
断ち切れた脚を再生させながら、クロアさんは発狂したように苦しみにもがく。
そしてその怒りの矛先を私ではなく氷室さんへと向け、今度は自らの脚を彼女の体に巻き付けた。
もがき暴れ回りながら、捕らえた氷室さんを振り回して高く掲げる。
「この痛みも、この孤独も、全てあなたのせいです! 絶対に、あなただけは────殺して────!」
鬼気迫る叫びと共に、クロアさんが今度こそ氷室さんを絞め殺そうとした。
しかし、私はもうその場に到達していた。
「────!」
高速で飛行する勢いそのまま、私は『真理の剣』を大きく振るい、氷室さんを捕らえる全ての脚を切断した。
スパンと切れ落ちた脚の先端は、すぐにグズグスと形を崩して霧散する。
脚の多くを失ったクロアさんは断末魔のような悲鳴を上げて身悶えた。
そんな彼女に、解放された氷室さんが動く。
散々痛めつけられ、疲弊しきっている氷室さん。
けれどその瞳には強く揺るぎない輝きがあり、静かな怒りが燃えていた。
空中で放られる形となった氷室さんは、すぐさま眼下のクロアさんへと手を伸ばし、氷の槍をいくつも撃ち放った。
それはクロアさんの全ての脚を打ち抜き、そして地面へと打ち付けた。
痛みに身悶えていたところへの追い討ちに、それを振り払うことのできないクロアさん。
そうこうしているうちに、氷の槍が突き刺さった箇所から氷結が進行した。
「なっ────そんな……!」
切断された脚は傷口を凍結されて再生ががままならず、残っていた数本も槍によって内部から凍結されて身動きが取れず。
クロアさんは一切の抵抗を許されず、その下半身を完全に氷漬けにされてしまった。
「氷室さん!」
クロアさんのすぐ脇に着地した氷室さんに、私はすぐに駆け付ける。
剣を片手で握り、ふらつく体に肩を貸してその無事を確かめる。
「大丈夫? ごめんね、助けるのが遅くなって」
「へい、き。あなたが隣にいてくれれば、私は。アリスちゃんこそ……辛くない?」
ボロボロな体で私を心配してくる氷室さんに、私は力強く頷いた。
自分の痛みも苦しみも恐怖も、氷室さんが生きていてくれたことで吹き飛んだ。
そんな私の顔を見て、氷室さんは安心したように少し表情を緩めた。
「ぁああ!!! そんな! わたくしは、わたくしは!!!」
下半身の自由を完全に奪われ、そしてその胸元辺りまで凍結が進行しているクロアさんが、悲痛な叫びを上げる。
それは痛みに悶えているようで、しかしそれよりも自分の悲惨さを嘆いているようだった。
「わたくしが、負けるなど、そんな……! 他でもないクリアさんに、姫様を奪われて! そんなのわたくし、いやです!!!」
「クロアさん…………」
氷室さんの魔法は彼女の肉体の芯から凍てつかせているのか、流石の彼女でも振り払うことはできないようだった。
どうにもならない現実と、受け入れられない敗北にクロアさんはボロボロと涙を流し出した。
「いやだ、いやぁぁ……いやです! 姫様ぁ……わたくしを、一人にしないで。わたくしを置いて行かないでください……わたくしは、わたくしは姫様なしでは…………!」
受け入れられずも、もう自分には抵抗できないと悟ったのか、クロアさんは途端に萎らしくなった。
恥も外聞もなく泣き喚き、身を縮こませて項垂れる。
「わたくしはただ、姫様に健やかに過ごして頂きたかっただけ。そんなあなた様の側にいたかっただけなのです。かつてのように、純朴で温かな笑みを、ずっとわたくしに向けて欲しかった。わたくしは、それだけで幸せだったのです……」
「ありがとうございます、クロアさん。あなたのその気持ちは嬉しい。でも私には、その道は選べない」
氷室さんを支えて立ちながら、私は剣を下ろしてクロアさんの顔を見上げた。
巨大な蛸の下半身に持ち上げられたその身体は、私の二倍くらいの大きさがある。
そんな巨大にも関わらず、弱く小さく縮こまり俯く彼女の顔を、私はまっすぐ見詰めた。
「私を苦しみから遠ざけようと、辛い運命から逃れさせようと、そうしてくれる優しさはありがたいです。そして、私のことを強く想ってくれることも。あなたの気持ちに応えられない私は、きっととっても酷い子です。だってクロアさんは、私のことだけを考えてくれてるのに」
ぐずりと、クロアさんが大きく鼻を啜った。
そこには先程までの狂気に満ちた面影はなく、また普段の大人びた穏やかさもない。
まるで母親に置いて行かれてベソをかく、小さな子供のようだった。
「でも私には、ごめんなさいとしか言えない。あなたの望むものと、私の望むものは違う。だから、あなたの気持ちにはどうしても沿えないんです。私は、自分がどんなに傷付くことになっても、友達を守るために運命に立ち向かうって、そう決めたから」
「あぁ……姫様、姫様……」
相手の強い想いを拒絶するからこそ、目を逸らすわけにはいかない。
誠心誠意、自分の真っ直ぐな気持ちを込めて言葉を向けると、クロアさんはボロボロと涙を流しながらゆっくりと手を伸ばしてきた。
氷室さんがビクリと身動いだけれど、首を振ってそれを制止する。
私がクロアさんに向けて顔を伸ばすと、その折れそうな指が頬にそっと触れた。




