96 不誠実
その声が本物であるかなんて、そんなことは確認する必要もなかった。
私の耳が彼女の声を認識したのと同時に、氷塊の波がクロアさんを飲み込み、吹き飛ばしたからだ。
世界が端から凍てついていくような氷の波が、暗い森の奥からパキパキと凄まじい勢いで迫ってきて。
生きた森の草木を飲み込み凍らせ、物理的にクロアさんを押し除け押し流す。
その氷結はあまりにも瞬間のことで、クロアさんは全く抵抗できずに直撃を受けた。
その反動で私に絡みついていた蛸の脚は全て解け、私はどさりと地面に崩れ落ちた。
全身に課せられていた強烈な圧迫のせいで流石に脚で着地はできず、地面にへたり込む。
押し付けられていた喉と肺が解放されたことで、私は咳き込みながら大きく息を吸った。
「……やっと、助けに来られた」
そんな私の目の前に、ストンと身軽な姿が降り立った。
淡々とした涼やかな声で、しかしそこに安堵の色を乗せて。
いつもと変わらぬポーカーフェイスを浮かべた女の子が、そっと私に手を差し伸べてくれた。
「氷室さん!」
「間に合ってよかった……遅くなって、ごめんなさい」
クラクラする頭で、目の前の大好きな友達の名前を叫ぶ。
闇に覆われた暗い森の中でも、その鮮やかなスカイブルーの瞳がキラキラと美しく輝いている。
それは紛れもなく、氷室さんだった。
また会えたことが嬉しくて、助けに来てくれたことが嬉しくて、私は飛び付くようにその手を握った。
氷室さんは驚いたように少しビクリとしたけれど、すぐにぐいと腕を引いて私を立ち上がらせてくれた。
「あぁ、氷室さん! よかった。ありがとう、助けに来てくれて……!」
「友達、だから。寧ろ、あの時手が届くてごめんなさい」
俯きながら静かにそう謝る氷室さんに、私は大きく首を横に振った。
レイくんがやって来た時は私も油断していたし、それに夜子さんですら対処が間に合っていなかった。
あれは誰が悪いわけじゃない。
大丈夫だよと笑顔を向けると、氷室さんは安心したように口元をやんわりと緩めた。
そんな彼女の手を握ると、僅かに震えているのがわかった。
よくその顔を見てみれば、そこには疲弊の色が見えた。
氷室さんもまた、ここに駆けつけてくれるまでに無茶をしてきたのかもしれない。
「また、邪魔を!!!」
私の為に必死で頑張ってきてくれたであろう氷室さんに、改めてお礼を言おうとした、その時。
森に敷き詰められた氷を打ち破って吹き飛ばし、その中からクロアさんが飛び出してきた。
太い蛸の脚をプロペラのように振り回して周囲の顔を破壊したクロアさんは、その白い顔を醜悪に歪めて氷室さんを睨む。
「もう、こんなところまで来るなんて! あなたは本当に、邪魔でしかない! もう少しで、姫様はわたくしだけのものとなったのに!!!」
「…………アリスちゃんは、あなたのものではない。彼女の自由を害するのものは、私が許さない」
再び闇と蛸の脚を周囲に広げながらヒステリックな声を上げるクロアさんに、氷室さんは淡々と返す。
私を庇うように腕を前に出して、その氷のようなスカイブルーの瞳を静かに彼女へと向ける。
「あなたが姫様のお側にいるから、いけないのです! あなたがいるから、姫様は誤った選択をしてしまう! あなたがいつも、わたくしの邪魔をする! もうそんなこと、許しません! 姫様を返しなさい!!!」
絶叫し、クロアさんが蛸の脚を一斉に放った。
覆い被さるように周囲から一斉に迫る沢山の触手のような脚。
闇をまとうことでそれは一層巨大さを増しているように見え、夜空が落ちてくるかのようだった。
しかし、氷室さんはそれに動じることなく、冷静な表情のまま即座に足元に片手をついた。
すると私たちを中心に地面へ冷気の魔力が円形に流れ、そこから周囲上方へ向けていくつもの氷の柱が突き上がった。
針葉樹のような無数のトゲを持った氷が、散開するように氷結する。
その全てが降りかかる蛸の脚を貫き、その勢いを押し留めた。
「ッ────────!!!」
クロアさんは甲高い悲鳴を上げながら、冷や汗を滲ませた顔で身をよじった。
蛸の脚は氷のトゲに貫かれたところでブチブチと千切れ、破損箇所は即座に再生し、残骸は闇に溶けて消える。
転臨した魔女の驚異的な再生能力。
しかし痛みがないわけではないようで、クロアさんはギリリと青い顔で歯軋りした。
「姫様の加護……! あなたは本当に、憎らしい! あなたさえ、いなければ!」
魔法使いのロードと渡り合える力を持つ、転臨した魔女。
普通の魔女である氷室さんがそんな彼女と渡り合えるのは、私との繋がり、『寵愛』があるからなんだ。
私の『始まりの力』による強化の恩恵が、氷室さんを強くしている。
それはクロアさんにとって単純な脅威であると同時に、私の気持ちを取られているということなるだろう。
氷室さんを睨む目に、更に恨みがましさが増した。
その感情のままに、クロアさんはその細い腕を振り回した。
暗闇の中で闇が形を成し、無数の槍と成ってこちらに放たれた。
あまりの視界の悪さに、それがどれくらいの攻撃なんてわからない。
しかしそれでも氷室さんはやはり冷静さを欠かなかった。
私が『掌握』を持ってそれを防ごうとする前に、立ち上がってクロアさんに目を向ける。
すると先程作り出した氷の柱がバラバラに砕け散り、無数の氷のトゲとなって、対抗するように放たれた。
迫りくる闇の攻撃と、迎え撃つ氷の攻撃。
それは空中でぶつかり合って、そのことごとくが相殺された。
クロアさんは大きく下品に舌打ちをすると、今度は自ら飛びかかってきた。
蛸の脚を木々に這わせ、上から覆い被さるように手を伸ばしてくる。
それを撃退しようと氷室さんが放つ斬撃のような氷の波を脚で弾き、ジリジリぬるぬると。
しかし氷室さんもクロアさんの接近を許さない。
攻撃を弾かれても絶え間なく氷の波を放ち続け、物量で押し退けようとする。
クロアさんはそれを掻き分けるように弾き砕いて、ゆっくりと近づこうとする勢いを止めない。
それはまさに一進一退の攻防だった。
「よくもまあ、あなたは……」
なかなか氷室さんの攻撃を突破できないことに苛立ちを覚えたのか、クロアさんは一旦進行を止めて恨みがましい声を上げた。
その蛸の脚を周囲でうねらせ、黒い闇を溢れ出しながら。
「────そうぬけぬけと姫様のお側にいられるものですね。あなたに、その資格などないというのに」
「………………」
急激に落ち着きを見せたクロアさんの声は静かで、しかし呪いのような重苦しさがあった。
けれど氷室さんは顔色一つ変えずに無言を返す。
スカイブルーの瞳は揺れることなく、その美しく醜い表情を見据えていた。
「わたくしは姫様に対し、包み隠さぬありのままの愛を語っております。しかしあなたはどうでしょう。姫様に対し、誠実だと言えるのでしょうか」
怒りに歪んだ顔はそのまま、けれどクロアさんはクツクツと笑った。
身の毛もよだつような乾いた笑いは、嘲りを含んでいた。
「わたくしは存じておりますよ? あなたが姫様に相応しくないということを。偽りを抱き、謀っていることを」
「な、何を言ってるんですか……!?」
不安な言葉に思わず私は声を上げた。
けれど、クロアさんは氷室さんに蔑むような目を向けるだけで答えてくれない。
隣を見れば、そこにあるのは変わらぬ無言のポーカーフェイス。
クロアさんの挑発的な言葉にも、動揺や焦りを見せない。
それを見れば、彼女の言葉はただの戯言なのではないかと思えるけれど。
でもそれにしては、クロアさんの顔は自信に満ち溢れていた。
「お可哀想な姫様。信を置くあなたに偽りがあることをご存知ない。それとも、ただのわたくしの思い違いでございましょうか。ならばまぁ、よろしいのですけれど」
「………………」
眉一つ動かさず無言を貫く氷室さんに、クロアさんは口元を吊り上げいやらしく笑みを浮かべた。
「どうなのですか? ねぇ、クリアさん」




