90 逃げる者と逃げられぬ者
「────────」
ネネが飛び交わせていた水飛沫は、クリアにとって水の檻。
それごと凍らせたスクルドの凍結は、空間をまるごと凍てつかせた。
その中心にいたクリアに、防ぐ術などなく。
彼女の左半身は、凍結し氷に覆われた。
「あぁッ────!!!」
声にならない悲鳴を上げ、クリアは苦痛に喘いだ。
辛うじて凍結を免れた右半身には炎が燻っており、せめてもの抵抗が窺える。
瞬間的な凍結の中、僅かにまとった炎が辛うじて全身凍結を防いだのだろう。
しかし残った右半身も冷気に焼けたのか、ピクリとも動かずただ悲鳴を漏らす。
凍りついた左半身は周囲の凍結に吊られ、クリアは身動きが取れずにいる。
白い息を荒々しく吐く彼女を、三人の魔女狩りが囲む。
「勝負あったな、クリアランス・デフェリア」
「……やって、くれたわね…………流石に分が悪かったか」
冷ややかな目を向けながら静かに語りかけるスクルド。
一気に氷点下まで下がった気温に身震いすることなく、涼しげな顔でクリアを見下ろす。
そんな彼に、クリアは歯を食いしばった。
「やっぱり、今のままじゃダメか……なかなか本調子にはいかないわね……」
「…………?」
「こっちの話よ────仕方ないから、ここは大人しく退散してあげる」
クリアがそう言うと、疑問の色を浮かべた三人を他所に、突如彼女の身を業火が包んだ。
それは瞬間的に膨れ上がり、すぐさますっぽりとクリアを飲み込んでいく。
「逃すかッ!」
そんな彼女に、シオンがすぐさま飛びかかった。
しかし、その手が届くよりも早く炎がクリアの身を包みきり、そして忽然と掻き消えてしまった。
後に残るものはなく、そこにあるのは虚空だけだ。
「クソッ! クリア、どこに!?」
「待て、H2。深追いは必要ない」
周囲を見渡して消えた姿を追うネネを、スクルドが静かな声で静止した。
その落ち着き払った声に、姉妹は苦い顔を浮かべる。
「しかしロード・スクルド。ここで彼女を逃しては後々困るのでは? それに、アリス様の身も……」
「確かにここで仕留められなかったのは惜しい。二度も逃すことも。しかし、あの状態ならしばらくは何もできないだろう。今は奴を追うより、やるべきことがある」
「そう……ですね」
スクルドの冷静な判断に、シオンは自身の興奮を恥じた。
私情で動かないと自分に言い聞かせておきながら、やはり昂る気持ちを抑えられていなかったと。
左半身の自由を奪われ命辛々逃げ出した彼女に、何かできるとは確かに思えない。
そう理解し気持ちを飲み込んで、シオンはネネに顔を向ける。
彼女もまた気落ちした表情で、いつも以上の膨れっ面を姉に見た。
しかし我が儘を喚くことなく、スクルドの意見に同意すると小さく頷いた。
「ただ、あの瞬間だけは何か違った……あの感覚は……いや、思い過ごしか……?」
「……? 何か仰いましたか?」
「────あぁ、いやなんでもない」
眉を寄せ独り言ちていたスクルドは、シオンの問いかけに首を横に振る。
スクルドの氷結が炸裂した瞬間、妙な違和感を彼は覚えていた。
しかしあまりにも個人的な違和感だった為、彼はそれを口にしなかった。
「とにかく、厄介者が一人減った。姫殿下のご意志の元、この戦いを一刻も早く────」
すぐに気を取り直して姉妹に向けて口を開いたスクルドだったが、視界の隅に映った姿に気付き、即座に魔法を放った。
凍結が空中を駆け抜け、氷の壁となって真横を過ぎ去ろうとした人物の行手を阻んだ。
「おっと、びっくりしたなぁ。すり抜けは失敗か」
そう気軽な口調で言葉を溢したのは、白い兎の耳を揺らすレイだった。
場に乗じて三人の横を飛び去ろうとしていたレイだったが、スクルドの目を欺くことはできなかった。
「どこへ行くつもりだ」
「どこって、もう退散しようと思ってね。クリアちゃんには僕も手を焼いていたんだけれど、君たちが追っ払ってくれたからね」
冷徹な問いかけに対しレイはニッコリと余裕の笑みを浮かべて、呑気な言葉で返した。
敵同士がやり合ってくれて大助かりだと、そう言わんばかりに。
その言葉を受けて三人は一斉に顔をしかめたが、レイは全く気にしない。
「クリアちゃんもいなくなったことだし、僕を阻むものはない。元々僕はここに来るつもりじゃなかったんだよ。だからさっさと立ち去らせてもらうさ」
「────待て」
レイはひらひらと手を振って、目の前に張られた氷の壁を乗り越えようと身を翻した。
しかし透かさず制止が飛び、レイは顔をしかめて溜息を突きながらスクルドに向き直る。
「君は争いを止めることにしたんじゃないのかい? 帰ろうとしている僕を止めなくたっていいじゃないか」
「去ることを阻むつもりはない。しかしお前はワルプルギスの要の一人だろう。ならば、仲間を引き連れて去ってもらわねば困る」
「そうきたか。参ったなぁ」
静かな覇気と共に語られる言葉に、レイは苦い顔した。
レイにとって自身の離脱と戦いの停止は別物だからだ。
魔女狩りを押し留めるためのこの戦いを、目的を達せずに止める理由がない。
寧ろ戦いを一刻も早く止める為、速やかにクロアと共に消えたアリスの元に合流する必要がある。
しかしそれを説明する気も、そして必要もない。
レイは更に溜息を重ねてから、スクルドを流し見た。
「因みに、拒むとどうなる?」
「力尽くでも連れ帰らせよう」
「なるほど。厄介なのに見つかっちゃったなぁ、まったく」
クールな表情の中に揺るぎない意志を見せるスクルドに、レイは舌打ちをした。
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