75 渡界
携帯の無機質なアラーム音で私は目を覚ました。
浮上した意識がキンキンと喧しい電子音を認識した後、私はやや圧迫感を覚えた。
ややぼんやりとした意識で、何事かとうっすら目を開けてみる。
視覚に情報が飛び込んできたことで、私はようやく現実をはっきりと認識できるようになってきた。
アラーム通りに目覚めたのなら、時間は朝のはずなのに部屋の中は暗い。
けれどすぐに、それは廃ビルに寝泊りしたのだからと思い当たった。
ここは窓が全部塞がれていて、外からの光は全く入ってこないんだ。
寝袋にくるまっただけだったので、剥き出しのコンクリートの上は固い。
けれど魔法で作った上質な寝袋なのか、寝苦しさはなかったし寝起きの具合も悪くない。
ここまではいい。
問題はその先。この圧迫感は何なのか。
その答えはすぐにわかった。
私の左側に、氷室さんがぴったりとくっついている。
同じように寝袋にくるまった状態で、私の腕にしがみつくように密着していた。
ここ数日で何度か一緒に眠ったことがあったけど、その時の中ではマシな密着度合い。
原因の一つは彼女だ。
そしてもう一つの原因は、言わずもがな千鳥ちゃんだった。
けれど、どうしてこうなったのかは解せない。
氷室さんとは反対、私の右側に並んで眠っていたはずの千鳥ちゃんは、今私のお腹に頭を乗せて眠っている。
寝ている間に九十度回転し、しかも人の上に頭を乗っけるなんてどういう寝相をしているんだろう……。
圧迫感の主な原因は間違い無くこの子だ。
友達に寄り添われて仲良く眠れていたこと、それそのものは嬉しいけれど。
ある意味で両手に花というか、真ん中の特権というか。
でも流石にこのままでいるわけにもいかないので、私は身を起こして二人を揺すり起こした。
「んーーーー。もう朝? なんか、よく眠れなかったかも。いつもと違う枕で寝た時みたい……」
「そりゃ、普段は私のお腹では寝てないだろうからね」
ぷぁと大きな欠伸をしながら起き上がった千鳥ちゃんに、ちょっぴり嫌味を向ける。
けれど寝ぼけ眼な千鳥ちゃんには聞こえないようで、コキコキと体の凝りを鳴らしていた。
どうせなら熟睡できてくれてれば、まだいいのに。
氷室さんは例の如く朝がとてつもなく弱くて、なかなか起きてくれなかった。
ようやく起きたと思えば大寝ボケをかまして、私に擦り寄ってきたりして。
私としては可愛くていいんだけれど、少しして我に返った氷室さんは、またいつものように恥ずかって飛び退いた。
昨日正くんと別れてから、私たちはすぐにこの廃ビルに戻ってきた。
持ち込んだ食べ物で軽く腹ごしらえをして、会話もそこそこ翌日に備えて三人仲良く川の字で眠って。
ベストな環境での睡眠ではなかったけど、一晩眠ったお陰で体のコンディションは大分整った。
持ち込んだ食べ物の残りを朝食としてかき込んで、パパッと身支度を済ませる。
因みにこの廃ビル、お風呂やシャワーはないけどトイレと洗面所はちゃんとある。しかも結構綺麗。
あまりにも場違いだから夜子さんの魔法によるものだと思うけど、ならビル全体も綺麗に整えたらいいのに。なんて思ったり。
気合を入れて髪を三つ編みにきっちり結いてから、私は二人と一緒に四階へと上がった。
夜子さんはもう起きていて、いつもと同じようにソファーにふんぞり返って私たちを待っていた。
いつもだらしない夜子さんだけど、眠ったり、無防備な姿は見たことがない。
ただ普段から寝起きみたいな格好だから、常に無防備といえば無防備だけど。
「やぁおはよう。みんな揃ってるね」
夜子さんは私たちを順繰りに眺めながら、ニヤニヤした笑みを浮かべて言った。
一、二、三と視線を動かし、その先の空白で視線を止める。
善子さんがいないと、そう思ったんだろう。けれど夜子さんは何も口にはしなかった。
朝起きて、もしかしたら何か連絡が来ているんじゃないかと期待したけれど、結果は空振り。
メールも電話も、善子さんからの一切連絡は来ていなかった。
迎えに行ってみようかとも考えたけれど、それは無理強いをしてしまうことになるかもしれない。
けれど、一応ダメ元でメールをしておいた。
気付いてもらえるか、読んでもらえるかはわからないけれど。
私の素直な気持ちを伝えておきたかったから。
その先は善子さんの意思次第だ。私はその気持ちを尊重したい。
「さて。一晩休んで十分英気を養ったことだろう。アリスちゃんの望み通り、君たちをあちらの世界へ送り届けよう」
のんびりとした声で、しかし夜子さんはハッキリと言った。
その目はしっかりと私を捕らえ、奥を覗き込むように鋭い。
「因みにわかっていると思うけれど、千鳥ちゃんはお留守番だ。こっちの世界のフォローをしてもらわないといけないからね」
夜子さんの言葉に頷きつつ、千鳥ちゃんは心配そうに私を見上げた。
ついていきたい気持ちと、でも怖い気持ちと、そして自分がやるべきことと。
色んなものが混ざり合った、複雑そうな瞳だ。
ついてきてもらえたらもちろんとても頼もしいけれど、こちらの世界も放ってはおけない。
千鳥ちゃんがいてくれれば安心だし、私は大丈夫だよと笑みを返した。
「だから送るのは君たち二人だ。問題ないかな?」
「…………はい、ありません」
もしかしたら善子さんが来てくれんじゃないか。そんな期待がないわけではない。
けれどそれをただ待ち続けるわけにもいかないし、現状に納得するしかない。
氷室さんの手を握りながら答えると、夜子さんはうんうんと頷いた。
「あちらの世界で君たちがどう立ち回るのか、それはもう君たち次第だ。思うようにやるといい。私にできることは、その手助けだけだからね」
「はい。もう覚悟はできてます。ワルプルギスとも魔法使いとも、絶対にケリをつけてみせます」
「その意気だ。送る場所は西のドルミーレの城。君にゆかりのある場所だ、やりやすいだろう」
レオとアリアとの冒険の半分を過ごした場所だ。
今は『領域』によって区切られていないけれど、あそこには誰も居ついてはいないはず。
移動先としては都合がいいし、拠点にもしやすい。
私が頷くと、夜子さんはのっそりと立ち上がった。
「じゃあ、二人とも────」
「ちょっと待った」
突然上がった声が夜子さんの言葉を遮った。
この場にいた誰の声でもない、唐突に現れた声だった。
私がその声に咄嗟に振り返った、その時────
「アリスちゃんを誘うのは僕の役目だ。さぁ、一緒に行こう」
レイくんが正面から私を抱きとめた。
「レ、レイくん!?」
「やぁ、約束通りすぐに迎えにきたよ」
レイくんはそう言ってパチリと軽やかにウィンクをすると、抱きとめた私をグイッと引き寄せた。
その勢いで、氷室さんと繋いでいた手が解ける。
「甘いよナイトウォーカー。まぁ急場凌ぎなら仕方ないかな。いくら結界を張り直そうと、アリスちゃんと心が繋がっているこの僕なら、ここにやって来ることは容易いよ」
「君というやつはッ…………!」
フフンと得意げな笑みを浮かべるレイくんに、夜子さんが固い声を上げた。
けれどそれを嘲笑うかのように、レイくんは更に私をしっかりと抱き締める。
「さぁ、僕と一緒に行こう。君が望む通り、向こうの世界に招待するよ」
「で、でもレイくん! 私────」
私は氷室さんと一緒に行きたいんだと、そう言おうとしたけれど。
レイくんが手早く私を抱き上げるものだから、口がうまく回らなかった。
「させるか!」
私をお姫様抱っこしたレイくんに、夜子さんが飛び掛かった。
脇にいた氷室さんと千鳥ちゃんも、すぐさまこちらに手を伸ばす。
けれど、即座に飛び退いたレイくんの方が早かった。
三人の手をハラリとかわした次の瞬間、飛び退いたレイくんの背後にポッカリと真っ黒な穴が空いた。
空間が抜け落ちたような、人間大の闇のような黒い穴。
私を抱き抱えたレイくんは、その穴の中に後ろ手に飛び込もうとしているようだった。
そして、私たちの体がその穴に入りかけた瞬間。
夜子さんから放たれた影の猫が猛スピードで飛び込んできた。
けれどそれがこちらに辿り着いたのか、私にはわからなかった。
闇に飲まれるように体が穴に沈み込んだ瞬間、私の意識もまた闇に落ちたから。
その朧げな意識の中、氷室さんの悲鳴のような呼び声が何度も耳元で響いた。




