1 闇に紛れて
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「遂にこうなっちゃったかぁ」
時は僅かに遡り、アリスの封印が解き放たれた時。
ロード・ケインは廃ビルから離れた遠くの空から、暗雲の闇に紛れてその一部始終を眺めていた。
「とうとう、姫様が全てを取り戻したか。流石にこれは、早く報告しないとだねぇ」
骨が粉砕した左腕を庇いながら、ケインは薄い笑みを浮かべた。
しかし、その笑みほど状況は穏やかではなく、彼の心情もまた同様だった。
『まほうつかいの国』での記憶を失い、そしてその力を封じられていた姫君。
その力が解放され、当時と同等の力をあの彼女が振るえるとなれば、これ以上の静観は難しい。
その全てが取り戻された今、後はその身柄の奪い合いが本格化する。
封印の解放をワルプルギスに委ねていた魔女狩りも、本腰を上げて向かわなければならなくなる。
あるいは、別の手段を講じなければならなくなる。
「デュークス、君がやろうとしていることは、茨の道かもしれないぜ?」
この場にいない友に向け、ケインは独り言ちる。
姫君の力、つまり『始まりの力』を用いないロード・デュークスの計画。
その計画を推し進める為には、成功を確実にする為には、やはり姫君の存在が障害となる。
姫君が封じられていた今までならば、まだよかった。
しかし今となっては、彼女を取り除くのは難しい。
それは彼女自身の力と存在もさることながら、彼女を追い求める動きがより苛烈になるであろうからだ。
魔法使いとして、魔女狩りとして、姫君が記憶と力を取り戻した今、その存在を廃する選択肢など普通はない。
しかしそれでも、デュークスは自身の計画を曲げようとはしないだろう。
そんな頑なな友人を、ケインは憎からず思っていた。
「僕にできることはするけどさ。でもやっぱり、厳しいなぁこれは」
あらゆる可能性を見て、先を読み、多くの手を打ち続けてきたケイン。
しかしそんな彼でも、この先を深く見据えるのは難しかった。
迎える結末は、恐らく極端なものになる。
誰が勝ちを得、誰が負けに喘ぐのか。
この先は、その結果によって大きく枝分かれするだろう。
慎重にいかなければならない。
そう気持ちを固めたケインが、国へ戻ろうと身を翻した時だった。
「盗み見とは、あまり良い趣味とは言えませんねぇ。えぇえぇ。とても君主たるお方がなさることではないのではないかと」
ねっとりとした女の声が彼の耳に届く。
若い女の声。しかしそれは低く重く、押さえつけるような底の深さを感じさせる。
その声に呼び止められたケインが、瞬間的に動きを止めた時。
暗雲によって広がった暗がりの中で闇が蠢いた。
それはたちまち彼を取り囲み、急激にその視界を黒で埋め尽くす。
血が凍るような悍ましい気配に、ケインは眉を潜めた。
とても人のものとは思えない、気色の悪い気配が彼を囲む闇の中から漂ってくる。
それに警戒を抱きながら蠢く闇に目を向けていると、闇の中から真っ白な顔がすぅーっと浮かび上がってきた。
それは女の顔だった。
まるで白塗りでもしているような蒼白な顔色の女。
それは闇の中に浮かぶように顔を出し、そして次第にその奥底から姿を現した。
貴婦人の如き漆黒のドレスをまとった女。
ワルプルギスの魔女、クロアが闇の中から現れた。
周囲を重苦しい闇で囲い、ケインを閉じこめながら。
ぐるぐると闇が周囲を駆け巡る中で、その白い顔だけが輝くように浮かんでいる。
その顔立ちは気品に溢れ、見目麗しい淑女のようではあるが、しかしケインは気を抜かなかった。
底の見えない醜悪な威圧感を前に、流石の彼も顔を強張らせる。
「やぁレディ。オジサンに何か用かな? デートのお誘いってわけじゃ、なさそうだねぇ」
「申し訳ございませんが、わたくしは姫様に身を捧げると誓っております。ただ、少しだけあなた様とお話ができればと。ロード・ケイン」
「楽しい話だといいんだけどなぁ」
警戒をしながらも、軟派な態度で口を開くケイン。
そんな彼にクロアはひどく落ち着いた声色で返した。
柔らかく淑やかな笑みを浮かべるクロアに、ケインもまた薄い笑みを返すしかなかった。
「楽しくなるかどうかは、あなた様次第でございますよ」
「そっかー。見目麗しい女性に声をかけてもらえるのは嬉しいし、楽しくしたいものだけれど。どうすれば楽しくなるのかな?」
「では、どうぞ大人しく」
ニッコリと微笑んだクロアがそう言った瞬間だった。
彼女のドレスのスカートから闇が吹き出し、まるで濁流のようにケインに覆い被さった。
ケインは咄嗟にその闇を払おうとしたが、しかし彼が行動を起こすまでもなく、すぐに闇の濁流は無くなった。
闇の濁流が形を得ている。
ケインに覆い被さっていた闇は瞬時に蛸の足へと形を得て、面食らった彼に容赦なく巻きついた。
「おいおい、こいつは参ったなぁ。君、これ楽しいの? 若い子の趣味はオジサンには難しいなぁ」
「申したではございませんか。楽しくなるのかはあなた様次第だと。これからの、あなた様の出方次第ですよ」
ケインの四肢は、クロアのスカートの中から伸びる巨大な蛸の足によってしっかりと拘束されていた。
ぬるぬると黒く蠢く太い蛸の足は、まるで蛇のようにケインの手足を絞りながら捕らえている。
自由を奪われたケインは、やれやれと苦笑いを浮かべるしかなかった。
絶対絶命ではないが、状況として好ましくもない。
目の前で緩やかに笑う女に対し、どう対処したものか。
ケインは軽口を叩きながら頭を巡らす。
「なるほどねぇ。でもなんていうかさ、もうちょっと優しく扱ってくれると、オジサン嬉しいなぁ。君の優しさが欲しいわけよ。例えばさ、怪我してる左腕は労ってくれるとかさ」
「これは失礼致しました。わたくしとしたことが、気が付きませんで……」
やんわりと言葉を並べ立て、ケインはクロアを転がそうと試みる。
その言葉を受けたクロアはハッとして手で口を覆い、素直に謝罪の言葉を述べた。
そして、蛸の足の一本が引き締まり、ケインの左腕は雑巾のように絞り上がった。
「────────!」
「中途半端はお辛いでしょう。やるなら一思いに。これでよろしいですか?」
「っ…………ありがとう。いい性格してるよ君」
「喜んでいただけて何よりでございます」
歯を食いしばり脂汗を滲ませながら、ケインはぎこちない笑みを浮かべた。
ただでさえ骨が粉砕していた左腕は、今の絞り上げで内側の肉も断裂した。
辛うじて体についているが、魔法で完治まで持っていくためには相当の時間と魔力を要するだろう。
そんな血も涙もない行為を、クロアは和やかな笑みでやってのけた。
そんな彼女に、ケインは不快感を抱かずにはいられなかった。
「……それで、僕に何の用かな? 話があるんだろう?」
「えぇそうでした。危うく忘れてしまうところでございました。あなた様が大層愉快なものですから」
悲鳴を上げる左腕と、全身にくまなく巻きつく蛸の足の不快感に耐えながら、ケインは尋ねる。
クロアはそこでわざとらしくハッとして、僅かに身をくねらせた。
「お聞きしたいことがあるのです…………『ジャバウォック計画』のことに、ついてなのですが」
「『ジャバウォック計画』だって?」
穏やかな笑みから一転、苦々しい顔しながら尋ねてきたクロアに、ケインは思わずオウム返しのリアクションを取ってしまった。
ロード・デュークスが独自に打ち立てているその計画が他者から、あまつさえ魔女の口から発せられるなど思ってもみなかったからだ。
その反応を見たクロアは、ほんの僅かに目を細めて言葉を続けた。
「君主たるあなた様であれば、その名が意味するところをおわかりでしょう? 何故、彼の忌々しい名が使われているのか。その理由を、是非教えて頂ければと」
「なるほどなぁ。こいつは困った……」
呪い殺すような怨嗟のこもった視線を一身に受け、ケインは嘆息した。
何故魔女がその計画の存在を知っているのか、それは今考えたところで仕方のないこと。
しかし、魔女が、ワルプルギスの魔女がその名に固執する意味を彼は知っている。
ならば出方を考えなければならない。
厄介なことに巻き込まれたと、ケインは内心で毒づいた。
「それを教えたら、僕のこと解放してくれるかい?」
「ことと次第によりますねぇ」
「そりゃそうか」
冷たく言い返されたケインは眉を寄せた。
この魔女は強力だが、一方的にやられるようなことはないだろうとケインは値踏みする。
しかし、それでもやはり極力荒ごとは避けたい。
少し思考を巡らせてから、ケインはゆっくりと口を開いた。
「それはデュークスの計画だからねぇ、僕も全容を知っているわけじゃない。ただまぁ大まかな構想は聞いているからね、言えることはある」
穏やかに、まるで寄り添うように優しい声で言葉を並べるケイン。
クロアが舐めるような視線を向けてくるのを確認しながら、ゆっくりと続ける。
「ジャバウォック。何故その名を冠するか。そんなの簡単さ。そのままだからだ」
「…………! まさかっ……!」
「『ジャバウォック計画』とは、混沌の魔物ジャバウォックの再現。そこまで言えば、なんとなくわかるだろう?」
「────────!!!」
クロアは声にならない悲鳴を上げた。
それと同時に蛸の足への力が緩む。
その隙をケインは決して見逃さなかった。
自身を包む空間を急激に掻き回し、蠢く蛸の足を全て振り払った。
そうして自由を得た彼は、その魔法の範囲を周囲へと拡大する。
二人を囲んで蠢いていた闇を打ち払い、クロアのテリトリーを排除する。
そしてすぐさま逃げるように距離を取り、愕然としているクロアに遠くから声をかけた。
「僕からのヒントはここまでだ。ねっとりぬるぬるプレイは悪くなかったけど、僕はもう少しソフトなのが好みかな。そういうわけで、趣味の合わない女性との火遊びはここまでにして、僕はおさらばするよ」
「────お、お待ちなさい! 話はまだ……!」
「いや、もうおしまいさ」
慌てて手を伸ばして叫ぶクロアに、ケインは耳を貸さなかった。
散々締め上げられて軋む体に鞭を打ち、ローブを大きく翻す。
「ロード・ケイン! 魔女狩りは────ロード・デュークスは一体何を考えて────!」
クロアは叫ぶ。しかしもう届かない。
白いローブがケインの身を覆い尽くした次の瞬間、もうそこに彼の姿はなかった。
不穏だけを残し、ロード・ケインは完全に離脱したのだった。
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