142 私を呼ぶ声
私はあの場所に、『まほうつかいの国』に沢山のものを残してきてしまった。
このままではいけないんだ。私は、帰らないといけない。
真っ先に思い浮かんだのは、親友のレオとアリア。
二人が、私を待っている。
でもそれだけじゃないんだ。
私にはやらなきゃいけないことがある。
レイくんも、それを私に望んでいる。
私の言葉にレイくんは満面の笑みを浮かべた。
それは純粋な歓喜で、僅かに涙ぐんでいるように見える。
「その言葉を、ずっと待っていた。僕は信じていたよアリスちゃん。君はきっと、帰ることを望んでくれるってね」
僅かに声を詰まらせながら、レイくんは私に笑いかけてくる。
その後ろでは、ホワイトもまた顔を綻ばせていた。
常に厳格な風態を崩さない彼女にしては、その表情はやや砕けている。
「ついに、ついにこの時が! あぁ姫殿下! 我らが希望の姫君! 貴女様ならば、わたくし共の志を叶えてくださると、信じておりました……! 世界の再編への足掛かり、記念すべき時を目の当たりにできたこと、恐悦至極でございます……!」
口の前で手を合わせ、歓喜の声を上げるホワイト。
そんな彼女を背中に受けて、レイくんは片膝をついて恭しく私に手を差し出してきた。
「さぁアリスちゃん、手を。一緒に帰ろう、僕たちの国へ。やっぱり君を導くのは、僕だった」
まるでお伽話のお姫様と王子様のよう。
私の前で跪き、手を差し出して見上げてくるレイくん。
その瞳に一切の曇りはなく、純粋に私を慈しんでくれている。
ワルプルギスのことは、今でもよくわからない。
私があの国にいた時は、そんな組織はなかった。
でも、レイくんがいるのだからそれには何らかの意味があるはずだ。
ワルプルギスに力を貸すかは別にしても、レイくんとの約束は果たさなきゃいけない。
その為にもやっぱり私は、あの国に帰らないといけない。
やり残したこと、やらなければならないこと、私を待ってくれている人…………帰る意味がありすぎる。
その手を取らない理由が私には────────
「アリスちゃん!!!」
その時。私がレイくんの手を取ろうとした、その時。
甲高い叫び声が響き渡って、私は思わず竦み上がってしまった。
目の前のこと、帰らないといけないという気持ちに意識がいってしまっていて、また周りが見えなくなってしまっていた。
唐突にかけられた叫び声に振り返ると、そこには氷室さんの姿があった。
そう、氷室さんがいた。
氷室さんが私を見ている。真っ直ぐ、見ている。
ポーカーフェイスを崩し、血相を変えて。
そのスカイブルーの瞳をわなわな震わせて、私を見つめている。
そんな氷室さんの顔を見た時、心が鷲掴みされたような衝撃が襲った。
「待って、アリスちゃん。ダメ、その手を取っては……アリスちゃん、アリスちゃん……!」
数歩、歩みを進めながら氷室さんは力強く言う。
そして私のすぐ目の前までやってくると、私の手をぎゅっと握った。
その手はすごく、熱かった。
「アリスちゃん、思い出して。いいえ、冷静になって考えて。今のあなたは、感傷的になっている。それではダメだと、あなたは知っているはず」
「氷室、さん…………」
真っ直ぐ真っ直ぐ、氷室さんの瞳が私を貫く。
氷室さんの言葉はまるでフィルターを通しているかのように、ボヤボヤとして頭に届きにくかった。
その意味しているところを、脳みそがうまく理解しない。
氷室さんはどうして私を止めるんだろう。
だって、私にはやらなきゃいけないことがあるんだ。
私は思い出したんだ。自分のやるべきことを。
あそこに大切なものを置いてきてしまったことを。
だから私は帰らなきゃいけない。
誰に強制されたわけじゃない。
これは私の心が感じた、私の意思だ。
その、はずなのに。
どうして氷室さんに見つめられると、そこに迷いが生まれるんだろ……?
「アリスちゃん、あなたは私に約束した。今を決して失わないと。大切なことを思い出しても、今を蔑ろにはしないと。あなたは今、過去の感傷に流されて、今の気持ちが見えていない」
「余計なことを言うな! アリスちゃんの意思を邪魔するのは許さない!」
私の手を握りしめて言う氷室さんに、レイくんが声を荒げた。
見たことのない怒りに満ちた形相で、氷室さんを力強く睨んでいる。
しかしそれでも氷室さんは怯まず、私から目を離さない。
「あなたが感じているものを嘘だとは思っていない。それを否定するつもりはない。けれど、私は今のあなたを見過ごすことはできない。アリスちゃん、感じて。その心で、感じて。その心に問い掛ければ、答えは必ず……!」
「心、に……?」
今の自分の気持ちは私がよくわかってる。
長い間忘れていた私は、あの日残してきたものに責任を果たさなきゃいけない。
私を待ってくれる人たちの元に、帰らないといけない。
そうピシャリと言えるはずなのに。
なのに、氷室さんの言葉が頭の中に響いてしまう。
心を、心を感じる。
私の心……私の心に繋がる、心を────
「────────!」
その時、コートのポケットから眩い光が吹き出した。
それと同時にそこから物凄い熱を感じた。
そしてそれを受けてか、私の心がじわじわと、熱くなっていく。
突然のことに戸惑っていた時。
『────アリス!』
頭の中に、いや心の中に声が響いた。
ひどく懐かしい、泣きそうなほどに愛おしい声。
その声が、私を呼んでいる。
『アリス! 見失わないで、アリス! 飲み込まれないで、アリス!』
ポケットに手を突っ込んでみれば、創から渡された晴香のお守りが光り輝いていた。
そしてはたと気づく。この声は晴香の声だ。
晴香が、私を呼んでいる。心の奥底で、私を呼んでいる。
そうだ。晴香。晴香、晴香、晴香……!
私の大切な幼馴染み。私の、大好きな親友。
この世界のこの街で、ずっと一緒に生きてきた友達。
晴香が、私を呼んでる。
忘れるなと、見失うなと。
『────アリスちゃん……!』
そしてもう一つ。晴香と共に私を呼ぶ声がした。
静かで弱々しく、けれど明確な意思が通った声。
その縋るような声が、私の心をスンと澄ました。
とても懐かしく、愛おしい声が。
そうだ。私は何をしているんだ。
ここにも私は、沢山の大切なものがある。
このまま私があっちに行ってしまったら、今度はここにも沢山のものを置いていってしまうじゃないか。
記憶の一部に偽りがあったとしても。
私たちの心の繋がりは変わらない。
掛け替えの無い、愛すべき存在であることには変わらない。
私の大切な幼馴染み。晴香、そして創。
この世界には、二人がいる。
それ以外にも沢山、この世界に私は…………!
「アリスちゃん」
氷室さんが私を見る。
いつもと同じ冷静な、輝かしいスカイブルーの瞳で。
その瞳を見つめると、急激に心が透き通った。
記憶を思い出したことで溢れかえっていた感情が、ゆっくりと落ち着いていく。
なくなっていくわけじゃない。どこかにいくわけじゃない。
ただ、とても冷静になっていった。
「氷室さん、私…………」
「アリスちゃん……!」
そして、氷室さんの手が私の頬を打った。
パンッと乾いた音と共に、刺すような痛みが走る。
その瞬間、冷や水を被ったように全身がクリアになった。
「嘘つき……! あなたは……嘘をついた。私に、嘘をついた。アリスちゃん……あなたは、嘘つき」
「………………」
そうだ。そうだ。そうだ。
私は言ったじゃないか。
何を取り戻しても、今を蔑ろにしないと。
飲み込まれないと、言ったじゃないか。
それなのに、私は。
思い出したことに心を持っていかれて、忘れていたことにショックを受けて。
残してきたことに心奪われて、今目の前にあることを見失っていた。
私が置いてきてしまったものは確かに大切だ。
でも、今ここにいて、今私と一緒に繋がってくれる友達も同じくらい大切だ。
それを思えば、簡単に帰るなんて、そんなことを言えるはずないのに。
「ごめん、私、わたし……氷室さん、私……」
「あなたのその気持ちを、私も尊重したい。けれど、今のあなたの行動は軽率だと、私は思う。だから私はあなたを止める。今のあなたは道を誤ろうとしている。ならばそれを正すと、私は約束したから……!」
心が痛い。燃えるように熱い心が痛い。
この心に繋がる全ての心が、私を呼んでいる。
私に飲み込まれて私を見失うなと、みんなが言っている。
私の心の中にいてくれている晴香の声。
晴香のお守りを託してくれた創の声も、聞こえる気がする。
私が大切にしている全ての友達が、繋がりを辿って私を呼んでいる。
私じゃない私なんて、誰も望んでいない。
向こうで待っている人たちだって。レオやアリアだって。
私らしくない私なんて、私じゃない。
ここで今を捨てる私なんて、私じゃない……!
「ごめん氷室さん。ごめんなさい。私が間違ってた。あんなに言ったのに私、道を間違えるとこだったよ……」
お守りを握りしめ、そしてその手で氷室さんの手を握りしめる。
痛いほどに繋がりを感じるこの心が、私に私を教えてくれる。
私の友達が、私に本当を教えてくれている。
氷室さんは俯いた。
私の手を強く握りながら、唇を噛んで俯いている。
その肩は震えていて、泣いているんだとわかった。
あんなに大丈夫だって言ったのに、私は氷室さんを泣かせてしまった。
「ごめん、ごめん氷室さん。本当にごめん。私、バカだ……」
「あなたは、バカ…………だから、許さない……」
絞り出すような言葉で、しかし氷室さんは手を放さない。
その手を私も、決して放したくないと思った。
「ごめん氷室さん。今更私の言葉なんて信じられないかもしれないけど。でも、信じて。私はもう絶対、氷室さんを置いてどこにも行ったりしないから。それだけは、この心に誓うから」
氷室さんは俯きながら何度も頷いた。
声をこそ上げないけれど、氷室さんは大きく泣いている。
何度も何度も頷きながら、私の手を握りしめて、私の胸に頭を預けてきた。
「今度勝手にどこかに行こうとしたら、私は、決してあなたを、許さない……」
氷室さんの言葉は私の胸を突き刺した。
でも、私はそれを甘んじて受け入れて、うんと頷いた。




