80 謝罪と準備
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「申し訳ございませんでした」
ラブホテル『わんだ〜らんど』のパーティールームにて、クロアは床に伏せ、深々と頭を下げていた。
その先に立つレイはそんな彼女を一瞥すると、軽い溜息をこぼした。
ニット帽をかぶっていないことで晒されている黒髪を乱暴に掻き乱し、困ったように眉を寄せる。
「もういいって言ったじゃないか。別にクロアの責任じゃないよ」
「ですが……!」
「だからもういいってば。それより、美味しい紅茶を淹れくれるかい?」
納得がいかないと顔を持ち上げたクロア。
しかしもう聞く気がないという風にソファに腰を掛けたレイに、渋々と頷いた。
一度は捕らえたアゲハを逃してしまったクロアは、最終的に彼女を見失ってしまった。
それは明らかな油断に他ならず、慢心によるケアレスミスだった。
夜間での戦闘は闇の魔法を得意とするクロアにとって有利ではあったが、しかしそれは気を抜いていい理由にはならない。
結果としてクロアは、裏切り者であるアゲハを捕縛することも断罪することも叶わずに終わった。
しかしレイはそんな彼女を責める素振りを見せない。
それが彼女の罪悪感をより駆り立てているのだが、レイは関心を持ってはいなかった。
「うん。やっぱり紅茶はクロアが淹れてくれたものに限るね」
「……光栄、でございます」
クロアが紅茶を注いだティーカップにすぐさま手を伸ばしたレイは、その芳醇な香りを転がしながら微笑んだ。
その表情にはやはり怒りや呆れの色はなく、ただ単純にティータイムを楽しんでいるようにしか見えない。
しかしやはり、それがクロアの不安に拍車を掛けた。
なぜレイは、今のこの状況でこんなにも悠然としているのか、と。
ワルプルギスを裏切り姫君殺害を目論むアゲハを取り逃がしてしまったのだ。
それを許したクロアを咎めないにしても、早急に次の手を打つべきはずだ。
だというのにレイはこのホテルに帰還し、何事もなかったようにくつろいでいる。
不安と疑問に頭を悩ませながら傍に佇むクロアに、レイは気さくな視線を向けた。
「さぁ、隣に座りなよ。せっかくの紅茶だ、一緒に楽しもう」
「で、では……」
レイに促され、クロアはおずおずとレイの脇に腰掛けた。
レイが何を考えているのかわからない彼女は、無意識ながらも怯えと警戒を孕み、その座り方は控えめだった。
そんな彼女を見てレイは眉を下げて微笑んだ。
その意味すらもわからず戸惑いの表情を浮かべたクロアに、レイ柔らかい声を掛けた。
「ちょっと膝を貸してもらうよ」
それだけ言うと、レイはカップを持ったまま腰を持ち上げた。
立ち上がったことによって生まれたスペースにクロアを引き寄せ深々と座らせる。
そして当たり前のようにその膝の上に横向きに座り込んだ。
「レ、レイさん……!」
大胆な行動にまぁと口へ手を当てるクロアのことなど構わず、彼女の膝の間に自身の尻をうまくはめ込むレイ。
彼女の黒いドレスのスカートの闇に溶け込むように、太腿の柔肉に臀部が混じり合うようにフィットした。
片腕をクロアの腰に回して体勢を保ち、至近距離で彼女の白い顔を見つめる。
「これでちゃんと話ができるね」
「レイさんは、いつも大胆でいらっしゃる」
お互いの吐息がかかるような距離で微笑むレイに、クロアは口をすぼめた。
もう頭を下げることも顔を伏せることも許さないと、これはそういった意思表示だ。
面と向かって対等に、顔を合わせて話をしようということ。
クロアは観念し、気持ちを切り替えてレイを見返した。
「アゲハを捕らえられなかったというのは実のところ、別にそこまで痛手ではないんだよ。アリスちゃんに手を出されたらまずいから、もちろんケジメはつけなきゃいけないけれど、でも最優先じゃない」
「しかし、アゲハさんが裏切り者だったということは、つまり彼女が魔女狩りと通じていたスパイであった、ということでは? ならばやはり、捕らえて話を聞かなければならないのではないですか?」
膝の上で器用に紅茶を啜るレイは、のんびりとした口調で切り出した。
首をかしげるクロアを間近に見て、余裕に満ちた笑みを浮かべて腰を撫でた。
「まぁ聞けるらな聞いて損はないんだろうけどね。ただまぁ、そこまで必死にとっ捕まえて聞き出すことのほどでもないだろう。アゲハの動機は気になることろではあるけれど、だからと言って聞かなきゃいけないことでもない。それに何より、彼女は大した情報は持てないさ」
「何故そう思われるのか、お伺いしても?」
含む言い方にクロアが尋ねると、レイはあぁと頷いた。
「これは僕の読みなんだけれどね。アゲハはきっと奴らにとって、定の良い捨て駒だと思うんだよね。だってさ、アゲハが諜報に向くと思うかい? 魔法使いもそこまで馬鹿じゃないさ」
「それは……そうでございますね」
レイの少し小馬鹿にしたような笑みにクロアは思わず肯定してしまった。
確かにアゲハは短気で手が出るのが早く、あまり熟考するタイプとは言えない。
それを思えば、レイの言うことにも納得が出来てしまった。
「だからさ、今僕らがすべきことはアゲハを捕らえるというより、アリスちゃんに手出しをさせないことなのさ。でもクロアが散々痛めつけたみたいだし、すぐには次の手を打てはしないだろう。焦る必要はないよ」
「では、わたくしたちはこれからどのように……?」
クロアが尋ねると、レイは笑みを抑えて目を細めた。
そんな表情の切り替わりに、クロアは息を飲む。
「明日、アリスちゃんを迎えに行こうと思うんだ。その為の準備かな」
「それは、つまり……」
「あぁ、アリスちゃんの封印を解く。そうして目覚めた姫君を、僕らの神殿にお連れするんだ」
「まぁ……!」
クロアは口を手で覆いながら感嘆の声を上げた。
目を見開く彼女を、レイは薄い笑みで見つめる。
「では、レイさんから見て姫様はそれに足る状態になられたということですね?」
「凡そね。今のアリスちゃんなら心が砕けることはないだろう。まだ物足りない部分はあるけれど、でもあんまり時間をかけてもいられないからさ」
「何か、急ぐ理由がおありですか……?」
やや憂いを感じさせるレイの表情に、クロアは首を傾げた。
「クリアちゃんに会ったと言っただろう? 彼女が教えてくれたんだよ。魔女狩りが何を企んでいるのかをね」
「と、言いますと?」
「ロード・デュークスはどうやら、『ジャバウォック計画』なんてふざけことを考えているようだよ」
「ジャ、ジャバウォック……!?」
クロアが悲鳴にも似た声を上げた。
そんな彼女に同調するようにレイは顔をしかめつつ、苦々しげに言葉を続けた。
「そんなものを実現させるわけにはいかない。その計画がどういうものかは知らないけれど、僕たち魔女に対する害意であることは間違いない。ジャバウォックの名のつくものである以上ね」
「ジャバウォック……秩序を崩壊させる混沌の渦。全てを喰らい尽くし塗りつぶす無意味の権化。始祖ドルミーレ様の────」
クロアの顔からは先ほどの笑みは完全に消え去っていた。
ジャバウォックという名前からくる嫌悪感に顔をしかめ、唇を噛み締めている。
そんな彼女を労わるように、レイは甘い声を出した。
「ワルプルギスとして、その名を冠するものを赦すわけにはいかない。そのためにはやっぱり、僕らには姫君の力が必要なのさ。我らが始祖、母なるドルミーレの力がね」
「……左様でございますね。姫様なら、大丈夫でしょう。もし戸惑われたり苦しまれるようなことがあれば、私たちがお支えすれば良いのですから」
「そうさ。全てを思い出せばアリスちゃんはきっと僕たちの元に帰ってくる。そうすればきっとアリスちゃんは僕らを、全ての魔女を救うために動いてくれるはずさ」
まだ紅茶が残っているティーカップをテーブルに置き、レイはクロアの頬を撫でた。
その手に顔を委ね、縋るように目を瞑るクロアは、そんなレイの表情を見てはいなかった。
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