50 母と友
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花園 柊は、静寂に満ちた我が家で一人静かにコーヒーのカップを傾けていた。
娘たちは寝静まり、深い夜の中で彼女だけがリビングで寛いでいた。
ダイニングテーブルに肘をついて、何をするでもなく緩やかな時を過ごす。
久し振りに帰った我が家。けれど何一つとして変わってはいない。
強いて挙げるとすれば、この家で一人留守番をしていた娘がとても大人びて見えたことか。
まだ高校二年生の十七歳。彼女から見たらまだまだお子様だ。けれど久し振りに見たその顔は、何かを抱え、背負い、一皮も二皮も剥けていた。
「いつまでも子供じゃないのはわかってたけど、いざ大人になっていくのを見ると、案外寂しいものねぇ」
誰に聞かせるわけでもなく、一人ポツリと呟く。
成長しているのはわかっていた。日々その身体も心も逞しくなっていると、わかっていた。
けれどその成長を目にすると、腕に抱いてみると、まるで自分の知らないところへ行ってしまうような寂しさがあった。
いつまでも自分の手の中の、小さくて可愛いだけの娘ではいてくれない。
そんなことはわかっていたはずなのに、こみ上げる寂しさには抗えなかった。
でも、その成長を喜ばしいと思う気持ちも同じくらい込み上げてくる。
これが親というものかと、柊は一人で苦笑いを浮かべた。
人の親として子を育てるというのは、こんなに嬉しくて寂しくて幸せなのかと。
その成長を喜び、寂しがる気持ち。娘の喜怒哀楽が自分のことのように、自分のこと以上に感じられるこの慈しみ。
この気持ちは、かつては想像していなかったものだった。
だからこの思わぬ感情に溺れてしまっている自分が、少し予想外だった。でも、悪いとは思わない。
立ち上がり、二杯目のコーヒーを淹れようと台所へと向かう。
一人で飲むコーヒーは少しだけ寂しかったけれど、大人には一人静かな時を過ごすのも重要だ。
味気ないと思いつつも、手軽なインスタントコーヒーの粉末をコップに入れていた時だった。
ミシリとフローリングが軋むわずかな音が耳に届いて、柊はふと顔を上げた。
「あら、眠れないの?」
訪れた来訪者に柊は優しく微笑んで声をかけた。
本来ならあるはずのない来訪にも、特に驚いた素振りを見せない。
まるで来ることがわかっていたとでも言うように。
「ベッドを抜け出してきたらあの子が寂しがるんじゃない? ね、霰ちゃん」
「…………」
氷室はリビングの入り口で静かに佇んで、その澄んだ瞳を真っ直ぐに柊に向けていた。
まるで探りでも入れるかのように、注意深く観察しているかのように、まじまじと見つめる。
そんな彼女に柊は柔らかく笑みを向けたまま、手にしているカップを掲げた。
「あなたも飲む? インスタントだけど」
「…………」
氷室が静かに首を横に振ったので、柊はそっかと寂しそうに呟いて、一人分のコーヒーを入れて椅子に座った。
そしてにこやかに座るように促すと、氷室は静かに頷いて向かいの椅子に座った。
「この家に、更に結界を張ったのはあなた……?」
そして氷室は、特に躊躇いを見せることなく単刀直入に口を開いた。
はじめからそのことについて話したかったのか、迷いも前置きもなかった。
そんな氷室のまっすぐな問いかけに、柊はそっと口元を緩めた。
「ええ、そうよ。あなたがこの敷地に張った結界はとってもしっかりできていたし、何よりあの子を守りたいという気持ちが込められていた。だからそれは残しつつ、その内側のこの家に追加の結界を張らせてもらったの。ごめん、嫌だった?」
飽くまで優しく、そしてどこか戯けたような崩した口調で、柊は伺いを立てるように氷室の顔を見た。
対して氷室は普段のポーカーフェイスを崩すことなく、淡々と首を横に振った。
「いいえ。けれど、まさかあなたのような人が彼女の母親だとは、思わなかった。あなたは、何者……?」
「何者、かぁ。意地悪な質問をするなぁ霰ちゃんは。じゃあ私も仕返ししよっかな。あなたこそ何者なのかな?」
「私は……」
眉を上げ、あからさまに意地悪な笑みを浮かべる柊。
それは本気の意地悪ではない。しかしその質問は今の氷室には少し深い意味を持った。
氷室は少しだけ躊躇うように口ごもり、しかし明確に心に決めたようにその名を口にした。
「私は、氷室霰。それ以外の、何者でもない」
「そっか、そうなのねぇ。わかったよ。意地悪してごめんね、霰ちゃん」
氷室の返答に満足したように頷いた柊は、ニコリと笑みを返した。
そんな柊に、氷室は言葉での返答を求めるように強く瞳を向ける。
「私が何者か、霰ちゃんはもうわかってるんじゃない? あなたなら、知ってるんじゃないの?」
コーヒーにゆったりと口をつけて、柊は余裕な面持ちで氷室に促す。思っていることを口にしてみなさいと。
それに対して氷室は少し躊躇いを見せた後、自身の見解を述べた。
「────ホーリー・ライト・フラワーガーデン。魔法使いの君主。魔女狩りを統べる者の一人」
「大正解」
躊躇いの後に紡がれた言葉に、柊はあっさりと肯定した。
自身がホーリー・ライト・フラワーガーデンであることを。
その迷いのない返答に、氷室の方が僅かな動揺を浮かべた。しかし柊は気にする素振りを見せない。
「アリスちゃんに言っちゃった?」
「……いいえ。私は言っていないし、彼女は気付いていない。あなたが告げていないことを、私が伝えることはできないから。けれど────」
「私がしていることが腑に落ちない?」
言葉を途切れさせた氷室に、柊は透かさず差し込んだ。
その潔さを訝しく思いながらも、氷室は頷く。
「あなたが彼女の母親だというのなら、今起きているこの状況をどうとでもできるはず。けれどあなたはそれをしないどころか、何もしていない。むしろ……」
雨宮 晴香を鍵の守り手に据えるため魔女にし、その過酷な運命を背負わせたのはロード・ホーリー。つまり花園 柊だ。
アリスの母親であり、誰よりも彼女を愛しているはずの人間の行動としては、些か矛盾している。
「そうだね、霰ちゃんの言い分は正しい。確かに私ならなんとかできるかもしれない。ただね、あの子の母親がロード・ホーリーだってことは誰も知らないから、それを明るみに出せないって理由もある。けれどもし何とかできたとしても、それは表の問題だけ。それだけではなんの意味もないの。なんの解決にもならない」
微笑みを崩さず穏やかに、飽くまで朗らかな口調で語る柊の言葉に、氷室は黙って耳を傾けた。
アリスの友人として、その思惑を聞き届ければならないと。
「晴香ちゃんのこともね、本当に心苦しかった。私が鍵を持っていられればよかったんだけれど、私には別にやらないといけないことがあったから、ずっとあの子の側にいてあげられないし。本当は断って欲しいと思いつつ、晴香ちゃんの並々ならぬ優しさに、甘えてしまったの……」
その選択は、柊にとっても苦渋のことだった。
犠牲を伴う手段を取ることは本意ではなかった。
しかし、より大事なもののために、目を瞑るしかなった。
「あなたの、目的は……? アリスちゃんを、どうするつもりで……?」
「目的、かぁ。最初の時の気持ちとは大分変わっちゃって、正直どうすべきかって迷ってるの。でもね、アリスちゃんのことはどうしようもなく大事だと思ってるから、それだけは信じて欲しいな」
その目的自体を柊は口にしない。
しかしアリスを想っているというその言葉には嘘は見えず、氷室は煮え切らずも頷いた。
「アリスちゃんのことはね、私とっても愛してる。目に入れても痛くないどころか、命を投げ打つことも厭わないくらいね。でもね、それと同じくらい大切な友達がいるのよ」
「友達……?」
「ええ。その友達との約束を果たすのか、あの子の純粋な幸せを願うか。私はその狭間で揺れてしまっている。母親として、失格だよね」
眉を寄せて目尻を下げ、柊は力のない笑みを浮かべた。
どうしようもない迷いと、それによる罪悪感に溺れてしまいそうになっている。そんな悲痛な表情だった。
「だから今の私はどっち付かずで、とても最低なことをしているって自覚してる。でも、どうしようもないの。だってどっちかなんて、選べっこないんだもの。だから思うの。私にははじめから、あの子の母親を名乗る資格なんてなかったんだってね」
「………………」
氷室は何も口にしなかった。柊が語る言葉にただ耳を傾け、冷静な視線を向けるだけ。
アリスの友人として、非難の声をあげたい気持ちはあった。しかし、柊が抱くその気持ちを理解できてしまい、声を上げることができなかった。
柊は娘を想う母親であると同時に、友人を想う一人の人間でもある。
娘を想う気持ちと同じ強さを持つ友人への想いに、感じるものがあった。
故に、どちらかを選べないことを責めることができなかった。
「だから今私にできることは、影ながら導いて、あの子に運命と向き合わせること。そしていずれにしても迫る脅威に、対処すること。だからね、あなたのようにあの子に寄り添ってくれる子がいてくれて、私は嬉しいの」
「私は、何があってもアリスちゃんを守る。私は、アリスちゃんの友達だから……」
控えめに、しかし確かな意思を持って紡がれた氷室の言葉に、柊は微笑んだ。
自分は完全に寄り添うことはできないから、その心は友に任せるしかない。
愛しい娘の味方であり切れないこの無念は、アリスを取り巻く友人たちに託すしかない。
「アリスちゃんのことをよろしく。こんな母親失格の私なんかより、あなたがいてくれた方が、きっとあの子も心強いだろうからね」
柊が浮かべた笑みは、どうしようもなく悲しみと迷いに満ちていた。
しかし、彼女が抱えている問題をこれ以上かき乱したところで意味はないと氷室は判断し、ただ黙って頷いた。
自分が言えることなどもうとっくに考えられていて、それでもまだ答えが出せていないからこそ、彼女は悩んでるのだと、氷室にはわかっていたからだ。
もう聞けることはないと、氷室はおもむろに立ち上がった。
花園 柊は、ホーリー・ライト・フラワーガーデンは敵ではないが、しかし味方とも言い切れない。
しかし彼女がアリスに対して飽くまで母親として接し、愛するのならば、それを邪魔するつもりは氷室にはなかった。
この問題もまた、アリス自身がたどり着き答えを見つけなければいけないものだから。
柊は立ち去る氷室を呼び止めはしなかった。
彼女ならば、アリスにとってより良い判断をすると信じていたからだ。
自分にはできないことを託す以上、彼女を信頼する他ない。
例え彼女が、何を考えていたとしても。
また一人になった暗いリビングの中で、あっという間にぬるくなってしまったコーヒーを啜って、柊は重い溜息をついた。
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