37 闇と氷
二人が動き出したのはほぼ同時だった。
ロード・スクルドが冷気を放ち、それに伴って全てを凍りつくす氷の波が濁流のようにクロアさんに迫った。
しかし太く伸びるクロアさんの蛸の足が、その氷の波をいとも簡単に打ち砕く。
冷気が触れても僅かに霜が降りる程度で、全く凍りつく気配のない蛸の足を振り回すクロアさん。
それと同時に、闇としか形容のしようがない黒い靄のようなものがクロアさんから放たれてロード・スクルドの周囲を覆った。
クロアさんが足元の闇に蛸の足を突っ込んだと思うと、ロード・スクルドの周囲に満ちた闇の中から蛸の足が数本同時に生えて襲いかかった。
「小癪なっ……!」
ロード・スクルドはあくまで冷静に、自らの周囲に氷の剣をいくつも作り出して、それを放つことで迫り来る蛸の足を全て切り落とす。
しかし切り落とされた蛸の足はそれ単体が生き物であるかのようにうねりだし、意思のある触手のように闇の中で自立して伸び上がった。
根元の方もグジュグジュと音を立てながら手早く再生し、単純に足の数を増やしてしまう結果になった。
「面倒だな……あまり私を舐めるなよ」
冷たく言い放ったロード・スクルドが地面に手をつけた瞬間、無数の氷の棘が次々と生えてきた。
ロード・スクルドを中心に波状に氷の棘が絶え間なく突き上げられ、闇の靄ごと周囲にあるものを蹂躙して吹き飛ばしてしまった。
「お見事! 流石は君主を冠するお方! 一筋縄ではいきませんねぇ」
パチリと手を合わせてにこやかに言うクロアさん。
穏やかな口調は相変わらず、でもどこか楽しげに朗らかに言った。
「ですが、あなた様は感じておられるのではないですか? わたくしを簡単に屠れないことへの焦りを」
「……何が言いたい」
ロード・スクルドは苛立ちを隠さず冷たく言い放った。
確かに今の攻防は拮抗しているように見えた。
僅かなやり取りではあったけれど、どちらも負けず劣らずのように。
でもそれは本来ありえないこと。
本来魔女の魔法は、魔法使いにとっては稚拙で通用しないことが多い。
それは私自身、今までの戦いの中で経験してきた事実だ。
でも、アゲハさんが魔法使いであるカノンさんと戦った時もそうだったけれど、転臨した魔女はその枠に当てはまっていない。
しかも相手は、強大な力を持つ魔法使いであるロード。
それを相手にしても引けを取らない実力を、クロアさんは持っているんだ。魔女の身でありながら。
「ロード・スクルド様。ここはお引き頂けませんでしょうか。別に一切合切手を引くように言っているわけではないのです。ただ、今この時は退がって頂ければと」
「それで、お互いに何の得があると言えるんだ?」
「あなた様はお仲間からの誹謗を避けることができるでしょう。いかなる理由があれど、姫様を傷付けたとなれば批判は免れないでしょう。それがもし、あなた様の個人的な事情からなるものであれば尚更……」
クロアさんは意味ありげに舐めるような視線を向けた。
闇のように深い黒い瞳の這うような視線と、ねっとりとした探るような言葉に、ロード・スクルドは眉をひそめ表情を歪めた。
「……それで、お前の利は何だ。その口ぶりでは、今ではなければ良いようだが」
「ええ、その通りでございます。今この場でなければ良いのです。具体的に言えば、姫様に危険が及ばなければそれで」
「何が言いたい」
訝しがるロード・スクルドに、クロアさんはニンマリとした黒い笑みを浮かべた。
そしてそれから私の方に顔を向け、今度はいつものような温かな笑みを向けてくる。
それが意味することが私にはわからなくて、どう反応して良いかもわからなかった。
「そのお話は、場所を変えて致しましょう。ご安心ください、悪いようには致しません。寧ろ、あなた様にとっては都合がいいかと」
「……良いだろう。その話に乗ろう。何を企んでいるのかは知らないが……」
納得し難いと言いたげな態度を見せつつもクロアさんの言葉に思うところがあるのか、警戒を解かず青い瞳で冷徹な眼差しを向けながらロード・スクルドは小さく頷いた。
それを受けてクロアさんはパッと嬉しそうに微笑んだ。
「それでは姫様、わたくしはこれにて失礼致します。どうか本日は安らかにお休みください」
「ちょ、ちょっとクロアさん……! 私、何が何だか……」
「細かいことは気にしなくてもよろしいですよ。姫様はご自身のことだけお考えください。万事わたくしにお任せを」
急に現れて急に庇うように戦ったと思ったら、今度は敵と連れ立って行こうとするクロアさん。
私に味方してくれているのはわかるけれど、何が起きているのかさっぱりだった。
けれどクロアさんは何も説明する気は無いようで、ただにこやかに微笑むだけだった。
クロアさんの蛸の足元からまた闇の靄が溢れ出して、クロアさんとロード・スクルドを包んだ。
ロード・スクルドはそれを不快そうに見ながらも、特に抵抗はしなかった。
そしてその冷ややかな目を、私の後ろにいる氷室さんに向けた。
「少しだけ命拾いをしたな、ヘイル。けれどお前を殺すという私の意思は変わらない。我が家の暗部であるお前を、私は必ず消す」
その言葉には温情のかけらもなく、赤の他人、害敵へ向けるような冷酷な敵意だった。
私が睨み返しても、ロード・スクルドは全く表情を変えない。
「お前が逃げ回り抵抗すれば、それに巻き込まれる者がいると知れ。お前が少しでも自身の罪を理解しているのであれば、自害しろ。そうすれば私も手を煩わさずに済む」
「────」
「ロード・スクルド! あなたは……!」
氷室さんが息を飲んだのを背中に感じ、私はその非情な言葉に叫びで返した。
しかしそんな私たちのことなどどうでも良さそうに、ロード・スクルドはさっと背を向けてしまった。
闇の靄がぞわぞわと沸き立って二人の姿を包む。
夜の暗さに紛れて溶け込んでいくように、二人が見えなくなっていく。
ロード・スクルドはそれ以上こちらに目を向けようとはせず、対してクロアさんは最後までにこやかに微笑んで手を振ってきた。
靄が二人を包みきった時、闇に溶けたように二人の姿は忽然と消えてしまった。
目を凝らしても夜闇の中に人の姿は見て取れない。
魔女と魔法使いは、二人連れ立って闇の中に消えてしまった。
唐突に訪れた静寂に戸惑いつつ、それでも私は真っ先に今すべきことを行動に移した。
剣を消して力を解き、地面にヘタリ込む氷室さんに飛びついて抱きしめた。
まだ酷く冷たいその体を力の限り抱きしめる。
「よかった、無事で……! ごめんね、一人にしちゃって。怖かったよね、辛かったよね、寂しかったよね……」
強く強く抱きしめると、氷室さんも戸惑いながらも腕を伸ばして、力なく私の背中に腕を回してきた。
弱々しくも確かに身を寄せるように私のことを抱き返してくれる。
「心配をかけて……ごめんなさい」
「良いんだよそんなこと。だって当たり前だもん。無事でよかった、本当に……!」
「……ありがとう」
一時凌ぎに過ぎないかもしれないけれど、今はこの時を無事に過ごせたことが嬉しかった。
氷室さんがこうして無事でいてくれて、その存在を感じ取れることが本当に嬉しかった。
今はこの喜びを噛み締めたくて、ただただ強く氷室さんを抱きしめた。
氷室さんがここにいてくれる。ちゃんと生きてくれているって、それを感じたくて。
氷室さんは少し戸惑いながらも、でも同じように思ってくれているのか、私にゆったりと埋もれてくれた。




