49 ありがとう
「なに、を……」
「────私に背を向けるとはいい度胸だね」
絞り出すようこぼした晴香の言葉に愕然とする私へ、夜子さんが背後まで迫っていた。
私は慌てて燃えるように熱い晴香を抱きしめた。
けれどそれ以上のことは間に合わなくて、剣で防ぐことも魔法を放つこともできなかった。
夜子さんの影がその背を越えて大きく伸び上がり、その手の大きな爪を私たち目掛けて振り下ろした。
「アリスちゃん!!!」
燃え盛る業火が眼前を通過した。
一面を火で埋め尽くす、火炎放射のような炎の波。
それが飲み込まんとして迫り、夜子さんは退がらざるを得なかった。
「花園さん、無事?」
そして炎が過ぎ去った後にやってきたのは、僅かに焦燥を浮かべた氷室さんだった。
うずくまる晴香とそれを抱く私を庇うように立って、後ろ手に目を向けながら涼やかな声で言った。
「氷室さん……!」
「あなたは雨宮さんを。私が、彼女の相手をするから」
「でも────」
「今は、そうした方がいい」
夜子さんはあまりにも強い。氷室さんだって決して無事ではすまないかもしれない。
それでも私の制止を遮って、氷室さんは静かにぴしゃりとそう言った。
そして私の返事を待たずに夜子さんの元へ向かってかけて行ってしまった。
「アリス……」
「晴香、大丈夫だよ。私が……私が晴香を絶対に死なせたりなんか────」
「ううん。もう、いいの」
苦しそうに息をしながら、途切れ途切れの言葉で晴香は首を横に振った。
大量の汗が滴り、濡れた髪が張り付いている。
真っ赤な顔はまるで破裂してしまいそうで、でも表情はひどくやつれていた。
「いいって、なんでそういうこと言うの? 私……」
「私は、もう満足だよ。アリスは頑張ってくれた。私のために諦めないでくれた。私はそれだけで、満足なんだよ」
「私、何にもしてないよ……」
ただ喚いていただけだ。わがままを言い散らしていただけだ。
何にもできていない。晴香のために、私は何もできてない。
「その気持ちが嬉しかった。私が死ぬのは嫌だって、そう言ってくれるのが嬉しかった。その気持ちだけで、私は幸せだよ」
「そんなの当たり前でしょ? 晴香に死んでほしくないのなんて当たり前だよ! だって晴香は私の大切な幼馴染で、親友なんだから……!」
「その当たり前が、何より嬉しくて、何より幸せなことなんだって、アリスが気づかせてくれたの。特別なものなんて何もいらない。大好きな人に必要としてもらえることが、何よりも幸せなんだよ」
「だったら……!」
そんな諦めるようなこと言わないでよ。
でも、その先の言葉が出なかった。晴香の顔を見て、それ以上の言葉が出てこなかった。
懸命に今まで生きてきた晴香。私のために全てを費やしてきてくれた晴香。
自分の命がつきそうになっているのに、努めて笑顔を浮かべようとする晴香。
そんな晴香に、それ以上頑張れなんて言えなかった。
「大丈夫。私は、大丈夫だよアリス。もう……覚悟はできてる。私は近いうちに死ぬって、ずっとわかってたから」
私の肩にしがみつくように手を添えながら、けれどその手にはほとんど力が入っていなかった。
燃えるように熱い手のひらが、ひどく汗ばんで震えていた。
でも、晴香は必死に笑顔を作る。
「だから、これでいいんだよ。私が死んで、鍵はアリスに還って、封印は解ける。今のアリスならその力を扱える強さがあるはずだから、きっと大丈夫。そしてアリスは、その力で幸せに生きて……」
「幸せなんて、そんなの……晴香がいないと、私……」
「力に、運命に負けないで。今のアリスなら受け入れられるはずだから。力を取り戻しても、全てを乗り越えられるはず、だから。アリスは、とってもいい女の子になったよ。今日まで頑張って守ってきて、よかった……」
「そんなの……そんなこと……ばか……」
晴香はいつ死んでもおかしくなかった。
元々『魔女ウィルス』の適性率があまり高くなかったであろう晴香は、そう長くはないと思われてた。
それでも、こうして今までずっと頑張って生きてきてくれたんだ。
もし晴香の限界がもっと早かったら、何も知らない私はそれを理解もできず、受け入れられなかったかもしれない。
もしかしたらロード・ホーリーにとって、晴香は急場凌ぎだったのかもしれない。
そこまで多くを望んでいなかったのかもしれない。
けれどここまで頑張って守ってきてくれた。それはきっと、奇跡みたいなことなんだ。
「アリス。私のために頑張ってくれてありがとう。怖い思いをしながらも戦ってくれてありがとう。いつも一緒にいてくれてありがとう。私のことを好きって言ってくれて、ありがとう」
「そんなの、私が言うことだよ……! 私、いつも晴香に支えてもらってばっかりで……晴香はずっと私のために頑張ってきてくれたのに、私は晴香に何もしてあげられてない……!」
「アリスが側にいてくれるだけで十分だったよ、私は。アリスと毎日会えて、その笑顔を見られるだけで、私は幸せだった。アリスがいてくれる……それだけで私は、とっても沢山のものをもらってきたんだよ」
晴香は笑う。笑う。笑うんだ。
辛そうな顔をしながらも、私に笑いかけるんだ。
幸せだって、楽しかったって。だから大丈夫だって笑うんだ。
それが私は堪らなく辛かった。
「毎日、ちゃんと起きるんだよ。一人だからって適当なものばっかり、食べてちゃダメだからね。創と喧嘩しちゃ、ダメだよ。困った時は、頼ってあげて。あと、それから、それから……」
「わかったよ、わかったから……」
「無茶なことばっかり、しちゃダメだよ。アリスは優しいから……人のためにすぐ頑張っちゃう。もっと自分を大切にしてね……」
「そんなの、晴香に言われたくない……」
「できれば平穏無事に、毎日笑って過ごしてほしいな。アリスには、笑顔が似合うから。危ないことは……しないでね……」
「うん……うん……」
泣きそうになるのを力の限りぐっとこらえる。
晴香が笑っているんだから、私が泣くわけにはいかない。
だから代わりに、強く強く抱きしめた。
溶けてしまいそうなほどに熱い晴香の体にはもうほとんど力が入っていなくて、その腕は緩く私の背中に回しているだけだった。
「あと、ね……ぅぅっ────────」
「晴香!?」
晴香の体が強張って、苦しげな声を漏らした。
私は慌てて晴香を放してその顔を覗き込んだ。
懸命に笑顔を作ろうとして、けれどその苦悶の色は隠しきれていない。
「あと……」
晴香は崩れ落ちそうになるのを必死で堪えながら、震える腕を伸ばして私の肩に置いた。
滴る汗と垂れ下がる髪を振り払うこともできず、唇を噛み締めながら私を見上げた。
「氷室さんは……あんまり信じない方が、いい……かも……」
「え────」
「今の氷室さんはなんだか────ぅあぁっ────!」
晴香の上げた痛烈な呻き声で、私には今の言葉を吟味している余裕はなかった。
うずくまって地面に頭を落として、けれどそれでもなんとか震える腕で体を持ち上げる。
最後まで私の顔を見ていようと、懸命に顔を上げた。
私はそんな晴香に手を貸すことしかできなかった。
「ちょっと……そろそろ、まずいな……」
「晴香……!」
「大丈夫だよ、アリス。言ったでしょ? 私の心はいつだって……いつだってアリスと一緒だから。私が死んで、もう会えなくなったとしても……いつだって私は、アリスの中にいるから……」
晴香から発せられる禍々しい気配が強まる。
その高温の身体からは僅かに湯気が立ち込めていた。
そして、その身体の内側で何かが蠢いているように震えていた。
「それから……それ、から…………」
必死に口を動かして、私に想いを伝えようとする晴香。
そんな晴香に私は何にもしてあげられなくて。私はただこうして寄り添ってあげることしかできなくて。
震える体にはもうほとんど力が入っていなくって、目も霞んでいるのか少し焦点が合っていないよに見えた。
それでも力の限り私の肩を握って、弱々しく私の目を見た。
「私……私────」
もう呼吸はほとんどできていないようで、詰まった喉を強引に押し開いて、晴香は口をパクパクさせた。
それでも私に何か伝えようとしている。苦しさの中で笑顔を作って、私を励まそうとしている。
でも、プツリと何かが途切れたように、晴香は目を見開いた。
途端、その目から大粒の涙が止めどなく溢れ出した。
「私、死にたくない……!」
その言葉は、私の心を突き刺した。
「死にたく、ない。嫌だ……嫌だよぉ。まだ、死にたくないよ。もっと、もっとアリスと一緒に…………やだ、アリス…………私、もっと生きたいよぉ……!」
それは、晴香が吐き出した初めての痛烈な叫びだった。
ずっと奥にしまい込んでいた言葉。
私のために殺してきた感情だ。
「アリス、お願い…………助けて────!!!」
「花園さん!」
唐突に私は晴香から引き剥がされた。
気がつけば氷室さんが飛び込んできいて、私を抱えて強引にその場を離れさせた。
私は咄嗟に手を伸ばしたけれど、もちろんそれが届くわけはなくて。
同じように手を伸ばす晴香とまっすぐ目が合った。
その瞳に溢れ出す涙を溜めて、私に縋り付くように手を伸ばしている。
その目は私に、行かないでと訴えかけていた。
けれど氷室さんに力強く連れられる私には、ただ手を伸ばすことしかできなかった。
「間に合え……!」
「やめて────!!!」
そして入れ替わるように、張り詰めた顔をした夜子さんが晴香に向かって飛び込んだ。
私の叫びは虚しく闇に溶けて、夜子さんは影のように黒々とした剣を飛び込みざまに振りかぶった。
晴香の体が蠢いていた。まるで膨れるように。
内側から何かが飛び出してくるように。
晴香の身体が、肉がゴリゴリと脈動していた。まるで、違う生き物のように。
涙を流し悲痛な表情を浮かべていた晴香は、しかし遠のく私を見て悟ったようにその顔を落ち着けた。
そして夜子さんの剣がその首に向けて振り下ろされようとしているを確かめて、私に向かってニッコリと笑った。
花のようにとても美しく、咲き乱れるような笑顔で。
「ばいばい、アリス」
その笑顔と言葉を最後に、晴香の全身が急激に膨張し、内側から木っ端微塵に爆発した。




