50 死の克服
その姿はとても醜悪で、けれどどうしようもない程に美しくもあった。
人の背中からは生えていてはならないもの。まさしく蝶の羽と呼べるものがそこにはあった。
鮮やかなサファイアブルーの羽。人をすっぽりと包み込めるほどの大きさの羽。
ぼやけた夕日の光と冷たい街灯の光がその透き通るような羽を照らして、より一層その鮮やかさを際立たせていた。
その羽からは、その羽を広げたアゲハさんからは、とても人間のものとは思えない禍々しいものを感じた。
醜悪な怪物のような、人とは相容れない化け物のような邪悪な気配。
その羽が現れたこと以外何も変わっていないはずなのに、その羽を生やしたということだけで全てがひっくり返った。
邪悪で醜く穢らわしさすら覚えるのに、けれどその姿を美しいとも思ってしまう。
それはある種の芸術と呼べるのかもしれない。醜さと美しさは紙一重。二つの相容れない側面を持ち合わせた、究極の何か。
全身の皮がひっくり返ったような勢いで鳥肌が走った。全身のいたるところから冷や汗が吹き出す。
頭では理解できなくても、身体が、心が、本能が、あれを受け入れがたいものだと感じていた。
あってはならない。向き合ってはならない。関わってはならない。
あれはあまりにも醜く邪悪で、そして恐ろしく強力な何かだと。
魔法の知識なんてほとんどない私にだってわかる。
あれはただ単に魔法で羽を生やした、なんて生易しいものではない。
あれはアゲハさんの歴とした身体の一部として、その身体そのものとして彼女の背中から生えているもの。
そしてそれは、本来あってはならない何かを超越したものだ。
果たして、あれを人として呼んで良いものなのか。
「…………!」
即座に氷室さんが私の前に乗り出した。
その表情は凍りついている。いつものポーカーフェイスとはどこか違う、張り詰めた、凍てついた表情。
傍ではカノンさんも、まくらちゃんを背中に回して木刀を構えていた。
カノンさんもまた信じられないものを見る目で、けれど力強くアゲハさんを睨みつけていた。
「ふーん。これを見てもまだ構える元気があるんだー。ま、そのくらいじゃなきゃつまんないけどさ」
強張る私たちを見て面白そうに微笑むアゲハさん。
その仕草はいつも通りの気さくさのようで、けれどどこか禍々しさを感じる。
その笑顔がどこか恐ろしい。
「ま、でも先に言っとくけど、アンタらじゃ敵いっこないよ。だって次元が違うもん」
「……それは、一体何ですか」
既に勝ちを確信している余裕の笑みに対して、私は恐る恐る尋ねた。
正直声をかけることすらもう恐ろしかった。
今までずっと話していたアゲハさんのはずなのに、まるで意思の疎通ができない化け物を前にしているかの様な感覚に襲われている。
「ん? あぁそっか。アリスはまだ知らないのか。うーん、教えてあげても良いんだけど、どーしよっかなー」
腕を組んで首をひねるアゲハさん。
その仕草はいつもと変わらない。変わらないのに、でもとても違和感が渦巻く。
「ま、簡単に言うと、私は既に死を克服してんのさ」
ニヤリと、その笑顔はとても不気味だった。
「『魔女ウィルス』による死はもう克服してるの。もう私は次のステージにいるんだよ」
「それって、どういう……!」
『魔女ウィルス』による死の克服って、そんなことができるっていうの!?
なら全ての魔女は、一つの大きな苦しみと恐怖から逃れることができるっていうこと?
でもそれが本当なら、どうしてその方法が知れ渡っていないんだろう。
「あ、勘違いしてるかもだから一応訂正しておくけど、『魔女ウィルス』で死なないわけじゃないよ。私は一度死んで、それを克服して今がある」
尚更意味がわからなかった。
一度死んだのに、でも今生きているなんて。
なら『魔女ウィルス』がもたらす死は一体何なの?
「アリスはまだ『魔女ウィルス』による死を知らないんでしょ? まぁそれはいずれその時のお楽しみってことで。知らなかった方が良かったと思うよ、きっとね」
楽しそうに笑って、アゲハさんの蝶の羽が羽ばたいた。優雅に黄昏の空へと浮かび上がる。
私たちを少し高いところから見下ろして、にんまりと嫌な笑みを浮かべた。
「ごちゃごちゃうるせぇ! やるのか! やらねぇのか!」
強く木刀を握りしめてカノンさんが吠えた。
その声で私はハッとして、今からあの人と戦わないといけないことを思い出した。
「やるやる。やるって。せっかく遊ぶんだからさ、退屈させないでよね」
アゲハさんのその言葉を合図に、カノンさんは物凄い勢いで跳ねた。
爆発的な跳躍で、空に浮かぶアゲハさんとの距離を一気に詰める。
勢い良く振りかぶった木刀が、そのスピードに乗せられて振り下ろされた。
無防備にふわふわと浮いているアゲハさん目掛けて、容赦なく。
その頭を叩き潰すような勢いで振り下ろされたそれは、けれどアゲハさんには届かなかった。
木刀がアゲハさんの頭に触れる直前、その蝶の羽が大きく羽ばたいて、まるで嵐のような暴風が吹き荒れてカノンさんの身体を吹き飛ばした。
まるで鞠のように軽々と吹き飛ばされたカノンさんは、けれど空中で体勢を立て直すと、まるで空中に見えない足場があるかのように踏ん張った。
そしてその見えない足場を思いっきり蹴って再び特攻をかける。
「直線型ってのは私の趣味に合わないんだよねぇ」
けれどカノンさんがアゲハさんまで到達する前に、カノンさんの周辺が突如として爆発した。
そこには何もなかったはずなのに、まるでそこにガスでも充満していたかのように爆発が起きた。
爆発をまともに受けたカノンさんが、力なく落下した。




