身を以て知る、俺の置かれている物理的状況
朝陽の眩しさで目が覚めた。自発的な目覚めは健康にいいらしく、だるさを伴うことが少ないのだそうだ。昨日の疲れも感じず、良い目覚めだ。
体を起こすと、そこに妹の姿はない。
代わりにやってきたのは、禍々しい雰囲気を一切持たないリリトナの姿だった。
「起きたか、尚李。さて、これはどうしたことか…」
「と、いうと?」
っていうか、何で貴方はうちの学校の制服着てるんだ。
「うむ、起きたらいきなり知らぬ女にこれを渡されてな。こちらが寝起きでまだ虚ろなのをいいことに有無を言わさずな…仕方なく、ひとまずは着てみたのだが」
ひとまずは、って。っていうか、昨日のあの毒々しい雰囲気は影を潜め、制服の影響かものすごくフレッシュな感じに仕上がっている。何だってんだ。
「あ、リリトナちゃんいたー!おぉ、兄さんも起きてるね、おはよー!」
「ああ、おはよう。知佳、何でこいつに制服を?」
素朴な疑問をぶつける。
「え?だって留学生なんでしょ?だったら必要かなと思って私の予備のを貸したんだけど…あ、余計なお世話だったかな?自分でもう持ってたりとか」
ああ、そうだ。口から出任せで昨日そんなこと言った気がする。
「留学生…?というか尚李、先程私をこいつ呼ばわりしたな…?」
「え、あれ?リリトナちゃん日本語ペラペラ…」
「あ、あぁー!睡眠学習でもしたのかな!?さっすが天才だなー!飛び級して俺達の学年に来るのも頷けるなー!」
白々しい。本当に白々しい。馬鹿か俺は。
「えー!そうなんだ、すごーい!リリトナちゃんって天才なんだねー!」
きらきらと目を光らせる妹の将来が本当に心配だ。
「尚李…こいつは何者だ」
そそそ、と俺の傍に寄ってきて知佳と距離を取る。
「ああ、こいつは俺の妹で知佳って言うんだ。よろしくしてやってくれ」
「知佳だよー!これからしばらくの間、宜しくね!分からないことがあったら何でも私に聞いていいからね!」
えっへん、と胸を張る。なぜそれほどまでに自信満々だ?
「ふむ、私に忠誠を誓うというのか…良い心意気だ」
ちょっと違うぞ。
「では、宜しく頼むぞ。私の名はリトリエル・リリトナ。さあ、呼んでみるが良い」
げ、まさかこいつ知佳まで巻き込むつもりか!?
「リトリエル・リリトナちゃんって言うんだ、何か可愛い割に高貴な感じが素敵だね!」
しかしなにもおこらなかった。
「…?あ、ああ。私は何せ…」
「ち、知佳!ベッドありがとな、お陰でよく寝られた気がするよ!」
がば、と飛び降りリリトナが次に発するであろう冥界トークを掻き消す。
「あ、ううんいいよいいよ。それより、着替えて朝ご飯にしよ?」
とてて、と知佳は階段を下りていった。
「じゃあ行くか、リリトナ」
「…!」
げし、と足を蹴られた。痛い。
「呼び捨てとは何事だ。無礼極まりない」
「し、仕方ないだろ?知佳みたいにちゃん付けじゃ呼べないし、いくら俺の命を自由に出来るからってご主人様とかマスターとか…人前じゃ何て思われるか。それに、ちょっとややこしくなってきちゃったから、何とかうまくするまでしばらく俺に合わせてくれないか?」
「…ややこしいのはお前の妹だ。何なんだあやつは…」
まあ、ムダに元気がいいし面倒見が良いという意味ではリリトナ的にはちょっと扱いづらいところがあるのかな。
「その、悪気はないんだ…許してやってくれ」
「そうではない。…まあいい、しばらくは合わせてやる。尚李と共にいられなくなるような状況になるのは嫌だからな」
そう言い残し、とてて、と先に部屋を出ていった。
「何だよ…ずるいぞ今の台詞は」
危うく感情移入してしまう所だった…。
洗面所に行き、昨晩の洗濯物の様子を見る。
うむ、見事な仕事だ。全て乾いている。だが、俺の制服が見当たらない。
「あ、兄さんの制服軽くアイロンかけておいたから大丈夫だよー」
ひょい、と知佳が覗き込んできた。
その手から制服が手渡される。
「おお、サンキューな。助かったわ」
「えへへー、いい仕事しました私!」
すびし、と敬礼する。
「よしよし」
その頭を撫でてやる。良いことをしたら誉めてやるのが、俺の流儀だ。
「へへー…ね、これでもう全部許してくれる?」
「ああ、わかった。罪は償ったな」
がしがし、と頭を撫で繰り回す。
「でもな、押入は片付けろよ」
「のきえろっ!」
「ああん?」
何だ今の。日本語じゃないな?でも、何となくニュアンス的な物は伝わったぞ。
「…扉のこと、母さんに報告しておこうかな…」
「うわー!ごめんなさいちゃんと片付けますぅー!」
だだだ、と駆けていった。
多分、嫌だとか断るとかそんな感じの返答だったんだろうな。俺が知らないと思って…何年兄妹やってると思ってるんだ。
顔を洗って歯を磨き、手渡された制服に着替えリビングに向かう。
その前にリリトナの寝室に行き、ベッドメイクをしてパジャマを洗濯するために回収し、再び洗面所へ向かい、残っていた洗濯物と共に洗濯機を回す。
「尚李、命令だ。助けろ」
リビングに入るなり助けを求めるリリトナに、ちょっと違和感を感じる。
本当に、昨日のアレと同一人物なのだろうか?
「何だよ助けろって、どうかしたのか?」
冷蔵庫に立ち寄ってから、例の元気一万発の栄養ドリンクを取り出す。テーブルに戻りリリトナに渡し、俺は俺の指定席に座る。コーヒーを一口すすり、朝食に取りかかる。
敢えて助け船を出さず、知佳とリリトナの様子を窺う。
「えっと、リリトナちゃんは留学生なんだから一緒に学校行くのー!」
「…なぜ、私がそのようなことを」
かぱ、と栄養ドリンクを開けて飲み干す。何の疑問も持たず飲むのはいいのだが…さっさと元気一万発になって回復して去ってくれという俺の願いは届くのだろうか…。
「だから、留学生でしょー?それに、兄さんも行くし家に一人で残っても退屈だよー?いきなり不登校ってよくないよー」
はっ、と何かに気付いた様子だ。カツンと空瓶をテーブルに置き、こちらを見つめる。
「ふむ…そうだな、尚李から離れるのは私にとっても不都合だからな…」
「?」
「で、でも編入手続きなんてまだ…」
というより、俺の作り話だしな。連れて行った所で居場所が無い。
「ふむ…では、書き換えるとしよう」
「は?」
「多少面倒だが、私と会う人間全てに、私はもともとそこにいたという認識を与えればよいのだろう?」
また大それたことを仰る。
「まあ、そうだね」
「いや根本的に違うだろ」
なぜか納得している妹。
「何、魔力は大きく回復している。そのような細かい作業など造作もないことだ」
ちょっと待て、魔力とか言うな。
「ま、りょく?」
「あ、ああ~、魅力ね、み・りょ・く!なるほどなぁ~!さすがだなあー!」
俺はどこまでもとぼけてみせよう。フォローにも限界があるが…。
「???」
妹は頭に?を浮かべ、状況が飲み込めないでいる。
「ま、まあ。さっさと朝飯済ませて行こうぜ」
「う、うん」
なんとかうやむやには出来たものの、これは本当にリリトナに対して情報統制を敷かないと今後が思いやられる。
よく考えたら、自分で自分の首を絞めてしまったのだろうか?
留学生という設定をまかり通してしまった以上、リリトナを今後しばらくは家に住まわせないといけなくなってしまった。さっさと出ていってくれればと思っていたのに…。
「どうした?尚李。浮かない顔して」
登校中、隣を歩くリリトナに突っ込まれてしまった。
「いや、別に何も…ただ、どうしてこうなってしまったのかっていう後悔と反省をしているんだ」
「ほう?話してみろ。下僕のメンタルケアも必要だからな」
「リリトナ…」
にこ、とこちらに笑いかけてくる。まじか。やめろ。いかにもいい人的なアピールをするな。危うくまた騙される所だったぞ。っていうか原因はリリトナだっつの。
いや、ここはいっそ全てぶちまけてしまった方がいいのだろうか?
「…リリトナ、お前いつまで人間界にいるつもりなんだ?」
いなくなってくれないと俺に安息の日々は訪れそうにないんだが。
「ん?そうだな…魔力がほぼ100%に近付いた段階で、一度扉を探す必要がある。そこでまた魔力を消耗してしまうから、回復を待ちつつ見つけた扉を少しずつ安定に導き、再び魔力が回復した後で尚李を連れて冥界に帰るから…あとどれくらい、という正確な日数は今のところ不明確だ」
意味不明な回答の中で、何をさらっと大事なことを言ってくれますか。
「冥界…って、俺も?」
きょとん、とリリトナはこちらを見つめる。
「何を言っている?当然だろう。そもそも私はそのために、人間界に来たのだからな」
「はあっ!?」
そのため?俺を冥界に連れて行くのが?
「そうか、言ってはいなかったな…まあ、いい。既に契約が果たされた後だからこの際言っておく。尚李の身に降りかかっていた災難は、全て私の術式によるものだったのだぞ?」
だぞ?って何だ。自信満々に言う事じゃない。
「だが、その度に尚李は生き延びてきた。何故かは知らぬがな…だから、私自ら人間界に赴いてやったというわけだ」
すごいな。ここまで上から目線で語れるとは。
「つまり、お前は俺を殺すために…そして、死後の契約をするために人間界に来たと…?」
「そうだな。本来であれば、そうと知らず死んだお前の魂を、天使より早く捕まえる予定だったのだ。だがお前という奴はなかなか死んでくれなかったのでな…どうにかしてお前が欲しかったのだ」
お前が欲しいとか…男らしいセリフ言いやがる。
「やはり、私は天才なのだ。どのような状況でも、欲しい物は手に入れることが出来る…はははははは!」
「はあ、そうですか…」
「だから、尚李がどれだけ願おうとも私と離れることは出来ぬ。諦めろ」
きっ、と表情を変え、こちらを見つめるリリトナ。
「な、何だよ急に…」
「尚李、先程のような問いをしたと言うことは、私に早く冥界に帰れと言いたいのだな?」
げ、ばれてる。
「私は別に良いのだぞ?魔力の回復を待たずとも、運が良ければ道が開き帰ることも可能だ。だがそうなると、主人を無くした下僕はどうなるか…想像出来ぬか?」
「いや、そう言われても…」
第一、契約って言ったってその証になっている物はあの黒い翼で、しかもそれはリリトナの手によって隠されている。だから、俺の実生活には何の影響もないはずだ。
「…納得がいかぬようだな。言わないでおこうと思ったが、はっきり言おう」
「…ぬぁ、何でしょう?」
平静を保って返事をしたはずだが、声が裏返ってしまった。
「お前は私の物だ。もう離れられないぞ。もし離れることがあれば…それは、尚李自身の死を意味する」
だからどうしてそんなに男らしいんですか。
「って、なんで死ぬんだ?」
「当たり前だ、主人の魔力の干渉を受けることが出来なくなってしまえば、徐々に腐っていくのだぞ」
「何が?」
「身体が」
「…」
「…」
は?
「く、腐るって何でだよ!?」
認めたくない。そんなこと、あるはずがない。
「何故って、お前は一度死んでいるからな」
認めない。そんなこと認めないぞ。
「は、ははは。有り得ないって」
「そうか…ならば、試してみるか?」
「ど、どうやって?」
「物理的な距離が離れるだけで、魔力の干渉は弱くなる。ただでさえ、私自身の魔力は回復したとはいえ小さいままだからな、すぐにわかる」
「よ、よしわかった」
とは言うが、ちょっと怖い。
「では、先に歩いていくがいい。私はここで待つ。異変を感じたら、すぐに戻ってくるんだ、いいな」
「あ、ああ」
さっきから俺、返事しかしていないな。あまりにも想像以上の内容に、言い返すだけの思考能力を失っている。
とりあえず、歩いていく。
一歩、二歩、三歩…。
別にどうって事はない。
10m、20m、30m…。
何だ、大丈夫じゃないか。
そう思い次の一歩を踏み出すと、急に疲れてくる。まるで、100m走を思いっきり駆け抜けたような疲れが身体を襲う。
「ちょ…まじか…?」
勘違いだと信じたい。でも、確認しないと余計怖い。
恐る恐る、制服のズボンの裾を捲り上げてみる。
「うげっ…」
肌は青く変色し、まだら模様が足に延びている。触れてみると、熱いんだか冷たいんだかよくわからない感覚。それは俺自身の体温が下がっているのだと気付く。
これは、本当にやばいのかもしれない。裾を降ろし、腰を上げる。立ち上がった瞬間、立ち眩みに襲われバランスが崩れる。そのまま尻餅を付いてしまったが、その瞬間の痛みを何も感じなかった。痛覚も失われている。ただどすん、と骨が響く感覚だけだ。
「全く…これで分かったか?」
「リリトナ…」
俺に手を当て、なにやら喋っている。
すると、俺の身体はさっきまでが嘘のように元通りになった。
「手を掛けさせおって…一度腐化が始まってしまえば、魔力を注がなければ維持できぬのだぞ…。どうだ、これで分かったか?」
「あ、ああ。ありがとう…」
「私だってまだ魔力が完全じゃないと言っていただろう?家を出てから何故か回復したからいいものの…下手をすればお前はここで腐った死体になっていたのだぞ?」
「すみません、もうしません」
酷い話だ。リリトナと別行動できるのは、せいぜい30m…いや、今の感じからするとギリギリだと危ないな。よくて25mといったところか…。小学校のプールの両端までしか、離れることは許されない…?これは、思った以上に遠そうで近いな。常にその範囲での生活になるのか…。
「わかったら、もう二度と私から離れようとするな…いいな」
またも、きっとこちらを強く見つめる。
その目には、うっすらと光る物がある。
「あ、ああ。わかったって…」
「ふん…」
ぷい、とそっぽを向いて先に歩き出すリリトナを追いかけ、俺も歩き出した。