クーリングオフが出来ない
これは夢だ。
俺がいた場所は河川敷で、草だらけだった。
色とりどりの花が咲き乱れる美しい場所じゃない。
そしてこんなに花が咲いているのに蜂の一匹も飛んでいないし、遠くに見える小高い丘には空腹で荒れ狂った熊の一匹もいやしない。
そしてその中心に、どう見ても不謹慎で真っ黒なオーラを放った存在があるわけがない。
「…」
なぜか身動きの取れない俺に、そいつは徐々に近付いてくる。
こいつは危険だ。人としての本能が、そう知らせてくる。
逃げなければ、捕まる。何をされるかわからない。食い殺されるか、八つ裂きにされるか、毒を飲まされるか…とにかく、怖かった。
動くどころか喋る事も出来ない俺の前に、そいつは立った。
「…?」
あまりにも真っ黒なオーラのせいで気付かなかったが、なんて綺麗な目をしているんだろう。吸い込まれそうなほどに鮮やかな赤と黄の瞳の奥に、燃えたぎるような意志の大きさと魂の強さを見て取れる。
合わせた目が、離せない。不思議な感覚だ。
吸い込まれそうどころか、吸い込まれていく。
「うわぁっ!?」
あまりに現実感を欠くその光景に驚いた…。
「…?」
目覚めた場所は先程の河川敷の橋の下、雨の当たらぬ場所にまるで置き去りにされた捨て猫のように、孤独だった。
「何か…誰かに、助けられたのかな」
手足は泥で汚れているし、身体は濡れたままだ。
ふと、背後に気配を感じる。
座ったまま後ろを振り返ると、そこには真っ黒なオーラを纏った、夢で会った人がいた。
「ねーわ…」
いろんな意味で。
「何がだ?」
思うさま俺を見下しながら、俺の言葉の続きを待っている様子だ。
「俺を助けてくれたのは君か?夢でも会った気がする」
「そうだ。死の淵から私の力により救ったのは、私だ」
やっぱりそうか。あの時聞こえた声は、この子のものだったんだ。
「ありがとう、と先に言っておくよ」
「構わぬ。これは契約だからな」
…は?
「忘れたとは言わせぬぞ。桐堂尚李は助けを乞うたな。その代わり、私の下僕となる…その契約と引き換えだ。取り消す事など出来ない」
「えーっと…」
下僕?
契約?
ってか俺の名前知ってる?
「何が何だかさっぱりわかりません」
高圧的な態度に、なぜか気後れして敬語を使ってしまった。
「ふむ、申し遅れたな。私の名はリトリエル・リリトナ。冥界の住人にして、死後の世界ヘルヘイムを支配する次期冥王となる者だ」
…。
予想していなかったというより、こんなの予想できるほど人が出来ていないっつーかそもそも冥界って何っつーか…。
「俺はまだ夢の中にいるって事か…」
「現実だ」
そう言い、俺の手を取る。
…冷たい。
「いくら下僕とは言え、このままにしてはおけぬな…一度帰宅して、着替えるといい」
「あ、まあそうか…」
下僕て…。このまま学校に戻るわけにも行かないな。たかがトイレに行くと言って教室から出てきたのに、あたかも一つの大冒険を達成した後のような恰好では…。
それにしても、拍子抜けだな。
次期冥王とか言うからもっと猟奇的な感じが浮かんだのだけど、意外と俺を気遣ってくれているようで…。
ばたっ!
「えっ?」
後ろを振り返ると、彼女はその場に倒れてしまっていた。
「ちょっ、どうした!?」
「いや、力の回復が追いつかなくてな…何、少し休めばまた回復する…」
倒れたまま表情を変えずそう言った直後、かくん、と意識を失ってしまったようだ。
「まじか…」
さすがに放っておけないので彼女に肩を貸そうと腕を取ると、ざり、という感触があった。
「…これは、泥?」
まさか、俺を助けたってのは物理的に…?私の力により救った、って言うのは何かよくわからない能力とかじゃなくて、力任せに俺を引っ張ったってことなのか…。そうでなければこんなに泥が付くわけがない。
「…何だよ、全く」
ひとまずは家に向かう事にした。だって、こんな大きな荷物を連れて泥だらけじゃ、学校に行ってもどうしようもないじゃないか。
「おっと、いけないいけない…」
無造作に置かれていた制服の上着を取り戻す事に成功した。ってことは、これも回収してくれたってのか…ありがたい。
いろいろと聞きたい事があるのだが、この荷物は動きを止めてまるで死んでいるかのように力が抜けている。って、死んでる人って出会わないから知らないけど。
雨の降り続く中、重たい荷物と水を吸って重くなった衣類を身に纏い我が家へと向かった。
「って、馬鹿か俺は」
なんとかして家に辿り着いたはいいが、鍵は学校に置いてある鞄の中にあることを今思い出した。取りに戻るのも嫌だな…戸締まりは妹にいつも任せてあるため完璧だろう、と言うことで開いてる窓や扉は無いはずだ。
「家に着き 開かぬ扉に 鍵もなく 濡れし身体は ただ衰弱し」
…さあ、どうしよう。
「…なにぶつぶつ言ってるのかしら?気味が悪い」
「ああ、気付いたか…いや、着替えに家まで戻ってきたのはいいんだけど、鍵が無くて入れなくてな…途方に暮れた心が詠み上げた句だ」
「そう、開ければいいのね」
「え?」
「えい」
バッキャァーン!
「何の音だ!?」
「あら…手が滑ったようね」
「何!?」
彼女の指差した先には、玄関のノブ。
「…?」
見ると、なにか煙のようなものがあがっている。
恐る恐るノブに手を掛ける。
「うげっ…」
カラン、音を立ててドアノブは地に落ち、扉はその反動で開いた。
「…何してくれてるんだ」
「入りたかったのでしょう?下僕を助けてやったのだが、礼の一つも言えぬのか?」
ぐっ、確かにそうなのだけど…逆らっても先に進まないか。コレは後で俺が家族に謝るしかないか…。
「ありがとうございます」
「構わぬ。それより早く中へ入らぬか。身体が不快極まりないのでな」
「はいはい…」
ムダと分かっていながら、恐る恐るドアノブを嵌めてみたら意外と嵌った。回転はしないので結局は壊れているのだが…はあ…。
「タオルと着替え、置いておくからなー」
「承知した」
とりあえず彼女を先に風呂に入れさせて、俺は洗面所の外に出て着替える。ばったり風呂場の扉が開いたりして何だってーと言ったような展開は今の俺には必要ない。そんなことより一度着替えて、彼女が出たらその後に入ればそれでいい。
「下僕よー」
風呂場から声が聞こえる。
…俺のことですよね、やっぱり。
「何だー?」
「ここに来たはいいが、ここで何をすればいいのだ?」
はっ?
「いや、普通にシャワー浴びて身体の汚れ落とせば…」
扉越しに答えを提供する。
「しゃわー…?忌々しい雰囲気の単語だな」
「いえ、むしろ今の我々には必要なモノですよ」
「…よく分からぬ」
こちらもあなたの事がよく分かりません。
「はあ…とりあえず、膝の位置くらいにある右側のレバーを上に回して。そうしたらお湯が出るから身体洗って綺麗にして」
「綺麗に…ああ、こういう事か」
ごおおっ!
唐突に大きな音が聞こえる。
「な、何だ!?って、うわぁ!?」
急いで脱衣所に入ると、湯気か煙か分からないもので充満している。
「要は、身を整えればいいのだろう。何故そう言わないのだ」
風呂の扉は風圧で飛び、その先にいた彼女は何とも忌々しい雰囲気の衣服を身に纏い、煙の中から現れた。
「なっ…、何やってくれてんだー!?」
「騒々しいな…少しは落ち着きというものをだな」
「落ち着いていられるかー!」
破壊された扉、吹き飛んだタオルと衣類、辺りに舞う煙。母親が帰ってきたら滅殺される…まあ、帰ってくることはまず考えられないけど。とりあえず散らばったものを片付け(もちろん彼女は手伝おうともしないのだが)、彼女を連れて共にリビングへと向かった。
ちなみに衣服や身体の傷や汚れなどは「魔力変換演算による物理組織の修復及び作成が可能なので問題はない」と聞かされた。俺には分かりません。
「とりあえずここにいてくれ、俺もシャワー浴びてきちまうから」
さすがにこのままでは風邪引いてしまう。
「うむ。すぐに来いよ」
「はいはい…」
あまり一人にするのも不気味なので、さっさと済ませることにした。
とんでもないものと関わっちまった。
そんな後悔も、風呂上がりのこの一言で打ち消されてしまう。
「契約は成立している。尚李を助けた対価として、尚李は私の下僕になるというな」
この契約、という言葉に一つ疑問を投げかけてみる。
「契約…解約や破棄の権利は?」
「ある」
「では、それで」
シャワーを浴びてスッキリサッパリといった感じで、案外あっさりと話が纏まるか?
「その場合尚李は死ぬことになるが、構わぬか?」
「はっ!?」
纏まるどころか一瞬で汗が噴き出た。何言ってるんだ…?脳が理解を拒否している。
「何を驚いておる、当然だ。尚李を生かしているのは、私の魔力に依るものだということを理解しろ。そしてそれを失えば生きる糧、すなわち魔力の一部を失う…それにより維持されている尚李の魂は掻き消え、身体は腐り、死ぬ。それでも契約の破棄を望むのか?」
…。
どっちも嫌だな。
死ぬか。
このままこいつと関わり続けて、下僕として生きるか。
この二択しかない。
「…ちょっと考えさせてくれ」
「ふむ、いいだろう」
学校や時間のことなどとうに忘れていた。そんなことよりも、今自分が置かれている状況と今後のことの答えを出さないといけない。
「うーん…」
色々と思うことはあるが、熟考させてもらおう…。
あ、そうだ。
「契約、って言ったよな。契約の証みたいなものはあるのか?」
契約、と言ったら普通書面のようなものがあるはずで、彼女が言っている「力」によって生かされていると言うのならなにかその証明のようなものがあるはずだ。まあ、無いだろうと踏んでのことだ。
「…あるぞ」
「え?」
あるのか!?藪蛇だったなこりゃ…。
「尚李の体内に流れている血液や構成している細胞全てに、私の力が流れ込んでいる。私が命じればそれら全ての魔力を爆発させ、肉体ごと吹き飛ばすことも可能だ」
ふふふ、と不気味に笑う。
「まじかよ…」
証拠なんて確かめようがないけど、本当なら死ぬな…これは恐れ入った。もう逃げ道なんて無いじゃないか。
「わかった…仕方がないから、従うしかない…」
もう観念した。たとえ下僕だとしても、俺は俺らしく生きていこう。
第一、冥界とかなんとか訳が分からないんだよ。
命を助けて貰ったことは確かなようだし、ないがしろにするのも気が引ける。
「そうか、よかった…」
「え?」
そう呟いた彼女の表情はとても可愛らしく、また美しかった。