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エメラルドの下僕  作者: 瑠愛
第一章
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加速する劣情

「答えないのなら当ててやろう。おまえは私に取って代わりたいと考えているんだろう?こんな小娘などではなく、自分の方が隊長にふさわしいと。そう思ってるんだろう?」


いつもよりも低いロザリーの声に、思わず笑みを浮かべてしまう。ジルダは不思議でならなかった。これほど真っすぐに敵意を向けられながら、それがむしろ潔く清々しいとさえ思える自分が。


「そうですね…。半分正解で、半分間違いとでも言いましょうか」

「どういう意味だ?」


ロザリーは困惑するが、ジルダには本当にそれ以上答えようがなかった。自分自身、よくわからないが。


「そのままの意味ですよ。私は確かに、野心を抱いてこの王都に参りました。生まれ育ったのは北方の小さな町です。大した財のない地方の子爵家の養子で、この腕ひとつでここまで来ただけの男。由緒正しき近衛連隊に配属されただけでも異例の抜擢なのに、これ以上を望むことなど無論身の程知らずのすることです。それでも、望まずにはいられないのです。もっと、大きな何かを手に入れたいと」


思わず吐露した自分の本心を、この女隊長はどう思うのだろうか。卑しい身分でありながら高望みをする俺を、笑い飛ばすだろうか。それとも軽蔑するだろうか。そんなことを考えていたジルダに、返された言葉は意外なものだった。


「野心を抱くのは、悪いことじゃない」


やけに透き通った声だった。そのあまりの透明さに、ハッと顔を上げる。どこまでも澄んだ純朴な瞳が、じっとこちらを見据えていた。


「誰だって望むことだろう。もっと大きな何かを手に入れたい。現状を変えたい。今の自分とは違う自分になりたい。そう思って生きていくことの何が悪い?家柄も身分も関係ない。私はむしろ、強い意志と使命感がある人間こそが上に立つべきだと思っている。だから、おまえが常に私のポストを狙っているというなら、それを止める権利は私にはない。私を馬鹿にしても、それはおまえの方が実力があるのならば、仕方のないことだ」


凛とした表情で言ってのけた彼女の姿に、ジルダは呆気に取られていた。そして同時に、何て真っすぐな、飾らない人間だろうと思った。高貴な貴族の生まれでありながら、決して人を卑下することがない。常に自らの価値観に基づいて発言し、誰かが決めた尺度で物を計ることをしない。何色にも染まらない自由な物の見方は、無邪気なだけでなく聡明さを表している。


ああ…だからこそ、この女に跪くのだと、ジルダは改めて思った。


「で、半分間違いっていうのはどういう意味だ?そのもう半分は何なんだ?」


率直に尋ねるロザリーに、ジルダは苦笑いを浮かべるしかなかった。

どう説明すればいいか、見当がつかないのだ。この複雑で不可解で、ドロドロとした渦巻くような感情を。どんな言葉を選べば伝わるのか。ジルダは無言で首を横に振った。


最初は好奇心だった。初めて剣を合わせた時、彼女によって与えられた鮮烈な感情の高ぶりがいったい何なのか。ただ知りたかった。純真無垢でひた向きな真っすぐさ。美しく高貴で、志の強い眼差し。どこまでも透明なエメラルドの瞳も。何もかもが眩しくこの目に焼き付いた。そして、共に過ごす時間を重ねるたびに、感じた彼女の強さと優しさ。彼女の手によって付けられた頬の傷は綺麗さっぱり消えてなくなってしまったが、未だこの心に刻まれた燃えるような感情は消えることはない。優しく労り、自らの手で血を拭ってくれたあの指先の感触を、忘れることなどできない。あの指先から伝わってきた優しさも温もりも、何もかもがこの心を鷲掴みにして離さない。女ひとりに、しかもこんな小娘に、激しくこの心を揺さぶられたことなど今まで一度もなかった。


だからこそ、許せなかったのだ。自分以外の人間が、彼女を罵倒することが。彼女を傷つけ、怒らせ、泣かせることも。彼女のあらゆる感情が赴く先に、他の人間がいることも。自分以外、許さない。許せなかった。それは、ひどく歪んだ感情だった。

汚したい。奪いたい。傷つけたい。誰にも屈することのないロザリーのプライドを、ずたずたに切り裂きたい。それと同時に、守りたい。甘やかしたい。触れたい。手に入れたい。相反する感情が何重にも渦巻き、この胸を締め付けるようだった。


この感情を何と呼べばいいのか、わからない。説明の仕様がない。恋だの愛だの、そんな美しく生温いものではない。言わばまるで狂気だ。ただ、たまらなく心地がいいのだ。いつも強く凛々しく隙のない女隊長が、こうして自分にだけ見せる安堵の表情も。気の抜けた少女のようなあどけなさも。そして艶めかしい女としての顔も。自分以外には見せてほしくない。だからこそ全身全霊で尽くし、この手でドロドロに甘やかしたくなった。きっと、自分の手には堕ちないだろうから。きっと、望んでも手には入らないだろうから。その歯痒さと背徳感が、こうまで自分を執着させたのかもしれない。


そんな複雑怪奇な感情を、どのように説明できるというのだろう。どうして伝えることなどできるだろう。ジルダは口を閉ざし、代わりに両手に包み込んでいたロザリーの右足の甲に、そっと唇を落とした。


「ひゃっ…!」


いったい何をするのだ!この男は!

慌てて引っ込めようとする足を、なお強い力で捉えようとする大きな手。抗うのさえも許さないというように、ジルダは無言でまた彼女の足に口付けた。


「なっ…何をする!?やめろっ!やめろってば!」


声を上げるロザリーを無視して、その形を確かめるように滑らかに這う唇。やがて指先にまで辿りついたそれは、あろうことか赤い舌を覗かせた。


「もう半分は、見ての通りです」

「はぁっ!?何言って…っ…!」

「申し上げたでしょう?全身全霊でお仕えすると。これが私のもう半分の答えです」

「なっ…答えになど、なってなっ……ひゃあっ…!」


真っ白で細い足の指先を、あろうことか赤い舌が舐め上げる。その奇妙な感触に、ロザリーは思わず仰け反った。親指から小指まで、順に舐め上げるジルダの舌先。こそばゆいのに、なぜだかゾワリと全身が粟立つ。経験したことのない感覚に、ロザリーはただ怯えて耐えるしかなかった。


「バシュレー…!こんなこと、許さないぞっ…!おまえ、上官に対してっ…何てことを……」


息も絶え絶えのロザリーの抵抗など耳に入っていないかのように、ジルダは淡々とロザリーの指先を口に含み、愛撫する。見下ろした彼の表情は、なぜだか恍惚としていて。夢中にも見えるその様子はあまりに淫靡で艶めかしく、ロザリーは思わず目を塞いだ。しかし、ジルダの行動はそんなロザリーの聴覚さえも犯そうとする。ぴちゃぴちゃとわざとらしく音を立てる舌先に、ロザリーは湧きあがる羞恥に耳を塞ぎたくなった。

屈辱も同然だった。弄ばれる足の指先から、全身に広がっていく痺れるような甘い感覚。持っていたはずの氷嚢はいつの間にかその手から零れ落ち、ただでさえ火照った体は燃えるように熱くなっていく。まるで自分が自分じゃなくなるような感覚がした。


「や、めろっ…!お願いだ…やめて…っ…!」

「それは懇願ですか?それとも、命令ですか?」


ジルダは恍惚としていた。次第に女へと変化していく上官の甘い声を聞きながら、ひどい興奮を覚えていた。堅物の上官に、こんな声を出させているのはきっと自分以外にいない。そんな優越感と背徳感に、走り出した劣情が加速する。

しかし、ふと見上げたロザリーの表情に、とっさに我に返った。涙目で懇願するようにこちらを見つめるその顔は、天使のように無垢で幼い。湧きあがる支配欲を必死に抑えながら、居た堪れなさに仕方なく動きを止めた。


「…命令、だっ…」


蚊の鳴くような細い声。小刻みに震える赤い唇を奪ってしまいたい衝動に駆られながら、ジルダはようやくロザリーを解放した。


「命令ならば、仕方ないですね」


諦めてやろうと言わんばかりの物言いだ。上官に対して何てことをしてくれるのかと、一発くらい頬を殴ってやりたかった。それでも、なぜだか体が動かない。この男に植え付けられた甘い感覚から抜けきらずに、ロザリーは未だ硬直したままだった。

そして初めて思った。なんて美しい男なんだろう、と。どんな卑猥な行動でさえ、不思議と美しく思える。この時初めて、ジルダの秀麗な顔を真っすぐにこの目に映した気がした。そして、初めて感じた。ジルダは男で、自分は女であることを。そのあまりに単純で明快な真実が、この胸に重く圧し掛かった。


「ですが、覚えておいてください。野心と共に抱いている、私のもう半分の答え。それはあなたへの絶対的な忠誠心。それだけは、どうか片時も忘れぬように」


威圧的にこちらを見据える灰色の瞳。まるで見下すような傲慢なその眼差しに、いっそ腹立たしささえ覚える。忠誠心だなんて、よく言えたものだと思う。これほどまでに人を小馬鹿にし、冒涜する部下がいるだろうか。


しかし、ロザリーは不思議に感じていた。不気味なまでの執着心を向けられながら、どうしてか突き離せない。嫌悪感すら抱けない。むしろ感じ取っていたのだ。冷めた瞳の奥に秘められた、縋るような熱く滾った感情の揺れを。その無表情の奥に隠された、密かに抱えたジルダの“孤独”を――……


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