疑いの目
近衛連隊の兵舎は、王の居住する宮殿のすぐそばに立っていた。一般の隊とは違って王家を警護する近衛連隊は、家柄の良い貴族の子弟たちに加え国中から寄せ集められた強者たちまで、さまざまだが実力者揃いの精鋭部隊だ。近衛連隊に入隊することは、誰にとっても大変名誉なことだった。
それだけに、騎士たちの“強さ”に対する向上心は高い。皆、誰よりも強くありたい者ばかりで、日頃の訓練だけでは飽き足らず、眠る時間を割いてまで鍛練を重ねる。そんな騎士たちにとって、史上最強だと謳われるジルダの存在は憧れの的だった。
「腕の力だけに頼るな。足を使え!」
兵舎の中庭に、一際激しい檄が響き渡る。その声の主は、まさにそのジルダ・バシュレーのものだった。
訓練前の朝早くから自主的に武術の練習をする騎士たちに、度々ジルダは稽古を付けてやっていた。どこにいても目立つ長身に加え、男でさえ心奪われるほどの美しい容姿。そんな男が剣を降るその姿は、まるで舞踏でも見ているかのように華麗で優美だ。この麗しくも超越した強さを持つ男に、憧れを抱き慕う者は少なくなかった。
「バシュレー副官、お忙しいのにありがとうございました!」
「ぜひまた稽古を付けてください!」
滴る汗を拭い、嬉しそうにジルダの周りを囲う若い騎士たち。ジルダもまた、熱心に教えを請う者たちを邪険にせず、仕事の合間を縫ってまめに相手をしてやっていた。毎日誰よりも早く上官の執務室へ向かい、徹底的にその日の準備をする。隊長の傍らでは副官として完璧に彼女を補佐し、執務も決して怠らない。隊長が仕事をしやすいよう、しかも必要最低限の仕事量で済むように、常に自らが雑務までもを買って出る。そんな姿をそばで見ている騎士たちにとっては、ジルダがいったいいつ休息を取っているのか不思議なほどだった。だからこそ、疑問を抱く者も少なくない。なぜそこまであの女隊長に尽くせるのか。尽くす意味などあるのだろうか、と。
「バシュレー副官。お疲れではありませんか?名ばかりの隊長を持つと、さぞかし大変でしょう」
「これは私の務めだ。大したことはない」
「でも、我々は皆思ってますよ。あなたこそ、この近衛連隊の隊長にふさわしい方だと」
「彼女こそが隊長だ。そのことはすでに、証明済だろう?」
「それは…確かに、そうですけど…。でも、あの時あなたはわざと――……」
一人の騎士がそう口にしたその瞬間、穏やかだったはずの副官の表情が一変した。まるで刺すような鋭い眼差しが向けられ、思わず騎士は口を閉ざす。それ以上言えば、その口を封じるぞ――そう、言われているような気がしたのだ。
あの日。ジルダがロザリーに敗北した日。あれ以来、誰もロザリーに対して反発することがなくなった。無論、それは皆がロザリーの強さを認め、隊長として迎え入れたからだというわけではない。最強の騎士が女ひとりに完敗するなどありえないことだと、誰だってわかっている。しかし、ジルダがわざと負けたとしても、それは彼がロザリーを隊長として受け入れたということを意味する。あの敗北がジルダの意志の表れだとすれば、皆それを受け入れる他ない。その真意がわからずとも、従わざるを得なかったのだ。
それに、そのことをジルダに少しでも意見しようとすれば、こうして威圧的な眼差しで封じ込められる。さらには隊長の背後に常にピタリと張り付き、こちらが異を唱える隙さえ与えてくれない。皆、怯えていたのだ。まるで影のようにあの女隊長のそばに寄りそい、牽制するようにこちらを見据える冷めた瞳に。その様はまるで彼女を神の如く崇拝しているように思えるが、同時に背後で支配しているかのようにも思えた。どちらにしても、奇妙で不可解で、そしてどこかもの恐ろしい。皆が恐れているのは、むしろ副官の静かで威圧的なあの眼差しだったのだ。
しかし、そんな行動に至る真意を未だわからずにいたのは、むしろジルダ本人だった。
「お疲れのようですね、隊長」
夕暮れ時の執務室のソファにぐったりと倒れ込んだロザリー。隊長に就任して数週間は毎日、王族や軍の幹部への挨拶回りに堅苦しい会議のオンパレードで、もううんざりだった。さらしを胸にきつく巻き付けた上から着用した軍服は、さすがに夕方にもなれば苦しくなる。おまけに連日、平年以上の暑さが続いているのだ。
喉もカラカラになったロザリーに、絶妙なタイミングでジルダは冷えたハーブティーを差し出した。
全く、この男は。どうしてこうも完璧に私の考えていることがわかるのだろう。これじゃあ小言も言えない。
ロザリーは文句を付けることもできず、仕方なく礼を言う。どこか不貞腐れたように唇を尖らす上官の心の内が手に取るようにわかり、ジルダは可笑しくて仕方なかった。
「今日は少し気温が高いようです。こまめに水分補給をしなければ、倒れてしまいますよ?」
そう言って、ソファに腰掛けるロザリーの前に膝を付いたジルダ。その手には氷嚢が握られていた。
「まるで子供扱いだな」
「あなたの身を案じているだけですよ。さぁ」
ジルダはまるで子供にするように、ロザリーの額に氷嚢を押し当てる。ひんやりと冷たくて心地良い。頬を緩めるロザリーの表情は、どこか緊張の糸が解けたように安心感に満ちていた。
「しばしの間お休みください。私はその間、あれを終わらせます」
そう言って指さす先には、机の上に山積みになった書類がある。もうすぐ行われる大規模な軍の合同訓練についての資料だ。しかし、それは私の仕事だと言わんばかりに起き上がろうとする上官を、ジルダは制するように首を横に振った。
「隊長が手をかけるほどの仕事ではありません。いくつかの案をまとめておきますから、明日にでも目を通して頂ければいいのです。所詮は民衆に向けたパフォーマンスです。大したものではない」
「だとしても、おまえはいつもそうやって私の仕事を取りあげる」
「そのぶん休息を取れるでしょう?私と違って隊長は常に気を張ってますからね」
ジルダは立て膝を付き、慣れた手つきでロザリーのブーツの紐を解き始める。か細い足を締め付けていた窮屈さが途端に取り払われ、ロザリーは息を深く吐いた。
「少しの間です。目を閉じてお休みください。私以外は誰も見ていないのですから」
穏やかな声に、ロザリーはされるがままで素直に目を閉じた。
こんな風に甲斐甲斐しく身の回りの世話までするなんて、まるで使用人のようだ。副官の仕事じゃない。最初はそう思っていた。こんなの、誰が見ても異様な光景だと思う。でも、抵抗するといつも穏やかな声で言われた。「誰も見ていないから」と。一旦気を許すと、まるでこれが当たり前のようになってしまった。
ブーツを解き、露わになった素足を両手でそっと持ち上げて、思いのほか筋肉質なふくらはぎを丁寧に揉みほぐしていく。ジルダはこうして日課のように、ほぼ毎日ロザリーの疲れた足を労っていた。
何でここまでするんだろう…。
最初は抵抗していたロザリーも、いつの間にか素直にされるがままになっていた。しかし、過剰なほどに自分に尽くす部下の行動の真意がわからない。問い詰めようとするのに、いつも心地よいジルダの手の温もりにいつの間にか流されてしまうのだ。
そうしていつもの如く心地よさに目を閉じたロザリー。ジルダは、まだ被ったままだった帽子を彼女の頭から取りはらった。その瞬間、ハラリと広がる長いブロンドの髪。隠されていた女性らしさが途端に現れ、その神々しいまでの美しさに目が眩み、ジルダは思わず息を飲む。そんなジルダの様子を見透かしたかのように、ロザリーは目を閉じたまま言った。
「おまえは何がしたいんだ?バシュレー副官」
冷めた上官の声に、ハッと手を止める。見上げれば、透き通ったエメラルドがこちらを静かに見据えていた。
「こうまで懸命に私に尽くすのはどうしてだ?まさか心から私に忠誠を誓っているわけでもないだろう?おまえの魂胆は何なんだ?」
抗うように向けられた好戦的な眼差しに、思わず苦笑する。どれほど手を尽くしても、決して心を許すことはない。口説いても堕ちない女はいなかったが、今までの手練手管で何とかなる女ではないのだ。むしろそんな女たちと同等に考えることなど、愚かだとさえ思える。それほどまでに、気高く高貴な高嶺の花。だからこそ、こうまで真摯に仕えるのだ。簡単に手折ることができる女なら、容易く膝を折ることなどしなかった。