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エメラルドの下僕  作者: 瑠愛
第一章
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傷跡に触れた指先

最初に聞かされた時は、驚いたというよりは怒りにはらわたが煮えくり返った。苦労して手に入れた副官という役職。しかしまさか、自分の上官が年下の女だなどと、全く想像もしていなかった。


やはりこの国は貴族社会だ。家柄がものを言う。大した経験もない小娘が、将軍の娘というだけで簡単に責任ある任務を任せられる。平和ボケしたこの国の常識に、心底嫌悪感を抱いた。

伯爵家のご令嬢が、いったい何を血迷って騎士になどなったのだろう。ただの気まぐれか。それとも暇つぶしのつもりか。まぁ、いい。お飾りの上官などさっさと追い出し、この俺が隊長の地位を手に入れればいいことだ。

ジルダは野心に塗れた笑みを浮かべながら、華やかな宮殿へと続く道を馬で駆けていた。


ジルダが広場に到着した時、すでに騒ぎは起きていた。何が起きているのかと、1か所に集まる騎士たちの間を縫うように進む。そんなジルダの目に飛び込んできたのは、一人の騎士に剣を向けられる軍服の少女の姿だった。まさか、これが新しい隊長であり、自分の上官なのか?その華奢な体つきと幼さの残る顔立ちに、ジルダは呆気に取られた。

こんな小娘の子守りをこの俺にさせるとは、随分となめられたものだな。

苦笑いを浮かべながら、ジルダは二人の様子を注視する。どうやら早速反乱が起きているようだと、察しのいいジルダは状況をすぐに飲み込んだ。お飾りの女隊長は、この場をどう切り抜けるだろう。尻尾を巻いて逃げるのか、それとも父親である将軍に泣きつくのか。どちらだろうかと考えていたジルダだが、予想外にも女隊長は、剣を引きぬき男と対峙した。


「本気で戦う気なのか?」


思わずそう呟いていた。相手は不運にも、彼女よりもひと回り以上体格の大きな男だというのに。気が強いのか、ただの向う見ずな愚か者か。ジルダは馬鹿正直な女隊長の選択を、憐れにさえ思った。


振りかざされた男の剣を素早く避け、体勢を整える。その僅かな動作に、しかし、ジルダは少し驚いた。意外にも筋はいい。女だと甘く見ていたが、そこそこの実力はあるようだ。でも、やはり所詮は女。力の差は歴然だ。きっとこの勝負には勝てない。そこまで考えて、ジルダは彼女をじっと見つめた。


まるで宝石のように純真な輝きを放つ、エメラルドグリーンの瞳。その眼差しに滲み出る気の強さに、どうしてか興味を引かれた。最初から逃げ出す気など全くないんだろう。凛としたその表情から、プライドの高さが読み取れる。だが、あの男の剣を受け、やはり気付いたようだ。女の自分には倒すことができない相手だと。力強い瞳の奥が、途端に陰りを見せ始める。不安と恐怖が彼女の表情を曇らせる。手に取るようにわかる彼女の心情の変化に、何かが自分の中で弾けた。自分でもわけのわからない間にジルダの体は動いていた。無意識だった。気が付けば、彼女のか細い腕を掴んでいたのだ。


「私が代わりにあなたのお相手を務めましょう。ディノワール隊長」


とっさにそんなことを口走っていた。自分でもよくわからなかった。いったい何がしたいのか。ただ、興味を引かれた。それだけだった。そうだ。ほんの興味本位なんだ。伯爵家のご令嬢がなぜ軍人になどなったのか。この場所は世間知らずのお姫様の来る場所じゃないと、思い知らせてやりたかった。この際だから、皆の前で恥をかかせてやればいい。敗北の屈辱感を味わわせてやればいい。そうして皆の前で認めさせるのだ。この俺こそが、隊長にふさわしいんだと。これはチャンスなんだと、そう思っていた――あの時までは。


それがどうして、この女の手を取り忠誠のキスをしているのか。想像もしなかったこの結末に、自分でもわけがわからなかった。




「おまえ!いったいどういうつもりだ!」


執務室の扉が閉まるやいなや、物凄い剣幕でジルダの襟元を掴んだロザリー。その衝撃でジルダは背後の扉に背中を打ちつけられ、痛みにわざとらしく目を細めた。


「随分と乱暴ですね。いったいどうされたっていうんです?」

「とぼけるな!私を馬鹿にしてるのか!?」

「とりあえず離していただけませんか?この体勢、まるで迫られてるみたいに思えるじゃないですか」


いつの間にかジルダの体を扉に押し付け、密着していたことにロザリーはカアッと顔を赤く染めた。

ジルダはからかうようにニヤリと唇の端を釣り上げながら、穏やかな物言いでロザリーを見つめる。

この男、どこまでふざけるつもりだ?ジルダの言動がいちいち癪に障るロザリーは、慌てて手を離しながらも苛立ちを抑えきれなかった。


「どうしてわざと私に負けたんだ?」


怒りを孕んだ低い声で問うロザリーに、ジルダは困ったように息を落とした。


「何だ、わかってたんですね」

「当たり前だろう。いったいどういうつもりで私に負けたんだ?おまえも私が気に入らないはずだろう?だったらどうしてあの時、私に勝とうとしなかったんだ?」

「では隊長は、私に負けて恥をかいても良かったのですか?」

「それはっ……」

「部下である私に負けて、皆の前で屈辱を味わいたかったと?」

「……私はただ、ずるいことが嫌いなんだ。あんなふうにわざと勝利を譲られるような、ずるい人間になりたくなかっただけだ」


なんとまぁ、馬鹿正直なお姫様だろう。ジルダは半ば呆れながらも、その純粋さに素直に感服した。

プイと顔を背けて、執務室の棚をガサガサと漁り始めたロザリー。そして小さな木の箱を見つけ、ジルダに歩み寄った。


「そこに座れ」

「……は?」

「いいから早く座れ」


わけもわからずに命じられ、ジルダは戸惑いながらも長椅子に腰かける。そんなジルダの隣にちょこんと腰を下ろして、ロザリーは白い手をそっとジルダの頬に伸ばした。


「傷跡…残ってしまうかな?」


申し訳なさそうにそう言って、アルコールを含んだ布をジルダの頬に押し当てる。ロザリーは無言で、ジルダの頬を染める血を丁寧に拭き取った。


一瞬、何が起こったのかわからなかった。己の剣で傷つけたはずの頬を、優しくその手で労るロザリー。ジルダはその指先の滑らかな感触に、なぜだかゾワリと全身が粟立った。


心配…してるのか?こんな小さな傷を?


予想外の行動に、頬が一瞬にして燃えるように熱くなる。ジルダはたまらず、ロザリーの手を振り払った。


「こら、逃げるな!沁みるのはわかるけど、我慢しろ!」


いや、そういうわけじゃないのだが…。

あっけに取られたジルダの頬に、なおも手を伸ばすロザリー。軍服に身を包んだ上官の姿が、ただの一人の女に見えてしまった自分をジルダは心の中で密かに叱咤した。


あんなに憎らしく思ったはずだったのに。隊長の座から引きずり降ろしてやろうとさえ思ったのに。なぜ、こうして触れられただけで鼓動が速くなるのか。絆されてしまったのだろうか。だとすれば俺は何という単純な男なのだろう。魅力的な女なんていくらでも抱いてきた。性の捌け口としてしか考えてなかった。それなのにどうして、ましてこんな年下の小娘に振り回されているのか。自分で自分がわからない。


ジルダは変な気分になりながらも、ここで拒むのもおかしいと思い、大人しくされるがままにロザリーの手当てを受ける。すぐ目前に迫る少女の瞳は、間近で見れば見るほどに吸い込まれそうな透明感があり、まるで金縛りにあったように身動きできなかった。


「きっと一生、痕が残るでしょうね」

「えっ!?ほ、本当に…?」

「責任取ってもらえますか?」

「はぁ!?どういう意味だよ!」


また頬を膨らませて怒るその表情は、やはり幼くあどけない。キュッと唇を結んだ凛々しい表情よりも、きっとこっちの方が彼女らしいのだろう。どこか子供っぽい上官の様子に、ジルダは可笑しくなって頬を緩める。そして、呟くように静かに言った。


「わざと負けたことは嘘ではありません。でも、この顔に傷を付けたのは、隊長、あなただけです。きっと後にも先にも、あなた一人ですよ」


思わぬジルダの告白に、ロザリーは目を丸くした。あんなのただの偶然だと、ロザリーはブンブン首を横に振ったが。ジルダにとっては、どんな形であれ初めてのことだった。誰にも負けたことのない不死身の男が、迂闊にも隙を突かれたのだ。初めてあんなふうに、激しく感情を揺さぶられた。そんな自分に戸惑いながら、しかし、ジルダは一つだけわかったことがある。


頬に触れる柔らかな指先は、確かに優しく温かいということを。


きっと、生まれて初めて触れた。こんなにも慈愛に満ちた、誰かの手の温もりに。


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