予想もしない結末
この男は、いったい誰だ――……
自分を見下ろす灰色の瞳に、ロザリーは声を出すことさえ忘れてしまっていた。漆黒の髪の間から覗くその眼差しはどこか人間らしさを失ったような冷たさを孕み、なぜだか勝手に身震いした。
まるで作り物のように整った端正な顔立ちだ。存在感のある目鼻立ちに、長い手足。ロザリーよりも頭ひとつ以上抜きんでた高身長に、恵まれた体格。こんなにも完璧に美しい男は初めて見た。そして同時に、こんなにも表情のない男を見たのも、初めてのことだった。
バランスの取れた美貌は、それゆえにどこか涼しげで人間味がなく、少しの感情の揺れさえも感じさせない。そう、まるで血の通わない蝋人形のように。死んだような目をしている。ロザリーはこの男に目が放せなくなるのを感じながら、そう思った。
「ま、まさか…ジルダ・バシュレーじゃないか!?」
茫然とするロザリーが我に返ったのは、周りに集まって来ていた騎士の誰かがそんな声を上げた瞬間だった。
ジルダ・バシュレー…?どこかで聞いたような名前だな。
ロザリーは、そう思った瞬間にハッとした。見上げたその男は涼しげな顔で、ロザリーに薄い笑みを向けていた。
「申し遅れました、隊長。本日より副官として、あなたの下で任務に当たらせていただく、ジルダ・バシュレーと申します」
「……おまえが、ジルダ・バシュレー!?」
アーロンが言っていた新任の副官とは、この男のことだったのか。そして、伝説とまで言われた豪腕で名高いこの国の英雄…。まさか、この男が…!?
「隊長、どうぞこの私と手合わせを。この私と戦い、勝てば、皆も文句なく認めるでしょう。あなたこそが我々の上に立つべき人間だと」
そう言って浮かべた笑みの黒さに、ロザリーは戦慄した。表向きは穏やかな物言いでありながら、冷めたその目は明らかに自分を見下している。無表情の裏に隠した不気味なまでの自信と余裕。なんと傲慢な男だろうと思った。
「さぁ、どうします?ディノワール隊長」
挑発するように問いかけられ、ロザリーはキュッと唇を噛みしめた。
確かに、最強の称号を持つこの男に勝てば、無条件に私の力が証明される。誰もが認めざるを得ないだろう。私こそが隊長にふさわしい人物だと。
でも、無敵の剣豪に勝つことなど、不可能に近い。簡単に負ければそれこそ恥さらしだ。そして断れば、さらに私は皆の笑い物になることだろう…。もしかして、それこそがこの男の魂胆なのだろうか。だとすれば逃げ出すことなんてできない。たとえ負けるとわかっていても、この勝負を投げ出すなんてできるわけがない。絶対に…!
ロザリーはもう一度剣を握り直し、ジルダに対峙した。
「どうするも何も、私は逃げも隠れもしない。いつだって受けて立つ」
はっきりとそう宣言し、剣を構えたロザリー。周りにいた男たちは皆、「敵うわけがない」と口々に嘲笑う。そんな外野の野次などものともせず、ジルダは冷静な様子で剣を抜いた。
その長身に合わせた、使い込まれた立派な長剣。その刃が日に照され、ギラリと不気味に輝いている。恐怖に慄くことなど通り越し、この場に立つロザリーを支えていたのは自らのプライドだけだった。
凝り固まった世間の常識や不条理さに疑問を抱き、怒り、憤り、傷つき、そして戦ってきた。そのために死に物狂いで努力を重ねてきた。そのプライドだけは、誰にも負けない。屈することはない。そんな思いがロザリーを突き動かしていた。
そして同時に、ジルダも感じ取っていた。誰に屈することも媚びることもしない、真っすぐなロザリーの強さを。彼女がここまで頑なになるのは、いったいなぜなのか。その意志の強いエメラルドグリーンの瞳に、ジルダは自分と共通する何かを感じ取らずにはいられなかった。もしかしたらロザリーも自分と同じように、見えない何かと必死に戦ってきたのではないか…と。
声を上げ、こちらに向かってくるロザリーの気迫に、無表情だったはずの男のポーカーフェイスが一瞬崩れた。容赦なく喉元へと突きつけられた剣をとっさにかわすが、わずかに刃の先がジルダの頬を掠った。
「あっ…!」
野次馬たちの驚きを隠せない声に、ジルダ自身も戸惑いを隠せなかった。頬を拭った手の甲に、赤い血が滲む。
まさかこの俺が、避けきれなかったのか…?
わずかに動揺した自分に呆れ、笑みが零れる。ジルダは再び向かってきたロザリーの剣に立ち合いながら、奇妙な感情が自分の中に芽生えていくのを感じていた。
確かに筋はいい。動きも俊敏で動作に無駄がない。そこらの男よりもはるかに実力はあるだろう。しかし、所詮は伯爵家のお姫様だ。正攻法しか知らない。実戦経験の乏しさは明らかだ。憐れだが、本物の戦を知る傭兵や騎士たちを相手にすればひとたまりもないだろう。
…さぁ、どこでケリをつけようか。ジルダは剣を合わせながら、落とし所を考えていたが。それと同時に不思議に思った。息を乱しながらも、必死に食らいついてくる少女。いったい何がそんなにこの小娘を突き動かしているのか。どうしてここまで必死なんだ?どうしてそうまでしてこの場所にしがみ付く?いったい何を手に入れたいんだ?きっとどちらかが倒れるまで、諦めはしないのだろう。何度も向かってくるんだろう。変な女だと思いながら、ジルダはハッとした。
「……負けたく、ない」
突然赤い唇から零れた、か細く掠れた声。そして、わずかに潤んで揺れるエメラルドの瞳。
気の強い眼差しに全く相反する少女の脆さが入り混じる、その複雑な表情にジルダは目が離せなくなった。
美しく、気高く、そして高貴で。直視さえできないほどのロザリーの純真無垢な眩さに、ジルダはまるで魂を奪われたような感覚に囚われていた。不思議な感覚だった。そして知りたいと思った。この時、彼女によって植え付けられた鮮烈なこの感覚の正体が、一体何なのか。
激しく感情を揺さぶられたジルダの隙は、ほんの一瞬のこと。しかし、ロザリーはそれを見逃さなかった。ふいに襲ってきた刃に剣を叩き落され、バランスを崩したジルダ。ここぞとばかりにロザリーはジルダの胸元へ剣を突きつけ、とうとうジルダは地面に尻もちを付いた。勝負は、その一瞬で決まった。
「嘘だろ?まさか剣豪ジルダ・バシュレーが、負けた…!?」
この場にいた誰もが、予想もしない結末に言葉を失っていた。信じられないと、誰もが目を見開いていた。それはロザリーも同じだった。
しかし、ジルダだけはこの結果を静かに受け入れ、そして参ったと言わんばかりに苦笑した。
「お見事でした、隊長。やはり近衛連隊の隊長には、あなたがふさわしい」
そう言って身を起こし、ロザリーの前に片膝を付いたジルダ。そっとロザリーの手を取り、その甲に口付けた。まるで主君への忠誠を誓うかのように。
そんな様子を目の当たりにしていた騎士たちは、もうこれ以上ロザリーに文句など言えなかった。確かに、この小娘が勝ったのだ。その強さを見事なまでに証明してみせたのだ。嫌でも認めざるを得ない。
驚きのあまりに固まってしまったロザリーを、彼女の前に膝を付くジルダがそっと見上げる。その顔を見た瞬間、ロザリーはカッと頬を熱くした。恥ずかしさではなく、それは怒りからだった。
「全身全霊でお仕えいたします、隊長」
傍から見れば主君に陶酔しきったような言動だが、ロザリーにはわかった。この男は、私が隊長にふさわしいなどとつゆも思っていない。膝を折りながらも、心の中では決して屈していない。ロザリーだけは気付いていた。この男の胡散臭い笑みの裏に潜む、黒い感情の存在に。
これこそが、二人の複雑で危険な主従関係の始まりだった。