軍服を脱いだ女隊長
「まぁ、ロザリー様。なんてお似合いなのでしょうか」
煌びやかなドレスに包まれた主人の姿を、鏡越しに見た使用人のリリーは思わず感嘆の声を上げた。普段は軍服姿のロザリーが、今は見目麗しい貴婦人の姿をしている。裾がふんわりと広がるプリンセスラインの淡い水色のドレスに、胸元を飾る大粒のダイヤモンド。そして、足元にはクリスタルをあしらった靴。身に纏う全てのものが、透明感ある彼女の美しさをより一層際立てていた。
城の使用人たちは皆、彼女の変貌に目を見張った。元々美しい顔立ちをしているのはわかってはいたのだが、手をかけて着飾ってみればこれほどまでか、と。しかし、これが跳ねっ返りの変わり者だということが実に嘆かわしい。黙っていてくれれば、世の男など皆、彼女の美しさにひれ伏すだろうに。
「リリー、ウエスト周りが苦しいぞ。どうにかならないのか?」
「我慢してくださいまし。しっかり締めつけることで、体のラインの美しさが保たれるのですから」
当の本人は困ったことに、朝からずっと仏頂面だ。コルセットで締めつけられるせいで、あまりの苦しさに吐き気がする。やはり今夜は断ろうか――そんな考えなどお見通しだというように、執事のハリスがそばに寄ってきた。
「さぁ、ロザリー様。馬車の用意が出来ております。お急ぎを」
「……わかったよ」
しぶしぶ乗り込んだ馬車の中では、「もっとにこやかに」とか、「足を開くな」とか。ハリスから散々注意を受けたロザリーは、エミール家の城に到着する前にすでに疲れ果ててしまっていた。
ちょうどその頃、エミール家ではすでに多くの客が大広間に集まり、賑わいを見せていた。侯爵家ではこのような仰々しい舞踏会が頻繁に行われている。王都に集う貴族たちの結束を強くしたり、若き子息たちのお披露目の場でもあるのだが、一方でドレスの仕立て屋たちがこの場に入ることを許され、貴族たちへ彼らの商品を宣伝する商いの場でもあった。それも、エミール家の親類が治める地方領地で、織物産業が一大産業として発展しているという裏事情があった故である。
イリオスは次期当主として、自分の城での社交の場にはかかさず顔を見せるのだが、今夜は少し緊張していた。今までとは訳が違う。明確な目的があるのだから。
「珍しいことですな。あなた様がこれほどに緊張されているのは」
からかうような口調で言うシオンに、イリオスは苦笑した。自分でもそう思う。周りからは鋼の心臓を持っていると言われるほどに、どんな場でも動じることがなかったのに。どうしたものだろうか。今夜、自ら招待した目当ての女性が、本当に現れてくれるのかと未だ半信半疑なのだ。しかし、来てもらわなくては困る。イリオスは一日でも早く、彼女に結婚の約束を取り付けたいと思っていたのだ。
「私はよく誤解されるようだが、本当のところ、女性関係にはひどく疎いのだよ」
「言い寄って来られる女性が多過ぎるのも困りものですね」
シオンは他愛ない世間話をしながら笑うが、その仮面の下に見える鋭い目は、人で溢れる大広間の隅から隅までを忙しなく見渡している。不審者の存在を常に警戒しているのだ。イリオスはそんな彼を観察しながら、困ったようにため息を吐いた。
真実を知ってから、当然ながらシオンをただの家令として見ることができなくなった。最初はそれでも半信半疑だったが、よく見ていると、やはり一つ一つの動きに彼の人間離れした能力が見て取れるのだ。少しでも危険や不穏な動きが見受けられれば、彼の眼光が一気に鋭くなる。もしかしたら、他人から疎まれることの多い地位にいる自分が、今まで何なく生きてこられたのは彼のおかげだったのかもしれない。そんなことまで思うようになっていた。
「イリオス様、私を恐れておいでですか?」
無論、そんなイリオスの視線を感じ取れないシオンではない。突然明かされた真実に戸惑うのは当たり前のことだ。新しい主に、少し距離を取って尋ねた。
「恐ろしいと思っておられるのでしょう?」
「いや、そうではないが…」
「イリオス様の戸惑いは承知しております」
「恐れているわけではないのだが、ただ…まだ正直想像がつかないのだ。数年前、世を騒がせた<黒薔薇>の正体が、おまえだったとは」
その暗殺者は、言わば死神だった。噂が本当だとすれば、常人離れした能力を持っている。殺し損ねた者はいない。どんな場でも確実に仕事をやり遂げる。その仕事ぶりはまるで神の領域だ。
隣にいるこの男が、まさかそのような人物だったとは…。
「おまえは私を青いと思うかもしれないが、未だに信じられないんだ。それほどまでに多くの人間を…おまえが、その手で……」
「イリオス様のおっしゃることは理解しております。ただ…現実には、黒薔薇が全て私だというわけではありません」
「……それは、どういう意味だ?」
「私は現在、家令としての仕事の他、エミール家の私設部隊の騎士の育成を担っております。しかし、それ以外に私にはもう一つ、重要な役割があるのです」
「重要な役割…?」
「ええ。それは、私自身の後継者の育成でございます」
シオンの言葉に、イリオスは目を丸くした。シオン自身の後継者…。それは、暗殺者の後継者という意味に他ならない。この男が、また新たな死神を生み出そうとしているというのだろうか。
「私とて、人間です。この肉体が朽ち果てる前、あなた様に新たにお仕えする者を残しておかなければなりません。ですから、秘密裏に数名の候補者を育成しております。その中で最も後継者に相応しい者に、数年前の任務の大半を任せておりました」
「それは…おまえの他にも暗殺者がいるということなのか」
「はい。それゆえ、黒薔薇は全て私だというわけではないと、申し上げたのです」
「では、もうおまえは後継者を?」
「……いえ。その者は今はもうおりません。死んだのです。今のところ、私の後継者は数名の候補者に絞っている段階です。しかし心配要りません。私の体が動かなくなる前に、必ずやあなた様にお仕えする忠実な戦士を育てますゆえ」
誇らしげにさえ聞こえたシオンの言葉に、イリオスは苦虫を噛みつぶしたように顔を歪めた。
この男の言葉の意味は、ちゃんと分かる。このエミール家がそうやって、忠実な暗殺者を側に置いてこの国の危険な芽を摘んできたのだろう。しかし、それは“戦士”などではない。“死神”だ。そう思わずにはいられない自分は、まだ青いのだろうか。……いや、自らの手を汚すことなく、その命令を出す当主もまた、死神に他ならない。いつか私も、そうなるのだろう――それを思うと、イリオスは居たたまれなくなった。
「イリオス様、どうかそのようなお暗い顔をなされぬように」
そんなシオンの言葉にハッとした。これから未来の妻にと考えている女性に会うというのに、こんな気分ではいけない。
「そうだな。悪かった、シオン」
「イリオス様。どうかいつもの微笑みを」
「……ああ」
今夜だけは、明るい気分でいなければならない。ロザリーに婚約を申し込むのだ。辛気臭い男だとは思われたくない。
イリオスは努めて笑顔で振舞おうとした。しかし、どうしても拭えなかった。この胸に渦巻く不安と恐怖が。
間違ってはいないのだ。これは勇敢なエミール家の当主たちが、ずっと受け継いできた使命なのだから。こういう方法を以て、国の平和は保たれてきた。だから、正しいことなのだ――イリオスは必死に、自分で自分を納得させた。
「イリオス様。ロザリー様がいらっしゃいました」
使用人がそう言って、イリオスを大広間へ促す。彼の胸の中はまるで今夜の朧月のように、未だ薄い雲に覆われていた。




