伝説の騎士、王都へ
春を迎えた王都は、次々と芽吹く花や木々の生命力に満ち溢れていた。日中は日差しが強いと汗ばむほどだが、夕暮れ時になれば心地いい風が吹く。朝は小鳥の囀りと柔らかな日の光を感じながら、1日の始まりを迎える。何と過ごしやすい場所なのだろうと、北方の厳しい気候の地方に故郷を持つ男は、頬を撫でる風の優しさに目を細めた。
「ん…もう、朝なの?」
窓際の椅子に腰かけ葉巻を咥えた男に、シーツに包まれた女はベッドの上から甘い声で問いかけた。寝返りを打てばギシリと音を立てる宿の安物のベッドには、昨夜の情事の跡を物語るように二人分の衣服が散乱している。女は目を擦りながら、朝日に照らされた男の肉体美に改めて目を見張った。
なんて美しい男だろう。こんなにいい男、初めてだ。
昨夜、通い慣れた城下町の酒場で声をかけられ、軽い気持ちで一夜を共にした。どこの誰かも、名前も知らない。ほんの遊びのつもりだったし、朝まで一緒に過ごす気なんてなかったのに。我も忘れるほどに激しく抱かれて、頭が真っ白になるくらい何度も絶頂に昇らされた。気が狂うほどに甘く責め続けられて、声が枯れるほど啼かされた。思い出すだけでお腹の奥の方が甘く疼く。
こんな極上にいい男、おそらくこの先出会うこともないだろう。甘く端正な顔立ちに、鍛え抜かれた肉体。身なりも小奇麗で、立ち居振る舞いも気品がある。どこかの貴族様なんだろうか。女の悦ばせ方も申し分ない。一夜限りの関係としてこのまま別れてしまうには、あまりに惜しい。
「ねぇ、それ美味しい?あたしにも吸わせてよ」
寝そべったまま言った女に、男は無言で歩み寄った。そして、ぽってりとした唇に自分が咥えていた葉巻を咥えさせる。しかし女は望んだはずのそれを拒み、代わりに男の手を引いた。
「やっぱりこっちがいいわ。こっちの方が、ずっと美味しい」
まるで獲物をしとめるかのように、女は不意打ちで男の唇を奪う。だがそんなことに動じる様子もなく、男はその誘惑に答えるように女の舌を絡め取った。強引な舌に弄ばれ、次第に吐息が熱くなる。だが、そんな女の様子とは対照的に、男の舌先は冷めたままだ。それが余計に女を焦らせた。
「あなたの名前を教えて?」
「名前…?」
「そう、名前。あなた、貴族でしょう?そんな高貴な身分の人間が、どうしてあんな安っぽい酒場に出入りしてるの?この辺では見ない顔だし、王都の人間じゃないわね?」
たたみ掛けるように問う女に、男は呆れたように鼻で笑った。
これだから女は面倒だ。黙って体を開いていればいいものを、なぜこうもあれこれと詮索したがるのだろう。
「高貴な身分、か。本気でそう見えるのか?」
「誤魔化したってダメよ?あたしにはわかるんだから」
「そんなに知りたければ、俺を悦ばせてみるんだな」
冷酷にそう言い放ち、男は軽々と女の体を持ち上げて体勢を反転させる。女を仰向けになった自分の体に跨がせ、挑発するかのようにほほ笑みながら女を見上げた。
美しい顔に下から見つめられ、つい頬が熱くなる。すでに体中が熱く火照っているというのに、この男は表情一つ変えない。
あたしの体に、少しも興奮してないっていうの?――女はあまりの悔しさに、唇を噛みしめた。
「何だ、できないのか。王都の女といっても大したことはないな」
吐き捨てるように酷薄に言い放ち、男は女に馬乗りになった。そして瞬く間もない手早さで、男は豊満な女の体を乱暴に味わった。まるで、事務作業のように淡々と。
「つまらない女だ」
いつの間にか意識を失い、四肢をダラリと弛緩させて死んだように眠る女。顔立ちも美しく、男好みのする豊満な肉体だ。それでも、少しも興奮を覚えることのない自分に、男は諦めたようにため息を吐いた。
素早く身なりを整え、宿代の金をベッド際に残し、まだ眠ったままの女を置いて男は宿を出た。
澄み切った王都の朝の風が、漆黒の髪を揺らす。全身を黒の外套に包んだ男の姿は地味だが、腰に下げた長剣だけが異様な存在感を放っていた。馬に跨り、駆けるその姿。それはまるで疾風の如く、振り返りもせずただ一心に真っすぐ前へと突き進んでいた。
振り返ることなど、もうない。生まれ変わるのだ。今こそ己の運命を変える時。そして、手に入れられなかった全てのものを、この手にするのだ――そう決意し、宮殿への道を一心不乱に駆ける。
彼こそが、近衛連隊副官に上りつめた伝説の騎士、ジルダ・バシュレーだった。