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エメラルドの下僕  作者: 瑠愛
第一章
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副官への忠告

どうしたものだろうか。訓練が終わった後も、ロザリーは一向に姿を現さない。心配になったアーロンは、とうとうロザリーの執務室まで足を運んでしまった。

その扉の前で、はたと足を止める。こうして要らぬ心配をしても、おせっかいなだけなのかもしれないが…。アーロンは迷ったものの、幼馴染の変化が気になって仕方がなかった。今まさに、アーロンが扉をノックしようとしたその時だった。


「これはこれはアーロン様。どうされたのです?」


突然背後からかけられたその声にハッと振り返る。そこには、壁に背を預けこちらに視線を向ける近衛の副官の姿があった。ただ立っているだけで威圧感を抱いてしまうのは、きっとその長身のせいだ。近付けば、否応なく見下ろされてしまうのだから。


「ああ…バシュレー副官。ロザリーはいるかな?どうも今日は調子が悪かったようだから、心配になって様子を見に来たんだ」

「そうでしたか。隊長は今お休みになられていますよ。暑さで少し気分が悪くなったようです。後ほど私が城までお送りしますので、ご心配なく」


二コリと笑ってそう言ったジルダだが、アーロンはその笑みに明らかな敵意を感じた。初めて会った時からそうだ。無表情で、何を考えているかわからない。笑っているのに、全く温度が感じられない笑みだ。極めつけにその灰色の目は、他を遠ざけるような負の力があった。


「そう…。それはありがとう。どこか様子もおかしいような気がしたから、心配していたんだ」

「様子がおかしいと?」

「そうなんだ。話をしていても、なんだかまるでうわの空で。何か知らないかな?」

「…いえ、何も。気のせいでは?」

「いいや、僕にはわかる。長い付き合いだからね。ロザリーは昔から僕のことを能天気な男だと思っているようだけど。今じゃ僕も色々と責任を負う立場になったからね。大切な人の変化に何も気付かないような、無頓着な人間じゃない」


アーロンの言葉に、ジルダの眉がピクリと動いた。牽制し合っているかのような、張り詰めたような空気が包む。アーロンはその外見こそにこやかで大らかな雰囲気の男だが、昔から身内の事となると目を見張るような鋭さを持っていた。特にロザリーの事となると、なおさらだった。


「そうですか…。では、気にかけてよく見ておきましょう。上官の体調を配慮するのも、部下の務めですから」


ジルダは不敵に微笑み、アーロンを見つめた。有力貴族の跡取り息子らしく、毛並みの良いだけの甘やかされた腰ぬけかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。意外にも嗅覚が鋭い。恐らくは俺が彼女に手を出したことに感付いているのだろう。幼馴染か何だか知らないが、目障りだ――ジルダは敵意を剥き出しにアーロンを見下ろすが、打って変わってアーロンは大袈裟なくらいににこやかだった。


「ああ…安心だよ、優秀な人材がロザリーのそばにいてくれて。バシュレー副官、あなたは彼女にとてもよく尽くしてくれているらしいね。彼女の聡明さや人間的な素晴らしさを分かってくれる人がいるのは、僕としても嬉しい限りだよ」

「ええ、隊長の事は尊敬しております。だからこそ、懸命にお仕え申し上げているのです」

「それはよかった。…でもね、バシュレー副官。近付き過ぎるのも考えものだと思うんだ」


アーロンは表情こそ穏やかだが、それとは対照的にその声色はどこか威圧的で。そんな彼の態度にジルダは眉をひそめた。


「過剰なまでの忠誠心は、見る者に不自然な印象を与える。本当に、心から慕っているだけならばいいんだけどね」


ジルダがロザリーに対して抱いている複雑で強烈な感情。それは真っすぐで清らかなものだとは到底言えない。そこに見え隠れする歪んだものを、アーロンは見透かしていたのだ。


「あなたは彼女の部下だ。それ以上でもそれ以下でもない。バシュレー副官、くれぐれもそれをお忘れなきように」


そんな忠告を残し、アーロンは去って行った。その背中を見て、思わずクツリと笑ったジルダ。おまえのような卑しい者が、彼女に手を出すな――そう、言われているようだった。


近衛連隊の副官という地位は、容易に就けるものではない。それこそ地方のしがない子爵家の子弟にしてみれば、言わば大出世の域だった。ジルダが士官学校を出て騎士となった時、最初は衛兵隊の特殊部隊に配属させられた。しかし、その任務はほとんどが地方での盗賊の討伐などで、何か起こるたびに危険だらけの前線へ送られた。本来なら子爵家の子弟にとってはその程度が当たり前だが、ジルダは幸運にも数々の任務で大きな成果を上げ、晴れて王都に呼ばれ、近衛連隊へと移ることになった。衛兵隊と違って近衛連隊の幹部は、武術や実践ができるだけでは務まらず、王族を相手にできる者でなければならない。それこそ地方の子爵家の出身者が副官にまで昇進するなど、まさに異例中の異例。全く前例のない抜擢だった。

だからこそ、伝統を重んじる名家の者の中には、ジルダのことを疎ましく思っている人間もいた。豊富な実戦経験を持つ剣豪と言えども、所詮は子爵家程度の家柄の人間。軍の幹部として上に立つなど受け入れがたいと思う者もいるのだ。


アーロンはあからさまにジルダを否定しているわけではないが、育ちも家柄も良い彼だ。幼少から名家の家督を受け継ぐ者として特別教育を施されてきたぶん、無意識のうちに自尊心も大きく育つ。長い間刷り込まれてきたものは言動にも現れる。自分では卑下しているつもりはなくとも、自然と身分の低い者を見下すような振舞いになっているのだ。ほとんどの貴族はそうなのだろうが、そういうアーロンの態度が、ジルダにとっては気に入らないものだった。


執務室に入れば、窓際のソファに横になっている上官の姿が目に入った。リラックスしきった様子で、スヤスヤと寝息を立てている。その天使のような寝顔に、ジルダは思わず顔を綻ばせた。

わかっている。どれほど手に入れたいと望んでも、手に入らない人だ。自分には釣り合いなど取れない。そんなことはわかっていたし、最初から望んでなどいなかった。恋だの愛だの、そんな生ぬるい感情などではない。ただ、ロザリーのそばにいると、なぜだか不思議と楽に呼吸ができるのだ。自分が人間らしくいられる気がする。そんなことを思ったのは、初めてだった。


「全く。あなたは無防備すぎる…」


ジルダが側にいることさえ知らずに、眠り続けるロザリー。あれだけ辱められたはずなのに、警戒心など全くない。その無防備さに少し呆れながら、ジルダはそっとロザリーに自らの上着を掛けてやった。

長いブロンドの髪が、金色に輝いている。その神々しさに吸い寄せられるように、自然と手が伸びた。そっと掬い上げたひと束の髪。その柔らかさを堪能しながら、もう一方の手は彼女の白い頬に触れた。雪のように白く、滑らかな肌だ。そっと触れるだけで、あの日が蘇る。この手に犯されながら、甘い声をあげた彼女を。拒みながらも、快感に震えた体も。悩ましげに歪むその表情も、何もかも。全てが鮮明に瞼の裏に焼き付いている。その一つ一つを思い出すほどに、体の奥底から沸々と熱が上がってくるのを感じた。


「また襲われたいのか?あなたは」


邪な感情を抱く自分とは、正反対の天使のような寝顔。見れば見るほどに、この体は熱を覚えるばかりだ。理性を保つのも、そろそろ辛い…。

寸前の所で自分の理性を総動員し、自らの欲望を戒めるように彼女の額にキスを落とした。一度知った蜜の味は、もう忘れることなどできない。中途半端に味わったせいで、この胸に渦巻く欲望は膨らんでいくばかりだ。――ジルダはそんな自分に歯止めをかけるように、唇を噛みしめる。そして、まるで逃げるように背を向け、執務室を出た。


駆けこんだのは、兵舎にある自室だった。インテリアの一つもない、味気ない寝室に身を投げ出すように横たわる。軍服の首元を緩め、ようやく乱れた息を整えた。

大きく息を吐き、そして吸う。理性の届かなくなった自分の興奮を鎮めようとするが、自分の口から零れた吐息はさらに熱を宿している。脳裏に彼女を思い浮かべた。


「ロザリー、様……」


決して手の届かぬ女性(ひと)。だからこそ、思いは燃え上がる。どんな形でもいいから自分のものにしたい。無理矢理にでも、奪ってしまいたい。

どうやっても抑えきれない思いを瞼の裏に宿して、頭の中で何度も彼女を抱いた。構わなかった。その後に訪れる虚しさが、どれほど自分を苦しめようとも。


ジルダの中に芽生え始めた慕情は、少しずつその様相を変えていく。それは恋と呼ぶにはあまりに不純で、愛と呼ぶにはひどく歪な感情だった。


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