命懸けの行動
ジルダ・バシュレーにとって、女などただの性の捌け口にすぎなかった。ただでさえ女好きのする色男だから、昔から言い寄られることは多く、女に困るという経験など全くなかったのだが。誰か特定の女を好きになることも、恋人を作るということもしなかった。いい女を抱きたいとは思う。でも、それで欲求が満たされたとか、幸せな気持ちになれたということもない。事実、ジルダが初めて女を抱いたのは、初めて人を殺したその夜のことだった。
ジルダの生まれ育った北方の故郷は、隣国との国境付近に位置していた。その近くには、どちらの国に属することもなくその土地で長く活動してきた盗賊団がおり、領地に住む民の生活を度々脅かしていた。そんな領土を取り仕切る子爵家の養子として育ったジルダは、本格的に騎士となる以前より、度々盗賊の討伐に乗り出していた。だからこそ、人よりも多く実戦経験があり、数々の修羅場を生き抜いてきた。危険な目にだって何度もあった。もちろん、人を殺した経験も。そんな厳しい経験を積めば積むほど、人間の心は蝕まれる。ジルダにとって女を抱くという行為は、そんな経験をした後の興奮を鎮めるための手段でもあった。
しかし、王都は平和だった。経験のある出来のいい騎士たちが寄せ集められた憲兵隊が、常に王都を厳戒態勢で警備している。体がなまって仕方がないほどだ。そんな生ぬるい生活では、女を抱く理由もまた暇つぶしぐらいに過ぎない。王都の女は田舎娘と違い、いい女が多いと聞いていたから、最初は興味本位だった。それこそ安酒場に出入りする娼婦から、高貴な貴族のお姫様まで。美しく魅力的な女は数多くいたが、だんだんと興味も失せた。そう、きっと比重が大きくなったのだ。ジルダの中で、ロザリーの存在が大きく重くなるほどに、次第に女遊びなどに身を投じることもなくなった。ロザリーを前にすると、なぜかそこらの女がひどく安っぽく思えてしまったのだ。
どうしてだろうか。同じ女に代わりないのに。小生意気なだけの、ただの小娘なのに。
ジルダは自らの心境の変化を不思議に思いながら、並んで馬に跨るロザリーの横顔を眺めていた。
今夜はとある伯爵家で舞踏会が開かれており、フローラ王女がそこへ参加することになっていた。その警護のため、王女の乗る馬車にピタリと寄り添いながら、ロザリーはジルダや部下の騎士達と共に馬を走らせていた。その伯爵家の城へ向かうためには、安全な王都の中でも比較的治安が悪い城下町を通らなければならない。どれほど平和な都と言えども、その場所に差し掛かる頃にはさすがに騎士たちの間に緊張感が走る。ロザリーは馬車のすぐ横に張り付き、辺りを強く警戒していた。
街路が入り組んだ城下町に、薄暮が迫る。風に揺られるロザリーのブロンドの髪が、夕日に照らされてキラキラと輝いていた。白馬に跨り、こうして任務を遂行している時の彼女は、とても勇ましく見える。騎士などにならなければ、王女のように華やかに着飾り、毎夜舞踏会へ繰り出す呑気な生活を送っていたものを…。斜め前を走るロザリーを眺めながら、ジルダがそんなことを思ったその時だった。
「危ない!道を開けろ!王女殿下のお通りだぞ!」
声を上げたのは、王女の乗る馬車の手綱を引いていた御者だった。馬車がようやくすれ違うことができる程度のこの狭い路地に、突然小さな少女が飛び出してきたのだ。御者は声を上げて少女を退かせようとするが、迫り来る馬車に驚き少女は足がすくんでしまっていた。こちらが避けようとすれば、馬車は急ブレーキをかけなければならない。しかし、それでは王女の身に危険が及ぶ。御者の頭には、避けるという選択肢はなかった。如何なる時も、王女の身を守ることが最優先なのだ。
ダメだ。このままでは撥ねられる。小さな子供の体ではおそらく助からないだろう。気の毒だが…。馬車の背後に位置していたジルダはただ見守るしかできず、その後の衝撃を避けるための行動に移ろうと、冷静に手綱を引いたその瞬間のことだった。
スピードを上げ、馬車の前に躍り出たのはロザリーだった。あろうことか手綱を離して、馬上から立ちすくむ少女へ自らの手を伸ばしている。
まさか、あの子供を救おうとしているのか?――ロザリーの予想もしない行動に、ジルダは唖然とした。
しかし、あの状態で少女を抱き上げるなんて不可能だ。間に合わない。バランスを崩して地面に叩きつけられてしまう。そうすれば二人とも、背後に迫った馬車に轢かれてしまうだろう。想像した悪夢に、ジルダは頭が真っ白になった。
「隊長――…!!」
ただ、叫ぶことしかできなかった。迫り来る次の光景に目を覆いたくなる。御者さえも悲鳴を上げて身構えた、そんな時だった。
誰もがダメだと思った瞬間。ロザリーはまるで自ら身を投げ出すように、少女に手を伸ばしながら馬から飛び降りた。そして、しっかりと両手で少女の体を抱きとめ、背後に迫る馬車を避けるように地面に落ち、そのまま路地の端へ転がったのだ。一瞬の出来事だった。間一髪で馬車を避けたロザリー。そのまま走り過ぎた馬車は、数メートル先でようやくスピードを落として止まった。
「隊長!ご無事ですか!?」
慌てて馬から降り、ジルダはロザリーに駆け寄った。ロザリーは未だ路地の隅で横たわったまま動こうとしない。が、その腕の中にはしっかりと小さな少女が抱きとめられていた。駆け寄ってきたジルダを茫然と見上げた少女。しかし、彼女を庇うようにして地面に叩きつけられたロザリーの瞼は、動くことなく固く閉じられていた。
一瞬、ジルダは目の前が真っ暗になった。地面を転がったせいで所々破れている軍服。剥き出しになった腕や足は傷だらけで血が滲んでいた。悲惨なロザリーの姿を目の当たりにして、ジルダは絶句した。何とか馬車を避けることができたとはいえ、体は地面に叩きつけられて全身を強く打ったはずだ。その衝撃で気を失ったのか。それとも、まさか――…!?
「隊長……!」
ジルダは膝を付き、力無く横たわるロザリーの上半身を抱き起こした。乱れたブロンドの髪を掻きわけて、白い頬に触れる。目を閉ざしたままのロザリーに不安を感じながらも、体を揺するとようやくピクリと眉が動いた。
「隊長!分かりますか!?」
長い睫毛が揺れ、エメラルドの瞳がジルダを映した。いつもと変わらぬその瞳の輝きに、ジルダはほっと胸を撫で下ろす。そんなジルダの表情を目の前に、ロザリーはハッと我に返って身を起こした。しかし、
「痛っ――…!」
体に力が入らない。あちこちが痛み、思わず顔を引きつらせるロザリー。それもそうだろう。全身傷だらけで血塗れの、ひどい有様だ。自分ではそれに気付かないロザリーは、それでも少女の姿を探して辺りを見回した。
「無理に動かないで下さい。子供は無事ですので」
ジルダの声が耳に届いたその時、隣でガタガタと体を震わせる少女の姿が目に入った。ロザリーは全身を襲う激痛に耐えながら、彼女の姿に安心して胸を撫で下ろした。
「良かっ…た……」
何とか助かったんだな…。
ロザリーは安堵し、ようやく力を抜いて背を後ろにいるジルダに預けた。そんなロザリーの様子にジルダはほっとすると同時に、呆れた。良かったなどと安堵している場合じゃない。下手をすれば死んでたというのに。このような子供一人のために、危険を顧みずに馬から飛び降りるなんて。いったい何を考えているのだろうか。近衛連隊の隊長ともあろう人間が、あまりにも向う見ずすぎる。こっちは心臓が止まるかと思ったのに――……
そこまで考え、ジルダはハッとした。
心臓が止まりそうなくらい、心配していた…?柄にもなく、何をこんなにも取り乱しているのだろう。未だにバクバクと激しく音を立てる自分の心臓に、ジルダは信じられない思いだった。一瞬、死んだかと思った。ただそれだけでこんなにも、自分を見失いそうになるほど焦るなんて。それこそ自分が死の危険を感じた場面でさえも、冷静さを失ったことはなかったというのに…。
経験したことのない感情が湧き出てくることに、ジルダは戸惑いながらロザリーの肩を抱いていた。
しかしながら、当の本人は少しも自分の傷を気にすることもなく、安心したように少女に笑顔を向ける。震える少女は目を潤ませなら、そんなロザリーに頭を下げていた。
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ…!」
「謝らないでいい。大丈夫だから。それよりケガはない?痛いところは?」
優しく問いかけるロザリーに、少女はブンブンと首を横に振る。「良かった」とロザリーは手を伸ばし、少女の頭を優しく撫でた。そんな二人の様子を前に、馬車の御者台から降りてきた初老の御者は、険しい顔で少女の全身を見回していた。色褪せたボロボロの衣服、縺れた髪。貧しい身なりだ。恐らくは貧しい労働者の子供か、または孤児か。いずれにしても、このような取るに足らない子供ひとりを、なぜ危険を冒してまで助けるのか。御者にはロザリーの行動が不思議でならなかった。
「全く、いったいどこを見て歩いているのか。王女様の身に何かあれば大変なことだった。しかし、隊長殿。このような町娘ひとりに命を投げ出すなど、伯爵家のお嬢様がなさることとは思えません。どうか自分の命を大切になさってください」
窘めるような言葉ではあるが、ロザリーの身を案じて言った言葉だった。しかし、ロザリーは凛とした表情で、そんな御者の言ったことを真っ向から否定したのだ。
「違う。それは違う。町娘でも、伯爵家の令嬢でも、命の重さは皆同じだ。飛び出してきたのが誰であっても、私は助ける。町娘ひとりであれ、命は軽んじるべきものではない」
そう言って、少女へ優しく微笑みかけたロザリー。彼女が着ている薄汚れた服など気にすることもなく、ロザリーは怯える少女をそっと抱き締めた。
そんなロザリーを前に、御者はもう何も言わなかった。言えなかった。ロザリーの言葉に、自分がひどく恥ずかしくなったのだ。
伯爵家の生まれでありながら、ロザリーは物事の本質を正しく見極める力があった。決して偏った価値観に流される人間ではない。身分や家柄によって、相手を判断することもない。誰でも分け隔てなく、そして等しく接する。どんな状況にあっても、その信念を貫く人間だ。馬車の前に飛び出した憐れな少女を、一瞬の迷いもなく自らの命を懸けてでも救おうとする。少しでも迷えば救えない場面で、自分の心が決めた決断を瞬時に行動に移すことができる。それがロザリー・ディノワールという人間なのだ。
『命の重さは皆同じだ』
この場にいる誰もがそんな彼女の言葉に驚き、心を打たれていた。そして誰よりも、ジルダが一番その言葉の重みを肌で感じていた。
少しずつ、このロザリーという女の――いや、人間の本質が、ジルダにはわかってきた気がした。彼女が放つ言葉ひとつ、行動ひとつ。その全てがなぜか胸を熱くさせる。きっとロザリーには、人と違う何かがある――ジルダは自分の生い立ちを思うと、その胸に熱いものが込み上げてならなかった。




