副官の火遊び
「まぁ、ロザリー。お久しぶりね」
小鳥が鳴くような愛らしい声が、宮殿の中庭に響いた。むせ返るほどに濃厚に立ち込める、薔薇の香り。色とりどりの花々が咲き乱れるこの美しい庭園は、王女フローラのお気に入りの場所だった。
「ご機嫌はいかがでしょうか。フローラ様」
「とってもいいわよ。それに嬉しいの。ロザリー、あなたが私の護衛部隊としてこれからそばにいてくれるんだから」
華やかな黄色のドレスに身を包んだ美しい王女は、頬を紅潮させてロザリーの手を握った。
ロザリーよりも幾ばかりか若い王女は、国王にとって最愛の末娘だった。姉である他の王女たちはすでに嫁ぎ、今や王室に残る王女はフローラただ一人。その愛らしい顔立ちと明るい性格は、親しみやすく誰からも愛される。王が溺愛する娘の護衛に、だからこそ女隊長であるロザリー自らが抜擢された。伯爵家の令嬢であるロザリーと王女は、幼い頃から何度も顔を合わせた仲だ。国王の信頼が厚いロザリーを筆頭に、近衛部隊の中でも特に武術に長けた数名の精鋭が王女の護衛として王に任命された。
「堅苦しいご挨拶はここまでよ。昔みたいに友達のように接して頂戴ね、ロザリー」
「そうはいきませんよ。私はもう、近衛連隊長という責任ある立場にいるのですから」
「まぁ、ロザリーってばすっかり軍人っぽくなっちゃったわね。…そんなことより」
クスクスと笑いながら、フローラはそっとロザリーの耳元で囁いた。
「あなたの副官、噂に聞いたけれどとっても素敵な騎士なんですってね」
「はぁっ!?」
ギョッとして声を上げたロザリー。しかし、フローラは興奮した様子で続けた。
「とっても強いんでしょう?北方の盗賊を討伐した時には、一人で百人を相手にしたっていうじゃない」
「は、はぁ…まぁ、それは」
「しかも、まるで異国の王子のような風貌の美男子なんですってね。それこそ、全国各地に恋人がいるくらいのプレイボーイだっていう噂じゃない」
「プ…プレイボーイ?」
何だそれは。というか、いったいどこから仕入れた噂なんだ?
思わずロザリーは顔を引きつらせた。
「そうなの!聞いた話ではね、彼がこの王都に来てから、一夜を共にした若く美しい町娘たちは数知れず。舞踏会が行われれば、貴族の娘たちさえも競うように彼を誘いだしてるんですって」
「フローラ様…そんな噂、いったいどこで?」
「噂話好きな貴婦人たちが教えてくれたのよ。舞踏会では彼の話で持ち切りなんですもの」
毎夜毎夜、舞踏会に明け暮れる貴婦人達も暇なことだ。恐れ多くもこの国の王女ともあろう方に、何てバカバカしい話をするのか。
……そして、あの腹黒副官め。知らぬ間に舞踏会などに出て、女たちに手を出しまくっているなどとは。あんなふうに私を誑かしておきながら、何と不埒な男だろう。今後一切、あの男の言うことなど信じないし、絶対に惑わされないぞ。
ロザリーは軽く頭に血が上るのを感じながら、浮かれた噂話を好む年頃の王女をたしなめるように言った。
「フローラ様。どれほどご興味がおありでも、決してあの男には近づかないでください。あれは女たちを毒牙にかけて手籠にする色狂いにございます。もし万が一、フローラ様に危害を加えなどしたら…」
「心配しすぎよ、ロザリー。どんな美麗な男性か、この目で少し見てみたいだけなのよ」
「しかし…!」
「私だってちゃんと心得ているわ。いつかはこの国のため、嫁がなければいけない身であること。それが王家に生まれた女の宿命ですもの。でも、見知らぬ誰かのものになる前に、少しくらいは人を好きになるという体験をしてみたいの。それがたとえ、偽物の恋だとしても。ねぇ、ロザリー。女性であるあなたならわかってくれるでしょう?自分の人生を全て、国のために捧げなければならない運命の悲しさを」
王女に悲しげな顔でそう言われると、ロザリーは何も言い返すことができなかった。
伯爵家の生まれであるロザリーも、身に沁みてわかる。自分は父の反対を押し切り、騎士となったが。普通なら貴族の娘に生まれれば、家の繁栄と存続のために政略結婚を強いられる運命だ。それなのに、自分は生きたいように生きている。恵まれているのだ。この世に生を受けた瞬間から、王女としての宿命を背負わされることがどれほど辛いことか、想像すれば尚更厳しいことを言えなくなる。
ロザリーはしぶしぶ、王女の願いを受け入れた。
その日の午後に、ロザリーはジルダを連れて宮殿の応接間に向かった。すでに待ち構えていた王女は目を輝かせ、ジルダの元へ歩み寄る。まるで恋する乙女かのようなキラキラした笑顔で。
「王女殿下。お目にかかれて光栄でございます」
まるで貴公子の如く、膝を付いて王女の手の甲に挨拶のキスを落とすジルダ。浮かべた優しげな笑みにすっかりフローラは気を良くしてしまっているが、そばで見ていたロザリーは相変わらずの胡散臭さに顔をしかめずにはいられなかった。
「あなたの噂は聞いているわ、バシュレー副官。優秀な騎士がそばにいてくれると私も安心よ。これからよろしくお願いしますね」
「承知いたしました。全力でお守りいたします」
甘い笑顔を向けられ、すっかり王女はジルダの虜だ。愛想のいい顔をしていても、腹の底では何を考えているかわからないくせに。ロザリーは、なぜだかジルダの行動ひとつひとつが腹立たしくてならなかった。
「何をそんなに怒ってらっしゃるんです?」
王宮を後にして執務室に戻ってきた二人。ジルダはどこかそっけない上官の態度を不思議に思い、率直に問いかけた。
「別に、何も怒ってなんかいない」
「ですが」
「怒ってるわけじゃない!ただ、おまえはつくづく嘘つきな男だと思っただけだ」
「は?嘘つき…?」
「おまえ、夜な夜な町娘や貴族のご令嬢をとっかえひっかえしてるらしいじゃないか。舞踏会でご婦人方の噂話のネタになってるぞ」
呆れたように放たれたロザリーの言葉に一瞬驚いたジルダだが、なぜかすぐに意味深な微笑を浮かべた。
「そのことで、怒ってらっしゃったんですね」
「だから怒ってなどいない!ただ、呆れているんだ。近衛連隊の騎士ともあろう者が、そんな情けない噂話を立てられて恥ずかしくないのか?それに、そんなに女をとっかえひっかえしていたら、いつか恨みを買って痛い目に合うぞ」
「心配してくださっているのですね。でも、大丈夫です。火遊びは火事にならない程度におさめるよう、昔から心得ておりますので」
「そういう問題じゃない!」
ああ、なぜだか無性にイライラする。どこか余裕ぶった冷めた態度が腹立たしくてたまらない。だけど、どうしてこんなに苛立つのか。正直よくわからない。こんな男のことなどどうでもいい。放っておけばいいことなのに。
ロザリーはこの男のことで振り回される自分さえも、腹立たしく思った。
しかしジルダは、露骨に機嫌の悪さを顔に出すロザリーに、笑みを零さずにはいられなかった。
もっと怒ればいい。もっと心配すればいい。自分のことで頭がいっぱいになってしまえばいい。ジルダにとって、ロザリーの感情がどんな形であれ真っすぐに自分に向けられていることが、何よりも心地良かった。
しかし、当のロザリーは未だ気付いていなかったのだ。
「隊長、ご安心ください。今の私はあなたのお世話で手がいっぱいです。あいにく他にうつつを抜かしている暇などございませんので」
「わ…悪かったな、手のかかる上官で!」
ジルダの言葉ひとつで、一喜一憂してしまう。ロザリーはそんな自分が苛立たしくてならなかった。それこそが、ジルダの思うつぼだとは知らずに。
いつの間にかジルダの思うように外堀を埋められていることに、ロザリーは未だ気付いていなかった。




